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あのころ吉本がいた(1)──吉本隆明『情況』から [われらの時代]

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 これも図書館で借りた本だ。
『吉本隆明全集』(晶文社)の第11巻に収められた『情況』をぱらぱらとめくってみる。
『情況』が河出書房から発行されたのは1970年11月。1969年3月号から1970年3月号まで、雑誌『文芸』に連載されたものをまとめ、単行本としたものだ。  
買わなかったものの、書店で立ち読みした記憶がある。
内容は、大学紛争から思想論、都市論、国家論、芸能論まで多岐にわたる。
 吉本隆明(1924〜2012)はむずかしい。これまでけっこう読んできたが、難解な部分は飛ばしていた。雰囲気だけで満足していたきらいがある。自分の頭の悪さを棚に上げて言うのはなんだが、おそらくぼくの周囲では、だれもがそうだったのではないか。
 吉本の思想を完全に理解するのは、これからもたぶん無理だと思う。ぼくの頭ではとても無理だ。しかし、われらの時代、吉本は時代の情況(これも吉本語)を反射して光り輝くミラーボールのような存在だったのだ。
 1969年1月、学生によって占拠されていた東大の安田講堂が、機動隊によって解除された。
 あの日はテレビ中継もあったので、はっきりとは覚えていないけれど、ぼくもたぶんどこかの喫茶店で、その様子をみていたのではないか。
 吉本はこんなふうに書いている。

〈わずかひとりの大学知識人の挙動によってでもよいから、戦後民主主義が思想として定着した姿をみることができれば、というわたしの願望は空しかった。大学教授研究者たちがみせたのは、戦後民主主義の予想できる最悪の姿だったといっていい。かれらは急進的な学生たちのごくあたりまえの要求を、まるで異邦人の言葉のように仰天してきき、はじめは脅しによってなだめようとし、それが不可能と知ると、なし崩しに学生たちの要求をうけいれるようなポーズをとり、それが拒否されると臆面もなく機動隊のもつ武装した威圧力を導入して、事態を技術的にだけ収拾しようとしたのである。〉

 大学当局は、学生たちと徹底的に話し合おうともせず、ただ事態を実務的に収拾するために、みずからの権威を守りつつ、機動隊を導入し、学生たちを排除した。
 吉本にいわせれば「封建時代の寺子屋の師匠さえ、じぶんの教え子を権力の手をかりて排除して寺子屋の存続をはかるような真似はしなかった」。神経を疑われるのは、学生より教授側だった。
 大学当局に抗議して安田講堂にこもる学生を排除するため、大学が機動隊を導入したのは、いつもどおり東大の入試をおこなうためだった、と吉本は書いている。

〈東大紛争の過程で、加藤一郎、大内力、坂本義和、篠原一、寺沢一らは、かれらの思想的な同類とともに、戦後民主主義の思想原理をじぶんの手で最終的に扼殺したといいうる。かれらは東大入試決定の期限切れという、それ自体が全社会的には三文の価値もない問題を焦慮するあまり、学生同士の流血の衝突を回避するため、という名目をつけて、機動隊の武装力を要請して全共闘の急進的な部分を制圧し、日共系学生たちの寝返りにたすけられて、機動隊の保護下に学生集会を開き、事態を技術的に処理しようと試みた。入試を実施するか否かという問題は、東京大学の学内問題ではありえても、大学紛争の本質とはなんのかかわりもないことである。またそこには一片の思想原理的な課題も含まれえないことは明瞭である。はじめに、大学紛争の本質的な課題を解決するポーズで登場したかれらは、束の間のうちに東京大学さえ存続すれば、ほかのことはどうなってもいいという破廉恥漢に変貌した。〉

 長々と引用してしまったが、あのころ吉本が言うことは、きわめてまっとうだと思えた。
 吉本の批判は、東大紛争にまったく知らぬ顔を決め込んでいた丸山眞男にも向けられていた。
 丸山は学生たちによって、自分の研究室が荒らされたとき、それを「ナチスも日本の軍国主義者もやらなかった暴挙だ」といきどおった。しかし、吉本はそのいかにももったいぶった言い方に、学者の権威主義のにおいを感じ取る。いままで学生の行動をばかにして、学生と一度も話しあおうとしなかった丸山が、学生に研究室を荒らされたとたんに、「ナチス」や「日本の軍国主義」を持ちだすのは、笑止千万ではないかと批判するのだ。
 だが、吉本がはたして大学闘争を支援していたか、さまざまなセクトや全共闘を支持していたかというと、おおいに疑問が残る。
 当時、新左翼のあいだでは、ヘルベルト・マルクーゼの思想が持ちあげられていた。
 マルクーゼは、抑圧されている(もっと正確にいうと「抑圧的寛容」をこうむっている)少数者には非合法手段を使っても、体制に抵抗してもよい「自然権」があると唱えていた。
 もうひとつ、マルクーゼが考えたのは、実現されるべき社会主義は、生産力の発展の延長上にあるわけではなく、「美的─エロス的質」が実現される社会でなければならないということだ。
そこでは経済面の平等性だけではなく、「技術と芸術、労働と遊びの一致」がみいだされなければならない。
平たくいってしまえば、社会主義においては、経済的な平等と豊かさだけではなく、美しさと喜びがもたらさねばならない、とマルクーゼは考えていた。つまり求められるのは、「エロス的文明」の実現である。
 吉本はこういうマルクーゼ(あるいはサルトル)の思想に同調していない。むしろ、そこに違和感を覚えていた。
『情況』のなかから、引用しておこう。

〈わたしたちは、現在、奇妙な思想的傾向につきあわされている。そしてこの傾向は、ビート族やヒッピー族の感性的な解放天国の思想から、アナルコ・サンディカリズム的なものをへて、大衆を無智にとどまらせることでしか成立しない毛沢東思想にまでわたっている。〉

 ヒッピーにも可能性はないが、大学解体や工場の自主管理なども無意味だ。根拠地の思想や武装闘争、文化大革命にも未来はない。
 吉本はたぶんそんなふうに感じていた。その予感はあたる。
 自身の発行する参加自由型の個人雑誌『試行』27号後記(1969年3月)に、吉本はこう書いている。

〈大学紛争はあれよあれよという間に一挙に両極分解にまできてしまったようにみえる。その過程でわたしたちが希望した教師たちの市民民主主義と学生達の急進主義との思想的な対決のすがたは、とうとうみられないままに、紛争は全国的な規模でひろがっていった。分解した両極には臆病なアカデミズムの壁にしゃにむに閉じこもってしまった教師たちの像と、政治運動も社会運動もお構いなしにごっちゃにして、政治主義的に頭脳を単純化してしまった急進的な学生たちの像がのこされた。〉

 新左翼なるものに、吉本は何の共感も幻想もいだいていない。
 1968は何も残さなかったのだろうか。
 そうだったかもしれない。
しかし、いまふり返れば、ぼくにとって、1968はやはり出発点だったなと思わないわけにはいかない(その後のぐうたらな生活を考えれば、えらそうなことはいえないが)。
そして、じつは、吉本もまた60年安保闘争の水脈を通じて、1968とつながっていたのではないだろうか。
 それは反乱の夢であった。正義を求める夢であった。
新しい社会、新しい国、新しい世界をつくる夢であったといってもよい。
熾火(おきび)のように、その夢は残った(たとえむなしい夢だったとしても)。
 吉本はロシア・マルクス主義(スターリン主義、毛沢東思想を含む)のえがく世界像を拒否し、大きく言えばアジア的といえる天皇制国家をフェードアウトさせ、資本主義を超える方向性を探りつづけた。
 その思想の軌跡を時折ふり返ってみたくなる。さながらドン・キホーテにしたがうサンチョ・パンサみたいに。

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