悲劇の舞台──スコットランドの旅(10) [旅]
8月12日(日)
ネス湖のほとりドロムナドロキットでは、近くに朝食をとれるカフェがなかったため、8時に宿を出発しました。
ネス湖左岸を北上、ハイランドの中心都市インヴァネスを通過します。
ネス川沿いの高台に立つインヴァネス城が見えました。この城は1836年につくられたものですが、ここには11世紀から城が立っていたとか。築いたのはスコットランド王のマルカム3世(1031〜93)です。
マルカム3世はダンカン1世の長男です。しかし、すんなりと王位を継承したわけではありません。父親のダンカン1世は1040年にいとこのマクベス(1005〜57)に暗殺されました。そのマクベスを破って、マルカム3世が王位を回復するわけですね。
シェイクスピアは、このスコットランドの王位争いをドラマにして名作『マクベス』を書きます。
そこには、こんな名せりふがあります。
消えろ、消えろ、つかの間の燈(とも)し火!
人の生涯は動き回る影にすぎぬ。
あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、
舞台の上で、みえを切ったり、喚(わめ)いたり、
そしてとどのつまりは消えてなくなる。
白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、
すさまじいばかり、何の取りとめもありはせぬ。(福田恆存訳)
うまいものですね。
しかし、マクベスを破ったマルカム3世も、1071年にイングランド王ウィリアム1世に敗れ、その後スコットランドの政治情勢は混沌たる状況がつづきます。
スコットランドの歴史に触れはじめるときりがありませんから、このあたりにしておきましょう。
カロデンムアに到着したのは8時45分。ムアとはゲール語で湿原のことですから、ここはカロデン湿原というわけです。
観光センターのカフェで朝食をとりました。
湿原というより荒野という感じです。ここも大きな歴史の舞台です。
カロデンムアでは1746年にジャコバイト軍と国王軍が衝突し、ジャコバイトが惨敗し、多くのハイランダー(スコットランド高地人)が虐殺されました。そのなかを少し散策します。
当時の家らしきものも復元されています。
ここで戦死したハイランダーの墓標があちこちに立てられていました。
いまは茫々とした荒野が広がるばかりです。
ややこしくなるので、できるだけ歴史に触れるのは避けたいのですが、カロデンムアの戦いには100年以上にわたる歴史の因縁があります。
イギリスではエリザベス女王の死後、1603年にスコットランド国王のジェイムズ6世がイングランド国王も兼ね、ジェイムズ1世として即位し、スコットランドとイングランドの同君連合王国ができます。しかし、まだスコットランドとイングランドは統合されたわけではありません。つまり、ふたつの王国のまま、同じ君主(ジェイムズ6世兼1世)をいだく体制がつくられたわけです。これが連合王国としてのステュアート朝のはじまりです。
その後、チャールズ1世の時代に内乱がはじまり、1649年にチャールズ1世が処刑され、クロムウェルが護国卿に就任、イギリスは一時共和国になりました(いわゆるピューリタン革命)。
共和国は長くつづかず、1660年にチャールズ2世が即位し、王政復古が実現します。しかし、その息子ジェイムズ2世はカトリックを堅持していたため、議会によって追放され、その代わりにジェイムズ2世の娘メアリーと結婚していたオランダ総督ウィレム3世がイングランドに迎えられるわけです。
ウィレム3世はオランダからイングランドに上陸し、ロンドンに入城、1689年にメアリー(2世)とともにウィリアム3世としてイングランド王に即位します(いわゆる名誉革命)。その後、メアリーは亡くなり、単独のイングランド王となったウィリアム3世はスコットランドも掌握します。
1702年にウィリアム3世が死去すると、その後を継いだのは、メアリーの妹のアンでした。そして、1707年にスコットランドとイングランドとの連合法が成立したことにより、アン女王は、グレートブリテン王国(イギリス)国王となります。
しかし、アン女王には成人した子どもがいなかったため、ステュアート王朝は1714年に断絶します。すると今度は、プロテスタントでアン女王の遠縁にあたるハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが王としてイギリスに迎えられます。これがジョージ1世で、ここからハノーヴァー朝がはじまるわけです。
ところが、この一連の王位継承の流れ反発したのが、ジャコバイトと呼ばれる人びとでした。ジャコバイトとはジェイムズ派を意味するラテン語で、かれらはフランスに亡命したステュアート家のジェイムズ2世とその子孫(ジェイムズ8世兼3世ならびにチャールズ3世)を支持していました。
ジャコバイトはジェイムズ2世の追放を認めなかったのですから、名誉革命などとんでもないという立場です。かれらにとっては、これほど不名誉な革命はありません。まして、フランスに後継者の残っているステュアート家を無視して、ドイツから新しい王を迎えるなど、許されるわけがないのです。
そこで、ジャコバイトはハノーヴァー朝成立後、2度にわたり反乱をくわだてました。1度目は1715年で、ジェイムズ7世兼2世の息子、老僭王ジェイムズ8世兼3世をフランスから迎えて、ハイランダー(高地人)とともにスコットランドで反乱を起こします。しかし、反乱は広がらず、国王軍にあっけなく敗れてしまいます。
そして2度目が1745年です。このときはジェイムズ8世兼3世の長男、若僭王チャールズ3世(チャールズ・エドワード・ステュアート、通称いとしのチャーリー王子)をいただいたジャコバイトが、ハイランドのマクドナルド一族を中心に立ちあがり、一時はイングランドまで進軍します。しかし、けっきょくは1746年4月16日のカロデンムアの戦いで敗れ去ります。このとき、「いとしのチャーリー王子」は女装して、スカイ島にたどり着き、さらにフランスへと逃げ帰ります。これによってジャコバイトの火は完全に消え去り、グレートブリテン王国の王位は盤石のものとなりました。
カロデンムアの戦いは悲惨でした。棍棒や剣しかもたないハイランドの勇士たちは、身を切るような寒風のなか、ときの声を上げ、大砲と銃、銃剣をもつ国王軍に向かって突撃していったといいます。戦いはすぐに終わり、負傷して動けなくなっていた多くのハイランダーが虐殺されました。
いまもカロデンムアには多くの人が訪れています。われわれ一家は荒野を散歩するといった感じですが、ここに立つ多くの人にとっては、ハイランドの勇士たちの雄叫びが聞こえてくるのかもしれません。カロデンムアはいまもスコットランド独立の聖地のひとつでありつづけているようです。
思わずややこしい歴史の流れに踏みこんでしまいました。頭がくらくらしてきたので、きょうはこのくらいにしておきましょう。
ネス湖のほとりドロムナドロキットでは、近くに朝食をとれるカフェがなかったため、8時に宿を出発しました。
ネス湖左岸を北上、ハイランドの中心都市インヴァネスを通過します。
ネス川沿いの高台に立つインヴァネス城が見えました。この城は1836年につくられたものですが、ここには11世紀から城が立っていたとか。築いたのはスコットランド王のマルカム3世(1031〜93)です。
マルカム3世はダンカン1世の長男です。しかし、すんなりと王位を継承したわけではありません。父親のダンカン1世は1040年にいとこのマクベス(1005〜57)に暗殺されました。そのマクベスを破って、マルカム3世が王位を回復するわけですね。
シェイクスピアは、このスコットランドの王位争いをドラマにして名作『マクベス』を書きます。
そこには、こんな名せりふがあります。
消えろ、消えろ、つかの間の燈(とも)し火!
人の生涯は動き回る影にすぎぬ。
あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、
舞台の上で、みえを切ったり、喚(わめ)いたり、
そしてとどのつまりは消えてなくなる。
白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、
すさまじいばかり、何の取りとめもありはせぬ。(福田恆存訳)
うまいものですね。
しかし、マクベスを破ったマルカム3世も、1071年にイングランド王ウィリアム1世に敗れ、その後スコットランドの政治情勢は混沌たる状況がつづきます。
スコットランドの歴史に触れはじめるときりがありませんから、このあたりにしておきましょう。
カロデンムアに到着したのは8時45分。ムアとはゲール語で湿原のことですから、ここはカロデン湿原というわけです。
観光センターのカフェで朝食をとりました。
湿原というより荒野という感じです。ここも大きな歴史の舞台です。
カロデンムアでは1746年にジャコバイト軍と国王軍が衝突し、ジャコバイトが惨敗し、多くのハイランダー(スコットランド高地人)が虐殺されました。そのなかを少し散策します。
当時の家らしきものも復元されています。
ここで戦死したハイランダーの墓標があちこちに立てられていました。
いまは茫々とした荒野が広がるばかりです。
ややこしくなるので、できるだけ歴史に触れるのは避けたいのですが、カロデンムアの戦いには100年以上にわたる歴史の因縁があります。
イギリスではエリザベス女王の死後、1603年にスコットランド国王のジェイムズ6世がイングランド国王も兼ね、ジェイムズ1世として即位し、スコットランドとイングランドの同君連合王国ができます。しかし、まだスコットランドとイングランドは統合されたわけではありません。つまり、ふたつの王国のまま、同じ君主(ジェイムズ6世兼1世)をいだく体制がつくられたわけです。これが連合王国としてのステュアート朝のはじまりです。
その後、チャールズ1世の時代に内乱がはじまり、1649年にチャールズ1世が処刑され、クロムウェルが護国卿に就任、イギリスは一時共和国になりました(いわゆるピューリタン革命)。
共和国は長くつづかず、1660年にチャールズ2世が即位し、王政復古が実現します。しかし、その息子ジェイムズ2世はカトリックを堅持していたため、議会によって追放され、その代わりにジェイムズ2世の娘メアリーと結婚していたオランダ総督ウィレム3世がイングランドに迎えられるわけです。
ウィレム3世はオランダからイングランドに上陸し、ロンドンに入城、1689年にメアリー(2世)とともにウィリアム3世としてイングランド王に即位します(いわゆる名誉革命)。その後、メアリーは亡くなり、単独のイングランド王となったウィリアム3世はスコットランドも掌握します。
1702年にウィリアム3世が死去すると、その後を継いだのは、メアリーの妹のアンでした。そして、1707年にスコットランドとイングランドとの連合法が成立したことにより、アン女王は、グレートブリテン王国(イギリス)国王となります。
しかし、アン女王には成人した子どもがいなかったため、ステュアート王朝は1714年に断絶します。すると今度は、プロテスタントでアン女王の遠縁にあたるハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが王としてイギリスに迎えられます。これがジョージ1世で、ここからハノーヴァー朝がはじまるわけです。
ところが、この一連の王位継承の流れ反発したのが、ジャコバイトと呼ばれる人びとでした。ジャコバイトとはジェイムズ派を意味するラテン語で、かれらはフランスに亡命したステュアート家のジェイムズ2世とその子孫(ジェイムズ8世兼3世ならびにチャールズ3世)を支持していました。
ジャコバイトはジェイムズ2世の追放を認めなかったのですから、名誉革命などとんでもないという立場です。かれらにとっては、これほど不名誉な革命はありません。まして、フランスに後継者の残っているステュアート家を無視して、ドイツから新しい王を迎えるなど、許されるわけがないのです。
そこで、ジャコバイトはハノーヴァー朝成立後、2度にわたり反乱をくわだてました。1度目は1715年で、ジェイムズ7世兼2世の息子、老僭王ジェイムズ8世兼3世をフランスから迎えて、ハイランダー(高地人)とともにスコットランドで反乱を起こします。しかし、反乱は広がらず、国王軍にあっけなく敗れてしまいます。
そして2度目が1745年です。このときはジェイムズ8世兼3世の長男、若僭王チャールズ3世(チャールズ・エドワード・ステュアート、通称いとしのチャーリー王子)をいただいたジャコバイトが、ハイランドのマクドナルド一族を中心に立ちあがり、一時はイングランドまで進軍します。しかし、けっきょくは1746年4月16日のカロデンムアの戦いで敗れ去ります。このとき、「いとしのチャーリー王子」は女装して、スカイ島にたどり着き、さらにフランスへと逃げ帰ります。これによってジャコバイトの火は完全に消え去り、グレートブリテン王国の王位は盤石のものとなりました。
カロデンムアの戦いは悲惨でした。棍棒や剣しかもたないハイランドの勇士たちは、身を切るような寒風のなか、ときの声を上げ、大砲と銃、銃剣をもつ国王軍に向かって突撃していったといいます。戦いはすぐに終わり、負傷して動けなくなっていた多くのハイランダーが虐殺されました。
いまもカロデンムアには多くの人が訪れています。われわれ一家は荒野を散歩するといった感じですが、ここに立つ多くの人にとっては、ハイランドの勇士たちの雄叫びが聞こえてくるのかもしれません。カロデンムアはいまもスコットランド独立の聖地のひとつでありつづけているようです。
思わずややこしい歴史の流れに踏みこんでしまいました。頭がくらくらしてきたので、きょうはこのくらいにしておきましょう。
2019-02-06 06:49
nice!(12)
コメント(0)
コメント 0