SSブログ

古池や──栗田勇『芭蕉』から(16) [芭蕉]

 書評の仕事からも手を引いたし、翻訳の仕事も終わったし、これからは読み残した本を読みたいと思っている。
 まずは、途中でやめてしまった本に戻るのが、いちばん手っ取り早い。そこで、栗田勇の『芭蕉』に戻る。例によって、むずかしい話ははしょる。すぐ何もかも忘れてしまうボケはじめ老人の読書メモである。ゆっくり気ままな読書だから、期待は禁物。
 さて、前回まで6回にわたって、芭蕉が貞享元年(1684)8月から翌年4月にかけ、8カ月間、故郷、伊賀上野や吉野、大和、美濃大垣、京都、大津、名古屋などを周遊し、江戸の芭蕉庵に戻ったところまでをまとめてきた。『野ざらし紀行(甲子吟行)』に記された旅である。
 次にふたたび長い旅に出る貞享4年(1687)10月まで、芭蕉は2年半ほど江戸にいる。ただし、一度、鹿島神宮に詣でる小旅行に出かけている。
 今回は、栗田勇の『芭蕉』を読みながら、その2年半をふり返ってみることにする。
 じつは『野ざらし紀行』が完成したのは、実際の旅が終わってから1年半近くたった貞享3年(1686)秋のことだという。江戸に戻った芭蕉は、時間をかけて、推敲を重ねていたのだろう。
貞享3年に、芭蕉は43歳。その「あとがき」を記したのは、漢学者でもあり俳人でもある親友の山口素堂だった。
 素堂はこの吟行で秀逸は「道のべの木槿は馬に食はれけり」と「山路来て何やらゆかしすみれ草」の二句に尽きると断言する。たしかに、はっとする句にちがいない。しかし、前に見てきたとおり、ほかにもいくつか秀句はある。
 素堂は芭蕉とは古くからのつきあいだ。芭蕉庵ができたのも素堂の尽力と支援のおかげといわねばならない。
 山口素堂(1642〜1716)は現在の山梨県北杜市に生まれ、酒造業を弟に譲り、江戸に出て、林家の塾にはいった。一時、仕官したものの、38歳で上野不忍池のほとりに隠栖した。のちに官の要請により甲府濁川の治水工事をゆだねられ、功績を挙げるのは、まだ先のことだ。
 芭蕉の2歳年上で、俳友である。荘子にも造詣が深い。深川にも屋敷があったようだ。
 栗田勇は、「野ざらし」の旅で、芭蕉は風雅から風狂へと、さらに境地を深めたと書いている。
 これはどういうことだろうか。
「風雅」が身を世間の上におき、超俗の気配をただよわすのにたいし、「風狂」は身を世間の下におき、脱俗をめざすととらえればいいのだろうか。語弊があるかもしれないが、芭蕉はいわば精神のホームレス、さまよい人になろうとしていた。
「野ざらし」の旅の記録『野ざらし紀行』が完成する年の春、芭蕉庵では、のちに『蛙合(かわずあわせ)』として刊行される句会が開かれた。
 このときの巻頭句が、

  古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音

「この句は芭蕉が孤独のなかで、沈思黙考、呻吟苦吟してひねり出されたものではなく、なんと参加者は門下、知友、40名、しかも衆議判によって進められたという事情を考えると、面白い」と栗田は書いている。
 衆議判とは、参加者がこぞって歌の優劣を論議するやり方をさすらしい。さぞかし、にぎやかな句会だったろう。
 そのなかで、冒頭に出された芭蕉の句。それは事前に準備されていたものかもしれないが、どことなくユーモラスで、動きもあり、楽しげでもある。古池の音から、蛙の表情までイメージが広がっていく。
 素直な句であり、どこにも深遠さなどないようにみえる。しかし、やはり脱俗の響きが感じられないだろうか。
 芭蕉の目は世間の底に向けられている。その耳は底の音を聞くことに集中している。
 その場所に自分をおくこと。世間の底とは、人の世を包む自然といってもよい。
 世間という空間と時間を超えて、芭蕉はどこかに向かおうとしている。
 江戸に戻った芭蕉は、連日の句会で忙しい。ひっぱりだこといってもいいくらい、人気の宗匠だった。その多忙なイベントが芭蕉の生活を支えている。
 8月15日には、芭蕉庵で月見の会が開かれた。其角(きかく)、仙化(せんか)、吼雲(こううん)らと隅田川に小舟を浮かべて、それぞれ句を詠んだ。あたためた酒を飲みながら、舟を川の流れにまかせ、満月が川に映るのを九つ(いまの夜中の12時)まで楽しんだという。
 そのときの芭蕉の句。

  名月や池をめぐりて夜もすがら

 一見楽しげな句だ。しかし、栗田は、この一句を、芭蕉が「池に映る月に、認識を超えた存在感にとりこまれ、鬼気迫るものを感じた」と評する。
 池に映る月に、「鬼気迫るものを感じた」とは、いったいどういうことなのだろう。
月は人の心を映す鏡でもある。その月は天空高く輝いているだけでなく、すぐそばの池にも降りてきているのだ。
 人の世ははかない。生死のあわいに、たちまち消えていく。それを月が見守っている光景は、ある意味シュールであり、「鬼気迫る」ものととってもよいのかもしれない。とはいえ、深い諦念のうちに人の世のはかなさを思う芭蕉は、やはり達観し、どこか楽しげにもみえる。
 翌、貞享4年(1687)8月14日、芭蕉は鹿島神宮参拝の旅にでる。
 その主要目的は、芭蕉の師ともいうべき鹿島根本寺の元住職、仏頂和尚と会うためだった。仏頂はいまは隠居し、根本寺内の長興庵に住んでいる。芭蕉としては、共に月見をしようともくろんである。
 8月14日、芭蕉は曾良(そら、1649〜1710)、宗波(そうは)とともに深川を出発し、舟で行徳に向かい、行徳から陸路、現在の鎌ヶ谷に。鎌谷(かまがい)の原から、はるかに筑波山をのぞんだ。
ようやく、ひと休みできたのは、利根川ほとりの布佐(ふさ)に着いたときのことだ。昔の人はほんとうによく歩く。ちなみに布佐は、柳田国男が少年時代をすごした場所でもある。
 同行した宗波は本所、定林寺の住職で、仏頂和尚とゆかりがあったのだろう。注目すべきは、ここに曾良の名前があることだ。岩波曾良は上諏訪出身で、芭蕉より5歳年下。2年前の冬に芭蕉の門下となり、芭蕉庵の近くに居を構え、何くれとなく芭蕉の世話をしている。のちに『おくのほそ道』の旅にも同行することになる。
 布佐から先はというと、この旅の記録『鹿島紀行』に芭蕉はこう記している。例によって、現代語訳で。

〈日が落ちたころ、利根川のほとり布佐というところに着く。この川では網代(あじろ)を工夫してサケをとり、江戸の市場で商売している者がいる。宵のうち、その漁師の家で休ませてもらった。夜の宿は生臭い。月がくまなく晴れわたるのにまかせ、深夜、舟をださせて、川を下り鹿島にいたる。〉

 利根川をサケがさかのぼっていたというのも驚きだし、江戸の魚市場にサケをおろして商売していたというのもおもしろい。
 当時、鹿島へは利根川をくだるのが、いちばん便利なルートだったこともわかる。
 ところが、雨が降ってきた。これではせっかくの月見も期待できそうにない。鹿島に着いた芭蕉は、何はともあれ、城山のふもとにある根本寺に向かった。元住職、仏頂は、そのなかの隠居所、長興庵で暮らしている。

〈あかつきの空が少し明るんできたので、和尚に声をかけると、驚かれた様子で、それから人びとが起きだしてきた。月の光、雨の音、ひたすら感動的な景色ばかりが胸に満ちて、いうべきことばが浮かんでこない。はるばる月を見にきたというのに、その風流が味わえないのは残念なことだ。しかし、何とかいう女人[清少納言]でさえ、ホトトギスの歌を詠めぬまま帰途についたのを悔やんだというから、私にとっては、心強い味方がいたといえるかもしれない。〉

 久方ぶりに仏頂と会った芭蕉は、感極まっている。月見は後回しでよいのだ。
雨が次第に上がってきた。
この夜の月見で、芭蕉は一句詠んでいる。

  月はやし梢は雨をもちながら

 これにたいし、和尚はこう返した。

  おりおりにかはらぬ空の月かげも
   ちぢのながめは雲のまにまに

 流れる雲が早いので、月がまるで走っているようにみえる。地上では木々の梢が、雨のしずくを垂らしている。芭蕉はそう詠んだ。
 これにたいし、和尚はこう答えた。空の満月はいつも変わらない。その姿が変わるようにみえるのは、雲が動いているからだ。
 まるで禅問答のよう。人の欲や迷いを一喝したものともとれる。
 しかし、それよりも何よりも、芭蕉は仏頂と再会できたのがうれしかった。人の命は短い。別れもまた永遠である。だからこそ、再会は、ともに生きている喜びと感動をもたらすのだ。芭蕉はそう感じたにちがいない。
 歌はいのちのあかしである。

nice!(11)  コメント(0) 

nice! 11

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント