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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その3) [商品世界論ノート]

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  8 収穫逓減の法則

 ここからは第4編、生産についての考察にはいる。そのタイトルは「生産要因 土地・労働・資本および組織」となっている。
 生産の目的は消費である。人間は外からもたらされた財を消費することによってみずからを再形成し、その労力を消費することによって、内にとりいれる財をつくりだす過程をくり返しているといってよい。とりわけ近代に近づくにつれ、その財は商品となり、生産と消費の循環は貨幣を媒介しておこなわれるようになる。そのさい、分配は財の直接分配という形態ではなく、媒介物としての貨幣を分配する形態をとるようになった。
 近代のひとつの特徴は、生産が自己消費財のためではなく、市場で売買される商品をつくることに向けられている点である。この過程は不可逆的であって、歴史を無理やり元に戻そうとしても、そこには大きな災厄が発生することを、われわれはしばしば味わってきた。
 ポル・ポト政権時代のカンボジアをみればわかるように、貨幣と商品が廃止され、生産が直接的な消費財に限定されるならば、生産と消費は一気に落ち込み、社会は急速に窮乏化する。生産力の大きさが近代を支えているといってよい。それを可能にしたのは商品という存在である。商品そのものを否定することは、社会に荒廃と混乱をもたらすだろう。
 近代における生産とはいったい何かを考えてみる。
 マーシャルは、はじめに生産要因を土地・労働・資本に分類する。土地とは自然が人間に提供してくれるもの、労働とは人間の経済的なはたらき、資本とは財の生産に役立つ富のたくわえを意味する。
 マーシャルは3つの生産要因がからみあって進行する生産過程そのものを論じているわけではない。マルクスが生産過程にこそ剰余価値が発生する根拠があるとするのにたいし、マーシャルがそれについてあまりふれないのは、かれが企業家的視点に立ち、資本による労働の支配をとうぜんと考えているという見方もある。しかし、それよりも、マルクスの労働価値説、とりわけ剰余価値説を否定しているからだと考えてよいだろう。
 マーシャルにとって、利潤が発生するのは、需要と供給の均衡する場においてであり、けっして生産過程においてではない。したがって、利潤の問題は、次の第5編「需要・供給および価値の一般的関係」において論じられることになるだろう。こうして、生産過程の実態は、いわば社会学的分析に押しやられ、経済学の領域から排除されることになった。それは近代経済学のひとつの欠陥と考えることもできる。
 マーシャルが、生産過程において利潤が生じるわけではないとした理由を憶測するには、たとえば2000円のシャツを500枚生産したケースを思い浮かべてみればよい。この場合、シャツの価値は100万円であり、そのうち材料費その他経費が30万円で、賃金が40万円だとすれば、利潤は30万円ということになる。マルクスの言い方をきわめて単純化すれば、ここでは30万円の剰余価値が生まれていることになる。
 ところが、実際にシャツの価値が実現されるのは市場においてである。もし市場において、500枚つくったシャツが400枚しか売れなかったら、どうなるだろう。利益は10万円しかでない。すると、いわば30万円の剰余価値が10万円の利潤に転化されたことになる。もし300枚しか売れなかったら、利潤どころか10万円の赤字である。マーシャルが、生産過程において利潤が生じるわけではないとしたのは、利潤はあくまでも需要と供給の関係によって決まると考えるからである。
 そのため、マーシャルは生産過程の現場の葛藤を思いきり捨象して、生産要因の問題だけを論じることにしたとみてよいだろう。ここで重要なのは、生産要因がすべて貨幣によって価値づけられること、言い換えれば、それ自体が価格をもつ商品になりうることである。近代の特質がここにも現れている。
最初に論じられるのは土地、すなわち自然要因である。
 その前に、マーシャルはこう書いている。

〈人間は物質を創造する力をなんらもっていず、ただそれを有用な形態に組みかえることによって効用を創造するだけなのである。そして人間によってつくられた効用は、その需要が増大すればその供給も増大させることができる。それらは供給価格をもっている。〉

 ここで人間の経済の特徴が説明されている。人は物質そのものを創造するわけではない。物質を人に有用な財に変換することによって効用をつくりだすのだ。そして、貨幣経済においては、その効用が一定の価格で売買されて、消費・生産・分配のシステムを通じて、人びとはみずからの生活を築くようになる。
 しかし、そもそも人間に有用たりうる物質を提供する自然、とりわけ土地がなければ(それは海や鉱山であってもいいのだが)、経済は成り立たない。「地表のある区域を利用することは、人間がなにごとかをおこなうためには、その始原的な条件となる」と、マーシャルも書いている。
 土地とのかかわりで、まず思い浮かべるのは農業だろう。
 土地が植物ないし動物の生育を支えるには、水や太陽をはじめとするそれなりの条件が必要である。人間はこれに肥料などを加えることによって、土壌の肥沃度を高める。さらに土地を改良したり、灌漑施設をととのえたり、土壌に合う作物を栽培したりする。こうした人間の努力と工夫が、土地のより効果的な利用をもたらす。
 土地には本源的な特性があり、人間の努力をもってしてもいかんともしがたい部分もある。人によって、豊かな土地もあれば、貧しい土地もある。
 とはいえ、いずれの場合も、資本と労働を追加投入するにしたがって、土地収益は早晩次第に減少していく。これが、いわゆる「収穫逓減の法則」である。
 開墾しないでも、そのまま役立つ広大な土地が存在するなら、資本と労働を投入することによって、収穫逓増が生じることもある。だが、同じ農業技術で、同じ土地を耕作しつづけるかぎり、収穫逓増がいつか収穫逓減に転ずることはまちがいない、とマーシャルは論じる。
 新開地に入植する場合、最初に耕作されるのは、いうまでもなく耕作に適した肥沃な土地である。ただし、農業や牧畜には、それぞれ適した土地があって、肥沃度の意味合いは異なってくる。
 耕作法の変化や需要の変化が、土地の評価を変えることもある。たとえばクローバーを植えて地力を養成してから小麦をつくったほうが、よく小麦が育つことがわかると、それまで見向きもされなかった土地ががぜん注目されるようになる。木材の需要が増えたことによって、山の斜面の地価が上がることもある。ジュートや米への需要が低湿地の開発を促すこともある。また人口の増加によって、かつては無視されていた土地が開発されていくこともある。このように考えていくと、肥沃度というのは絶対的な尺度ではなく、あくまでも相対的な尺度だ、とマーシャルはいう。
 収穫逓減の法則を打ちだしたのはリカードだが、リカードは肥沃度を絶対的なものととらえたために、その法則をあまりに単純化してしまい、多くの誤解や批判を招くことになった、とマーシャルは論じている。肥沃度というものは、周辺の人口の変化や、市場の広がり、新たな需要の発生などによって、その評価が異なってくるのだ。
 逆にいえば、土地にたいする収穫逓減の法則は、きわめて限定的な条件のもとで成り立つのである。それは耕作可能地がかぎられていて、しかも生産方法が変わらない場合に、追加労働によって得られる収穫が次第に減少していくという条件にもとづく。マーシャルはこうした前提を抜きに、この法則を拡張することには慎重でなければならないとしている。
 にもかかわらず、収穫逓減の法則が重要なのは、それが生産の「不効用」という考え方を導く土台になっているからである。同じ生産方法のもとで、いくら追加労働を投入しても、生産量の増加割合は次第に減少していく。それは農業に限らない。
 マーシャルはたとえば次のような事例を挙げている。

〈製造業者がたとえば3台の平削盤をもっていたとすれば、これらの機械によって容易になされる作業の量の限界があるはずである。もしこの限界以上のことをしようと思えば、その機械をつかう平常の作業時間のあいだ時間をむだなくつかうように細心の努力をしなくてはならないし、たぶん超過勤務をもしなければなるまい。このように機械を適正な操業状態までもってきてしまえば、それからあとは努力を注ぎこむにつれて収益逓減が起こる。そしてついには古い機械を無理して稼働させるより新しく4台目の機械を購入したほうがかえって経費の節約になるほど、純収益は減ってしまう。〉

 これは農業における収穫逓減の法則を、製造業に拡張したケースといえる。
 マーシャルはおそらく、次のような構想をいだいている。古典的な収穫逓減の法則が成り立つのは、限定的な条件のもとにおいてのみである。しかし、一定の条件のもとでは、収穫逓減の法則は、農業だけでなく、生産(供給)一般の法則に拡張することができる。
 こうしてみると、供給面における収穫逓減の法則は、需要面における限界効用逓減の法則とペアになっていることがわかる。縦軸に価格、横軸に数量をとると、需要曲線が右下がりになるのにたいし、供給曲線が右上がりになる根拠はここに求められている。
 生産面では労働者が搾取され、消費面では消費者が高い品物を買わされるというマルクス主義的な発想とは逆に、一定の技術のもとで、市場で売買される数量が増えると、生産面では生産者が「不効用」の発生に見舞われ(つまり利潤率が低下し)、消費面では消費者が消費者余剰を得るようになる、とマーシャルはとらえている。つまり、労働者の雇用増と商品の普及、消費の拡大が連動する局面が想定できるのである。

  9 人口、生産、労働力

 マーシャルは労働者を資本の意志によって働かされる単純労働力とはみない。労働者とは商品世界のなかで与えられた有用な仕事をはたす人びと全体を指すのであって、その質の高さは長い時間をかけて社会的に形づくられてきたと考えている。
 労働力の前提となるのは人口である。人口問題は古くから論じられ、さまざまな議論が重ねられてきた。一般的にいって、人口が増加すると抑制論が台頭し、逆に人口が減少すると増加論が登場する傾向がある。しかし、人口がマルサスの指摘するように自然増の傾向をたどってきたことはまちがいない。
 出生数は結婚によって左右される。19世紀末のイギリスでは、中産階級の結婚は比較的遅く、労働者階級の結婚は比較的早かった。
 大陸ヨーロッパの農村では、結婚は長子にしか認められず、長子以外は結婚すると村をでなければならなかった。ヨーロッパの小農のあいだでは出生率が低かった。これにたいし、広大な土地に恵まれたアメリカの自作農や移民のあいだでは出生率は高かった。
 全般的に、「妊娠率はぜいたくな生活をおくることによって低下」し、「精神的な過労が強ければ多くの子供を産む可能性は低くなる」とマーシャルは指摘する。これは現代にもあてはまりそうな定言である。
 中世においては、伝染病や飢饉、戦乱、きびしい慣行などによって、イングランドでもほとんど人口が増えなかった。急速に人口が増えるようになったのは18世紀後半になってからである。都市と産業の発達が、人口の増加をうながした。
 19世紀初期には、結婚率は小麦価格とともに変化した。しかし、19世紀後半になると、小麦価格よりも景気が結婚率に与える影響のほうが大きくなってくる。労働者階級は生活水準を保つために子供の数を制限するようになり、そのため人口増加率は次第に低下するようになったという。
 人口と労働、健康はどのような関係があるのだろうか。
 人間が健康に仕事をするには、肉体面、知性面、道徳面での健全性が保たれなければならない。筋肉労働も肉体だけでなく、意志の力や気力を要するのだ。
 人間の寿命は気候や食料と関係している。衣料や住居、燃料も欠かせない要因だ。休養もだいじである。しかし、希望や自由、そして何よりも人生の理想が寿命に影響を与える。
 19世紀初頭の工場労働者の状態が不健康で抑圧的なものであったことをマーシャルも認めている。それを改善することが経済学のひとつの課題だと考えていた。
 かつて都市の環境は劣悪だった。都市に集まった才能ある人びとが、郊外に居を定めるようになったのはとうぜんといえる。産業が郊外に分散し、労働者がそれにともなって移動するのはもっと喜ばしい。しかし、公園や運動場ができ、住環境も改善されるようになると、都市もきっと住みやすくなるだろう、とマーシャルは期待を寄せる。
 憂慮すべき点もある。それは国民の活力が次第に失われていくことである。医療と衛生の進歩、政府による社会保障、物的富の成長、晩婚化、小家族などは、むしろ人間の活力を奪う要因になりうる、とマーシャルはいう。
 しかし、家族数が適切に抑制され、子どもたちにじゅうぶんな教育がほどこされ、都市住民に新鮮な空気と運動の機会が与えられ、実質所得の低下がおこらず、人びとに衣食住や余暇、文化が提供されるなら、過剰人口の弊害を避けて、「人間はたぶんかつて経験したことのないほど高い肉体的ならびに知性的な優秀さに急速に達することができるであろう」。
 そのうえで、マーシャルは産業時代における労働のあり方を論じる。
 産業時代においては、どの分野の労働力にも、長い訓練が必要になってくる。機械制工場の労働は、ギルドの職人仕事とちがって、安直で容易なようにみえるかもしれないが、それでも機械をうまく扱えるようになるには、精神的な強さと自制力、知識、訓練が欠かせない。

〈一時に多くのことがらに気をくばり、必要な場合にはなにごとにも容易に移っていけ、なにか錯誤があった際には機敏に処置して対策をじょうずにたて、仕事の細部の変化にたいしてはよく順応し、堅実で信頼に値し、つねに余力を残して有事の際に備えている──これらはすぐれた産業人を生み出すのに必要な性能なのである。〉

 まるで、自動車を運転するさいの注意を聞かされているようだが、これはマーシャルが産業時代の労働全般のあり方について述べたものである。
 産業時代の勤労者は、こうした一般的能力に加えて、業種に応じ特化された肉体的・知的能力をもたねばならない、とマーシャルはいう。
 産業人(社会人)としての能力を身につけるには、家庭や学校の役割が欠かせない。実務につくには、普通教育に加えて、技術教育や企業内教育も必要になってくる。
 マーシャルは教育の重要性を強調する。「たまたま社会の底辺にいる両親のあいだに生まれたというだけの理由で、天賦の才能を低級な仕事に空費してしまうというむだほど、国富の発達にとって有害なものはないであろう」
 教育だけで天才的な科学者や有能な経営者が生まれるわけではない。しかし、天賦の才能を無為に消耗させてしまうのを防ぐには、教育が多少なりとも役立つ、とマーシャルはいう。
 成果を生むかどうかはともかく、公私にわたる教育への投資は今後ますますだいじになってくる。「教育投資は大衆にとっても他の投資で一般に得られるより大きな収益機会がある」
 国家であれ、一般家庭であれ、教育にカネをかけるのはムダだという意見にたいし、マーシャルは次のように反論している。「もしニュートンないしダーウィン、シェイクスピアないしベートーベンのような人が一人でも生みだせれば、高等教育を大衆化しようとして長年にわたって投じた資金も十分に回収されるであろう」
 マーシャルは中産階級と上流階級以外は、教育にさほど熱心でないことも認めている。ある職業階層から別の職業階層に急速に上昇することが、なかなか困難であることも事実である。それでも、かれは教育の力が、人びとがより有利な職種を選ぶことを可能にするのだと信じていた。

〈他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるであろう稼得が増大すれば労働力の増加率を高める、すなわちその需要価格の上昇は供給の増大をもたらす、と結論することはできるだろう。〉

 すぐれた労働力が社会全体により多くの収入をもたらすなら、より多くの労働力が求められるようになり、それによって賃金が上昇し、働こうとする労働者の数もさらに増えてくる。
 こうした好循環は、あまりに楽観的な展望にちがいない。マーシャルは、働く人びとの数と賃金が徐々に増えていくなかで、社会が少しずつ豊かに発展していくことを願っていた。だが、現実はかならずしも、そうはならなかった。

   10 資本と産業組織

 マーシャルは、富から生まれた資本が産業組織を動かし、それによってまた新たな富がつくりだされると考えている。
 そこでまず富の発達をみていこう。
 人間の富は徐々に発達してきた。未開時代の富は、狩猟漁獲の用具、装飾品、衣服、小屋、それに家畜くらいなものでしかなかった。だが、村がつくられ、農業が営まれるようになると、これに土地や井戸が加わるようになった。宝石や貴金属も貴重な富となった。王侯があらわれると、宮殿や道路橋梁、運河用水施設もつくられ、都市が出現する。だが、都市の人口は村にくらべて、ごくわずかだった。水運業や建築業も発達してくるが、その仕事に用いられる道具はごく簡単なものでしかなかった。
 イギリスでは18世紀ごろから農機具が次第に高度化してくる。水力、ついで蒸気が動力として利用されるようになると、18世紀末から19世紀にかけ、さまざまな産業部門に高価な機械が導入され、大工場が出現するようになる。鉄道や船舶、電信電話、水道、ガスも普及してくる。機械は人間の労働生産性を飛躍的に拡大させた
 文明が進むにつれて、人びとは新しい欲望をもつようになり、それを満たすための新しい方法を編みだしてきた。人間の欲望はとどまることを知らない。
マーシャルは現代人が定常状態──すなわち「充足すべき新しい主要な欲望もあらわれず、将来に備えて有利に現在の資力を投資する余地もなく、富を蓄積しても報酬が得られないようになる」状態──に近づいていると信じてよい理由はどこにもないと述べている。このあたりはJ・S・ミルの定常状態への展望──すなわち「だれも貧しいものはおらず、そのため何びとももっと富裕になりたいと思わず、また他の人たちの抜け駆けによって[貧困へと]押し戻されることを恐れる理由もない状態」とは、意見を異にしている。
 マーシャルはあくまでも楽観的だ。資本が次々と投下され、生活必需品を超える生産物がつくられるようになると、余剰が増大し、富が蓄積され、知識も増大してくるという。
 将来への備えや、合理的な貯蓄はとても重要である。だが、国家による安全保障のないところに貯蓄は存在しない。収奪や侵略などがあれば、貯蓄などたちまち消えてしまうのだ。そのいっぽうで、かつての救貧法は、労働者の自助努力をそこない、労働者階級の進歩にとっては大きな損害となったとも述べている。
 マーシャルは貨幣経済が安直な消費とぜいたくをもたらしたことを認めるいっぽうで、それが将来にたいする貯蓄を容易にし、個人が資本を活用する(つまり商売をする)機会を増やしたことも指摘している。富をつむのは、みずからの力を誇示し、社会的地位を上昇させるためという見方があるかもしれないが、家族愛がむしろ動機になっていることが多いとも述べている。
 貯蓄の源泉は余剰所得といってよいが、19世紀初頭の商工階級にとっては資本利得こそが主要な貯蓄の源泉だった。
 地主や知的職業人、労働者の貯蓄も無視できない。「賃金労働者への配分を増し資本家への配分を減少させるような富の分配の変化は、他の事情に変わりがなければ、物的生産の増大を促進するし、物的富の蓄積を目にみえるほど抑制することはない」。労働者への所得分配を増加させることが、かえって富全体を増やすことになるとみている。
 マーシャルにとっては、富の公平な分配と、民主主義にもとづいた公共財(宇沢弘文流にいえば社会的共通資本)の蓄積こそが、豊かな社会を築く源泉と考えられていた。そのためには労働組合や協同組合、互助組合、貯蓄銀行の役割が欠かせないとしている。
 一般に人が貯蓄するのは、将来、稼得力が低下するのを想定して、そのときに備えるためである。その点、富の蓄積は「人の展望性、すなわち将来をいきいきと思い浮かべる性能に依存している」。とはいえ、富を蓄積するには、将来のために働き、享受をくりのべること、すなわち「待忍」が必要になってくる、とマーシャルはいう。
 ここで重要なのは、貯蓄自体もさることながら、貯蓄が資本に転化するということである。貯蓄自体は利子を生まない。それは資本へと転化することによって、はじめて利子を生みだす可能性をもつ。「待忍」自体が利子を生むわけではない。重要なのは貯蓄が資本の源泉のひとつだということである。
 マーシャルは貯蓄が利子率と関係することも指摘している。利子率の低下は、貯蓄を減少させる傾向がある。逆に利子率が上がれば貯蓄の意欲を高めるとみてよいという。
 次にマーシャルが産業組織について検討するのは、資本は産業組織(企業)に体現されると考えているためである。ここには資本家という人格的存在から産業組織という社会的存在への移行こそが、経済発展を支えるという考え方がみられる。
 マーシャルは生物学からの連想で、社会の発達をとらえている。
 社会が生き延び発展していくには、機能の分化を要する。文明が進むにつれ、政治と経済、文化が分化するのも、そのためだ。産業面においては、それが「分業すなわち専門的技能・知識および機械の発達」となり、同時に「総合」すなわち金融や交通、通信手段の発達となってあらわれるという。
 一般に、近代社会の特徴は分業と総合に求められる。この特徴は組織においてもあてはまる。
 マーシャルはダーウィンの適者生存の法則を念頭におき、有機体と組織を対比させる。組織が生き残るには、厳しい生存競争に耐えねばならない。企業家が労働者の経営参加や利潤分配要求に安直に応じるわけにはいかないのは、そのためだとも述べている。
 生存競争で組織が生き残るには、「自己犠牲」の性向、国においては愛国心、企業においては愛社精神のようなものが必要となってくる。また組織が長く存続するには、何よりも独立自尊の精神がなくてはならないという。
 古い時代においては、宗教、政治、軍事、経済で密接につながる人間集団を統制していくには、身分制(ないしカースト制)が有益だった。だが、こうした制度を守りつづけた国家は、けっきょく硬直し、進歩から取り残されていった。
 これに代わったのが、近代の階級制度だ、とマーシャルはいう。それは流動的で、環境に応じて変化する。
 職階をなくすわけにはいかない。分業と総合から成り立つ近代社会にあっては、人はそれぞれの職階で、自己犠牲をもともなう貢献が求められる。
 組織はつねに硬直する恐れがあるため、前進の方向をさぐりつづけなければならない。だが、あまりに急激な変化は、かえって組織を不安定なものにしてしまう恐れがある。

〈進歩は徐々におこなわれなくてはならない。単に物質的な視点からみても、生産の直接の能率をほんのすこし向上させるような変化でも、もし富の生産がいっそう能率的で分配がいっそう平等な組織に向かって人間をすすませるようなものであれば、そのような変化は実現させてみるだけの価値がある。どのような組織にせよ、産業の下級な職階にあるものの性能をむだにしてしまうような組織にたいしては、重大な疑問をなげかける余地が多分にあるのだ。〉

 マーシャルは、組織は組織のためにあるのではなく、あくまでも社会と人間のためにあると考えている。反社会的存在となりうる資本家は、場合によっては退場してもらわなければならない。しかし、資本家を奥座敷に移したとしても、資本そのものを消滅させるわけにはいかない。資本そのものの否定は、社会に災厄をもたらすだけである。
 しかし、資本家に取って替わる産業組織も、時の社会的ルールにしたがいながら、激しい競争のなかで、独立自尊を保つ努力をつづける必要がある。産業組織の目的は組織の拡大そのものではない。その活動は、組織の内外を問わず、大きくみれば、あくまでもよりよき社会をつくることに向けられねばならない。マーシャルが考えていたのは、おそらくそういうことである。

   11 産業組織論

 ここでは分業と機械化、産業立地の条件、大規模生産、企業経営などが取りあげられる。
 集中と反復は作業の能率化につながる。ひとつの製品をつくるさいには、ひとりがすべての作業をおこなうのでなく、特定工程の作業をくり返しおこなうほうが、はるかに効率的である。そのことはアダム・スミスが分業論のなかで示したとおりだ。
 しかし、作業が型にはまったものになってしまえば、ほぼ機械で代替できる状態が生まれてくる。近代的な生産の特徴は、機械が肉体的技能に取って代わったことだ、とマーシャルはいう。
 金属工業部門でも、精巧な機械なら人の労働をさほど借りなくても、容易に金属製品を多量につくりだすことができる。工作機械は金属の加工を容易にした。
 機械は年ごとに自動になり、手労働による補助をだんだん必要としなくなっている。そのため、機械を取り扱う人には、肉体的能力より、高い判断力と細心の注意が求められるようになった。
 機械を扱うにはかつての職人のような特殊の技能はいらない。高次の知性があれば、少しの訓練で、機械が扱えるようになる、とマーシャルはいう。
 機械化のメリットは商品価格を下げ、それによって、より多くの人がその商品を買えるようにすることだ。
 労働面でいうと、機械は人間の肉体的過労を抑える役割をはたしてきた。いやむしろ、人間の筋肉力では限界がある作業をも可能にした。画一的で単調な作業は、次第に機械に取って代わられるだろう、とマーシャルは断言する。
 機械化が労働力を排除するとはかぎらない。機械化の進展にともなって、判断力や創造力を必要とする新たな種類の仕事が増えてくるはずだからである。
 マーシャルは、産業が発展するには企業の内部的効率の増進に加えて、立地条件などの外部的要因が重要になってくると述べている。
 文明の初期段階では、重い物は地場で生産するほかなかった。水運だけが重い物を遠くに運ぶ手段だった。しかし、徐々に交通が開けてくると、遠方からの製品──たとえば被服や金属製の道具、香料など──もはいってくる。定期市などに、こうした商品が並ぶと、消費者に新たな欲望がめばえていった。
 地域に特化した産業がないわけではない。地域独自の気象や土壌、あるいは近くに鉱山や採石場があるといった事情が、そうした産業の成立をうながす。金属工業は一般に鉱山の近く、あるいは燃料に恵まれた場所で誕生した。
 また宮廷などがあれば、そこに人が集まり、高級な財への需要がおこり、熟練の職人たちもやってきて、工芸が発達してくる。
 産業の条件は自然条件だけではない。宗教的、政治的、経済的な要因もからんでくる。そして、産業がその場所を選択すると、そこにとどまることが多い。やがて、近隣に補助産業が生まれ、道具や機械、素材を提供するようになる。産業はさらに流通の発達をうながす。
 マーシャルによれば、大都市の中心部は地価が高いので、工場地帯は都市の郊外に形成されやすい。イギリスでは、鉱業や機械工業のある近辺に繊維産業が引き寄せられ、いくつかの異なる産業が集まることによって、工業地帯が形成されてきたという。
 いっぽう、消費面をみると、商店もまた一定の地域に集まる傾向がある。こうして商店街ができあがっていく。
 運輸通信手段の発達と低廉化は、産業や商業にも大きな影響をおよぼす。それによって、いわば産業や商業の場が拡散する。
 産業が発達するにつれ、非農業人口の割合が増えてくる。「中世には農業人口は全人口の4分の3を占めていたが、最近[20世紀はじめ]のセンサスでは9分の1の者しか農業に従事していない」
 とはいえ、かつての農民は「いまでは醸造屋やパン屋、紡績工や織布工、れんが積みや大工、仕立屋や婦人服屋その他多くの業種が行っている仕事を大部分自分でやっていた」のだから、「農業人口の縮小の実態は外見ほど大きなものでもない」。労働者は農民から分化したにすぎない、とマーシャルはいう。
 さらにマーシャルは農業から流出した人口は製造業に吸収されたわけでもない、と述べている。製造業においては機械化が進んだため、生産力の割に労働力をさほど必要としなかった。

〈1851年以来イングランドにおいて農業の縮小によって急速に膨張していった職種は、鉱業・建設業・商業・道路および鉄道による輸送業をはじめ中央および地方の政府職員・初等から高等にいたる学校・医療・音楽・劇場その他娯楽などであった。……これら職種では人間の労働は1世紀以前に比べて著しく能率が高くなったわけではない。これらによってみたされなくてはならない欲望が一般的な富の増大につれて拡大してくれば、産業人口のいよいよ大きな割合がこの分野に吸収されていくのは見やすい道理である。〉

 マーシャルはいわゆる第3次産業に従事する労働者の割合が増加することを予測していたといえる。
 ここで、ふたたびマーシャルは産業組織の問題に戻って、大規模生産のメリットについて論じる。
 大規模な製造業者は改良された新たな商品をつくりだし、それを広告宣伝することによって、消費者の欲望をつくりだすことができる。小規模な製造業者では、そうしたことはとても無理だ。
 大きな事業体のメリットは、大量に安く仕入れができ、輸送費を節約でき、また商品を大量に安く販売できることである。商品ブランドが世間に知られるようになると、顧客の信頼もついてくる。こうした経済の高度化が、企業の巨大化をうながす、とマーシャルは述べている。
 さらに大規模な製造業者は、多種多様な人間を適性に応じて現場に配分することによって分業の効率を高める。いっぽう、経営者は現場管理者を適切に配置することによって、生産の進行をまかせ、みずからは営業のもっとも重要な課題にのみ全力を集中し、市場全体の動きをみながら、企業の方向性を決めていくようになる。
 小さな事業体では、たとえ能力のある経営者でも、現場の仕事にほとんどの時間をとられてしまう。とはいえ、小企業の経営者が現場に目が行き届き、そこから独自の経験知を獲得し、ユニークな活動を展開する可能性もないわけではない。
 たとえ大企業であっても、企業には競争がつきものである。大きな資本、高度な機械、優秀な労働力、広範な営業取引関係をもつ大企業にたいしても、独創性と機動力、忍耐強さをもって挑んでくる新興勢力が現れる可能性は常にある。マーシャルは企業を発展させ存続させていくことが、いかにむずかしいかを認識している。
 困難なのは製品の販売である。単純で均質な財であれば、大規模生産のメリットを生かせるから、こうした分野では大企業が小企業を駆逐し、小企業を統合していくだろう。だが、特殊な商品については、大規模生産のメリットは生かせない。手間のかかる特殊な商品が限られた市場で引きつづき販売される。
 いっぽうマーシャルは大企業の最盛期が長く続くことはまずないとも指摘している。「その台頭をささえた非凡な活力を失ってしまった企業は遠からず衰退する」
 大きな事業体が小さな事業体にたいし優位性をもつのは製造業だけではない。小売業でも小さな店は日々、その地盤を失いつつある。小売業でも大型化が進むと、消費者は大規模店で豊富な商品をより適切な価格で購入するようになる、とマーシャルはいう。
 マーシャルは企業経営のむずかしさについて述べている。
 ちいさな個人商店では、店主が商品の仕入れから陳列、販売、店内の掃除まで、全部自分でこなさなければならない。ところが大きな企業では、経営者の仕事は資本と労働力を結合させ、細部にわたって事業計画の実施を監督することに特化される。
 経営者の仕事は労働者を監督することだけではない。自己の商品にたいする知識をもち、商品の生産・消費動向を予測し、消費者の欲求に応える新たな商品をつくりだし、常に古い商品の生産方法を改善するよう努めねばならない。そのために、経営者は「慎重に判断し、大胆に危険をおかすことができなくてはならない」。
 経営者は指導者としての能力を問われる。スタッフを育て、信頼し、スタッフの機略と創造力を引きだすのも経営者の仕事である。
 一見すると実業家の息子は父親から経営のノウハウを学び、代々にわたって企業を発展させていくかに思えるが、「事態の真相はこれとはたいへん異なっている」。二代目、三代目で没落していく企業が多いのは、かれらが経営者としての気質や能力を失ってしまうからだ。そのとき事業の活力をよみがえらせるには、優秀なスタッフのなかから次期経営者を選ぶほかない。
 個人会社とちがって株式会社の場合は、たいてい経営者に事業の運営がまかされる。経営者は株式を所有していなくてもよい。経営者は業績に応じて、低い職階から高い職階に昇格し、トップに立つことが多い、とマーシャルはいう。
 マーシャルによれば、株式会社の弱点は、その主要な危険をになう株主が往々にして営業についての知識を欠いていることだ。そのため、株式会社という民主的な経営形態が発展していくには、営業上の秘密が減少し、公開性が増大していくことが求められる。
 製造業や鉱業、運輸業、通信業、銀行業などは巨額な資本を要するようになり、ちいさな事業体が活躍する余地がなくなってきた。このことは、経済の発展にとってかならずしもプラスとはいえない。トラストやカルテルはその最たる弊害である。
 独占企業ににたいし協同組合は理想的な事業体のようにみえる。しかし、協同組合の管理者にはなかなかよい人が得られないのが実情で、協同組合はいまのところ消費組合以外に顕著な成功例はみられないとしながらも、マーシャルは収益配分制を基本とする協同主義の発展に大きな期待を寄せている。
 イングランドの総人口の4分の3は勤労階級だ、とマーシャルはいう。だが、かれらはずっと労働者にとどまるわけではない。管理職をめざして努力すれば、企業の共同経営者になれる可能性だってある。自分でお金をためて、小さな店をいとなむこともできる。一世代のあいだに最高の地位まで昇進することは無理だとしても、二世代のあいだにそれを実現することは不可能ではない。
「大観してみると広範な上向運動がある」のが、いまの時代の特徴なのだ。もっとも、競争は激烈だ。労働者も産業上の技能や能力の向上を求められる。同時に経営者も「判断・機敏・機略・綿密・意志の強固さ」といった広範な能力を求められるようになっている。
 その結果、有能な実業家はさまざまな困難を乗り越えて、大きな資本を動かすことができるようになる。いっぽう無能な実業家はたちまち資本を失ってしまい、事業を破産へと追いこんでしまう。いまはそういう厳しい時代なのだ、とマーシャルはいう。自由な時代は、厳しい競争をともなう組織の時代でもあること、さらに企業の運営にはすぐれた経営能力を要すること、安直な国営化はかえって社会の改善を妨げる場合があることをマーシャルは認識していたといえるだろう。

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