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『ホモ・デウス』を読む(1) [本]

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『サピエンス全史』については、本ブログで以前紹介したことがあるが、今回は同じ著者による評判の本を取りあげてみることにする。
 ホモ・サピエンス(賢い人)と呼ばれる現世人類が、これまでどのような歴史を歩んできたのかをふり返ったのが前著だとすれば、本書はその人類がホモ・デウス(神の人)に進化しつつあることを示そうとしている。
 例によって、少しずつしか読めない。きょうは序論ともいうべき第1章をまとめてみる。
 最初に著者(ユヴァル・ノア・ハラリ)は、人類のこれまで変わらぬ悩みは、飢餓と疫病と戦争だったと書いている。しかし三千年紀(紀元2001〜3000)にはいったいま、人類はこれまでのそうした悩みを克服しつつあるという。
 ほとんどの国では、実際に飢え死にする人は少なくなった。むしろ、過食のほうが飢饉よりもはるかに深刻な問題になりつつある。
 疫病や感染症にたいしても、20世紀の医療は空前の成果を挙げた。ペストや天然痘、インフルエンザはもはや脅威ではなくなり、エイズやエボラ出血熱などの新たな感染症に対処することもできるようになった。
これからも新たな病原菌が出現する可能性はあるが、けっして悲観するにはおよばない。「自然界の感染症の前に人類がなす術もなく立ち尽くしていた時代は、おそらく過ぎ去った」と著者はいう。
 20世紀後半以降、戦争はかつてないほど稀になった。核兵器が戦争の恐怖を思い起こすいっぽう、わざわざ戦争をして土地や資源を奪い取る必要もなくなったからだ。国を豊かにするには、戦争より交易のほうが有効であることを人類は学んだ。
サイバー戦争やテロがおこる可能性は残っている。だが、それによって大規模な世界戦争が発生することはまずない、と著者は断言する。
 飢饉と疫病と戦争をもはや自然や神のせいにするわけにはいかない。「私たちの力をもってすれば、状況を改善し、苦しみの発生をさらに減らすことは十分可能なのだ」
 人類の活動が地球の生態系を破壊し、ひいては人類そのものを危険にさらしつつあることは事実だ。だが、それでも、人類はとどまることはなく、さらなる進化をめざそうとするだろう。その方向を著者はホモ・サピエンスからホモ・デウス(神の人)への進化と名づけている。
 これからの人類のプロジェクトのひとつは、不死への戦いである。
 人間はいまや生命を技術的に処理しうるようになった。がんやアルツハイマー病はまだ克服されていないが、結核がそうだったように、それが克服されるのも時間の問題だ。腎臓や網膜や心臓も移植できるようになっている。
遺伝子工学や再生医療、ナノテクノロジーの発達はめざましい。20世紀に人類は平均寿命を40歳から70歳に伸ばしたが、21世紀にはそれがさらに伸びる可能性がある。
「死との戦いは今後1世紀間の最重要プロジェクトとなる可能性が依然として高い」。科学界と経済界はそれを応援し、不死を売り物にする大きな市場が生まれることはまちがいないだろう、と著者は予測する。
 もうひとつの人類のプロジェクトは、幸福の増進である。
 1人あたりGDPが増え、自動車、冷蔵庫、エアコン、洗濯機、テレビ、コンピューターなどの商品が普及し、教育、医療、福祉が充実しても、かならずしも幸福度が増大するとはかぎらない。そのことは先進諸国での自殺率の高さをみてもわかる、と著者はいう。
 幸福度は物質的な要素だけではなく、心理的なものや身体的な感覚によっても支えられているからだ。どんなに社会が豊かになっても、そこに不安や緊張、不快感、憂鬱な気分が広がっていけば、人は幸福を感じないだろう。
快感と至福は幸福をもたらす原動力である。だが、それは長続きしない。人は心地よい感覚の再現を求めて、どこまでも前に歩みつづけようとする本性をもっている。
ここで、著者は驚くべきことを書いている。
「世界中の幸福レベルを上げるためには、人間の生化学的作用を操作する必要がある」というのだ。
いまでは向精神薬や興奮剤が、憂鬱になったり気分の落ちこんだりしたときに、ごくふつうに用いられるようになった。それは病人だけが対象ではなく、注意力散漫の子どもや前線の兵士にも処方されているのだという。
だが、そうした薬も、使い方を誤れば、犯罪の原因にもなる(アルコール、マリファナ、コカイン、エクスタシー、LSDなど)。

〈国家は、「悪い」操作と「良い」操作を区別し、生化学による幸福の追求を統制することを望んでいる。その原理は明快だ。政治の安定や社会秩序や経済成長を増進する生化学的操作は許され、奨励さえされる。安定と成長を脅かす操作は禁じられる。〉

 さらに次の段階にいたれば、脳に電気的な刺激を与えたり、遺伝子を操作したりして、人間の活動をコントロールすることも可能になるだろう、と著者はいう。
 そこまでして、人間は幸福すなわち快感を求めるべきだろうか、と著者はさすがにいちおうの疑問を呈している。
ブッダは快感への渇望を滅却することこそがだいじだと唱えた。しかし、資本主義はあくまでも快感を追求しつづける。それによって「毎年、より優れた鎮痛剤や新しい味のアイスクリーム、より快適なマットレス、より中毒性の高いスマートフォン用ゲームが生みだされ、私たちはバスが来るのを待つ間、一瞬たりとも退屈に苦しまないで済むようになる」。
著者は人間の本性からみて、ブッダよりも資本主義に軍配を上げる。
 人類はどこに向かおうとしているのか。「人間は幸福と不死を求めることで、じつは自らを神にアップグレードしようとしている」。
そのための手段となるのが生物工学、サイボーグ工学、非有機的な人工知能(AI)の開発だ。これらは人間をアップグレードするテクノロジーである。
 21世紀中に人間はホモ・サピエンス(賢い人)からホモ・デウス(神の人、ないし超人)に進化する、と著者は断言する。これは人が不死と幸福を追求しつつ、そのための超能力をもつことを意味している。
 進化のスピードは上がっている。それはだれにも止められない。

〈現代の経済は、生き残るためには絶え間なく無限に成長し続ける必要がある。もし成長が止まるようなことがあれば、経済は居心地のよい平衡状態に落ち着いたりはせず、粉々に砕けてしまう。〉

 遺伝子工学によって、人類はこれまでにない、より健康で美しく賢い子孫をつくりだす可能性をもつようになった。生殖にあたって、欠陥のあるミトコンドリアDNAを交換することももはや不可能ではない。デザイナーベビーの誕生もSFの世界ではなくなっている。
 地球のすべての人が不死と至福と神性を手に入れるというわけではない。だが、そうした方向への挑戦はとどまることはないだろう、と著者はいう。
歴史を学ぶのは、未来を予測するためではなく、過去から解放されるためだ、と著者はいう。歴史はくり返すのではない。歴史をくり返させないためにこそ歴史はある。
未来は予測できない。それは未来予測が出た途端に、未来が変わっていくためだ。にもかかわらず、たしかなトレンドがある。
 人間が不死と至福と神性を求めるのは、いわば過去300年のヒューマニズム(人間至上主義)の帰結ともいえる。その勢いは止まることがない。
 ここで、おもしろいのは、著者が、そのいっぽうで、人間至上主義は同時に人類の凋落への危険性をはらんでいるとみていることだ。その危険性については、第3部で扱われるという。このあたり、乞うご期待と最後まで引っぱるところがうまい。
 ここまで読んで、ぼく自身は国家と資本主義による人間の動的統制がますます進展するように感じて、すこし憂鬱になる。あるいはホモ・デウスがホモ・サピエンスを支配する未来がやってくるのだろうか。
 もうひとつ、頭に思い浮かぶのはイカロスのことである。
 イカロスは父のダイダロスとともにクレタ島から脱出するために、鳥の羽根と蝋で二組の翼をこしらえて、イダ山の断崖から滑空する。しかし、太陽に近づきすぎたために墜落して死ぬ。ダイダロスはそのまま飛びつづけて、ギリシア本土に着く。
 著者もまた、イカロスを思い、その先に新しいガイアを見つけようという気持ちにかられているのではないだろうか。
 予断は禁物である。もう少し先まで読まないと、霧は晴れない。

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