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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その5) [商品世界論ノート]

   17 分配論、その予備的考察

 最終の第6編「国民所得の分配」。
 国民所得の分配を論じる前に、マーシャルはその予備的考察をおこなっている。
 人間が生産するのは消費するためである。したがって、国民生産は国民所得と一致する。いまふうにいえば、国民総生産は国民総所得と同じである。国民所得は国民分配分と言い換えてもいいだろう。
 分配の問題が生じるのは、人間が機械でも奴隷でもないからだ。しかも、現代の経済は「生活必需品をこえた余剰を自然からいよいよ大幅に引きだせるようになってきており」、この余剰を人びとにいかに分配するかが問われるようになってきている、とマーシャルはいう。
 国民所得が労働者と資本家、土地所有者のあいだで、いかに分配されるか。これがマーシャルの問いである。
 最初に、マーシャルはこれまでの経済学説を検討する。
 フランスのフィジオクラット(いわゆる重農主義者)は、「労働者の賃金を飢餓水準にくぎ付けにするような人口の自然法則」があり、利潤についても自然率があると想定していた。アダム・スミスも賃金や利潤の自然率があると考えたが、それらは労働力の需給関係によってある程度変動するとみていた。
マルサスは賃金水準が変化することを認めていたが、賃金が上昇すれば人口が増加し、それによってかえって労働者の生活条件が悪化すると予測した。
 いっぽう、通説では、リカードも賃金は生活必需品をまかなう水準に釘付けされるとみていたと思われがちだ。だが、リカードの主張は、むしろ賃金の低落を防ぐことに置かれていた、とマーシャルはいう。
J・S・ミルは労働者の賃金が最低水準に抑えられがちなことを批判していた。
これら前期の経済学者の見方を踏まえながら、マーシャルは分配についての新たな考え方を示したいとしている。
 マーシャルが最初に仮定するのは、(実際にはありえないのだが)すべての人が労働と資本を所有している場合である。この場合は、投入された労働に応じてつくられた商品が交換され、原則として、すべての人が労働に応じた所得を得る。そのさい、多くの業種で、たとえば作業能率が倍増したとすれば、商品の生産量が増大し、それによって経済のパイが大きくなり、全体の所得も増えることになる。
 たとえ人口が増大していっても「輸送技術の改良、新しい発明、および自然にたいする新しい制御力が得られるごとに、すべての家族が入手できる安楽品やぜいたく品が一様に増大していく」可能性は高い、とマーシャルはいう。このあたりマーシャルの見方はマルサスの悲観論と異なる。
 しかし、人口の増加が長期につづくと、農業などにおいて、収穫逓減の法則がはたらくことはないのだろうか。これについても、マーシャルは一定の生産技術の向上がなされれば、食料が不足することはないとみている。
 現実の世界では、だいたいにおいて、土地と労働、資本は分離されている。そこでは、国民所得、言い換えれば国民分配分は、土地、労働、資本の所有者に分配されていくことになる。
企業家は収益の限界点まで、生産要因を投入していくと考えられる。雇用はそれによって決定される。限界的な雇用は、その労働の投入が、収益を生みだすかいなかによって決まるといってよい。
 ここからマーシャルは以下の傾向を導きだす。
 すなわち「すべての種類の労働の賃金は、その種類の限界的労働者の追加的労働によってもたらされる純生産額と均等となる傾きがある」。
 これがマーシャルの唱える賃金理論の基本だといってよい。
 現実の産業を考える場合には、労働者の雇用にとどまらず、労務管理や機械の導入、原材料、土地についても考慮しなければならない。それらの生産要因を規制するのは、需要と供給の状態(すなわち価格)である。
 一般に企業家は、事業にたいする投資を収益が得られる限界まで進めていく。そのさい、拡大の境界となるのは、利子率である。つまり、利子率が高く、収益率がそれを上回らないと判断されれば、そこで投資はストップする。
 機械と労働との関係には代替性がある。ある種の労働は、機械によってまったく雇用から排除されてしまう。しかし、「全体をみれば労働全般を駆逐するなどということはおこりえない」。生産の拡大は、たとえばその商品を普及するための新たな労働を必要とするからである。このあたり、マーシャルはあくまで楽観的である。
 マーシャルは、さらに国民所得の分配について考察を進める。
 資本の所得の源泉となるのは、商品の生産から得られる利得である。
そのさい、「生産要因にせよ直接消費される商品にせよ、すべてのものの生産は需要供給の力のあいだにつりあいが保たれている限度ないし限界のところまですすめられる」。
それによって得られる純利益が資本の所得となる。
 いっぽう、労働者の所得は賃金である。
 マーシャルは仕事が常に苦しいものだというのはうそで、適度な仕事は楽しいものだという。そして、たいていの場合、報酬が増えれば、労働者はより熱心に、しかも長時間にわたって働くのをいとわない、と指摘している。
 さらに「報酬が引き上げられれば、だいたいのところ能率の高い労働の供給もただちに増大する」と記している。
 賃金の増大が死亡率の低下をもたらし、労働者の肉体的・精神的活力を高めることも認めている。賃金はぎりぎりの生活を満たす最低のものであってよいはずがない。賃金は慣行上の必需品や、習慣上の安楽品を満たす水準にあってこそ、人間生活の風格向上に資する、とマーシャルはいう。
 しかし、労働者の所得が上昇するには、それなりの条件が必要だと指摘することも忘れていない。

〈必需的とはいえないような消費の増大は、ただ人間の自然にたいする制御力の向上を通してまかなうほかはない。それは知識と生産の技法の進歩、組織の改善と原料供給源の拡大および充実、さらには資本および所期の目標を達成する各種の手段の増大があってはじめて可能になるのである。〉

 つまり、賃金が上昇するには、労働生産性の上昇がともなわなければならないというわけだ。
ヨーロッパにおいて、労働者の賃金が上がってきたのは、こうした条件が満たされるようになったからだ、とマーシャルはいう。そして、じっさい賃金の上昇は、労働者の気力と能率の向上をもたらしてきた。
 マーシャルの見方は楽観的だ。
「賃金の上昇は、それが不健康な状態のもとで得られたものでないかぎり、ほとんどつねに世代の肉体的・知性的、いな道徳的な力をさえ強化し、他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるはずの稼得の増大はさらにその上昇率を高める」
 もちろん、その前提として、賃金は労働にたいする需要と供給によって決まるという考え方がある。
需要価格を規定するのは労働の限界生産性である。いっぽう供給価格を規定するのは「能率の高いエネルギーを養成訓練しかつこれを維持していく費用」、言い換えれば、人がそれなりの生活を送れるだけの支払額である。
 次に、利子についていうと、利子とは資本の利用にたいして支払われる価格である。利子率は長期的には、資金にたいする需要と供給の関係によって規定される。
 一般に利子率が上昇すれば、貯蓄が増大する。そのいっぽう、利子率の上昇は、資金にたいする需要を減らしていく。そのため、そこには一種のせめぎ合いが生じてくる。マーシャルは、一般に資本ストックの増加は緩慢で、時間がかかるとみていた。
 土地は資本や労働などとはことなる性格をもっている。土地はたしかに、ある面、資本の一形態であり、その用途も多岐にわたり、用途を変更することも可能だ。だが、反面、土地のストックは限られ、それを増やすのはむずかしい。それが土地の特殊性だ、とマーシャルはいう。
 もう一度、くり返して言おう。
国民所得の源泉は、生産されたすべての商品の純集計からなり、それらは労働の稼得、資本の利潤(および利子)、そして土地の地代へと配分されていく。経済のパイが大きければ、それぞれの分け前も大きくなる。
 国民所得は均等に配分されるわけではない。利潤を得る資本家と賃金を得る労働者とのあいだでは、所得の性格が異なる。また同じ階級内でも所得は大きく異なる。資本にも格差があり、賃金にも格差がある。
 加えて、新しい資源が開発されるとか、新しい機械が発明されるとか、新しい商品が生みだされるとか、競争によって、生産条件はめまぐるしく変化する。商品の代替も生じていく。資本も労働も、大きな流動性のなかにおかれている。
 人は市場について完全な知識をもっているわけではない。その選択は、手の届くところにかぎられがちで、全般的にみて、いちばん有利と思われるものに飛びつく傾向がみられる。市場の変化にたいする調整は、時間をかけておこなわれていく以外にない。
 資本と労働は、対立と相互依存の関係にある。資本はできるだけ労働コストを抑えようとする。そのために機械を導入し、雇用を減らす場合もある。いっぽう、商品の種類によっては、その完成に時間がかかるため、資本が実質上、労働者に賃金を前払いしなければならないこともある。
 資本が労働を完全に排除することは不可能である。資本は機械や原料だけでなく、「労働の体化物」でもあるからだ。
「全般的にみれば、資本の発達は国民分配分を増大させ、他の分野で労働の新しくゆたかな雇用機会を開発していって、待忍の用役[たとえば機械]によって労働のそれが局部的に駆逐された損害をつぐなってあまりあるものをもたらすだろう」と、マーシャルはいう。いかなる新技術の導入も雇用を排除するにはいたらない。
 とりあえずの結論として、マーシャルは次のように述べている。

〈資本全般と労働全般とは国民分配分の生産に関して協同し、国民分配分からのそれぞれの限界効率に対応してその稼得を配分される。その相互の依存関係にはきわめて密接なものがあり、労働を欠いては資本ははたらけないし、自己ないし他人の資本によって補足されない労働者は長くは生きていけない。労働が活力に富んでおれば、資本は高い報酬をかちとりすみやかに発展していくし、資本と知識の力をかりれば、西欧諸国の普通の労働者もかつての王侯貴族に比べていろいろな点でよい食料をとり、よい衣料を着、よい住居にさえ住めるようになる。〉

 マーシャルは資本主義にたいする悲観的運命論に替えて、資本主義の楽観的展望をかかげている。

   18 労働の稼得

 ケインズは『人物評伝』のなかで、師のマーシャルについて論じ、かれが晩年に語ったとされることばを引用している。

〈[大学の]休暇中に私はいくつかの都市の最も貧困な地区を訪れて、最も貧しい人々の顔を見ながら次々に街路を歩いてみた。そのあと、私は経済学についてできるだけ徹底的な研究をしようと決意した。〉

 マーシャルは貧困を克服する手立てとして、経済学を研究しようと思った。それはマルクスも同様だった。マルクスの場合は、社会主義革命こそが、その解決策となるはずだった。これにたいし、マーシャルは長期的には資本主義の将来に楽観的な展望をもつにいたった。
 いっぽう、大恐慌の惨憺なありさまをまのあたりにしたケインズは、マーシャルの楽観論を念頭におきながらも、その「原理」を組み替える必要性を感じた。その結果、『雇用、利子、および貨幣の一般理論』(1936年)が執筆される。そこでは、マーシャルの体系からははずされていた国家が、大きな役割をもつ存在として浮上することになる。
 ここではまだケインズには踏みこまず、マーシャルの分配論をさらにみていくことにしよう。取りあげるのは「労働の稼得」を扱った3つの章である。
 はじめにマーシャルは、労働の稼得はかならずしも均等ではなく、労働者の能率によって、かなり不均等であることを認めている。
 賃金は時間給(日給、月給)、出来高払い、能率給などによって支払われる。マーシャルは、賃金はほんらい「労働者に要求される能力と能率の行使をもととして算定」されるべきだという立場をとっている。そして、労働賃金を一定の水準に向かわせるのは、経済の自由、言い換えれば競争があるからだとしている。
 機械の導入は雇用の減少に結びつきやすい。しかし、雇用を減らしたうえで、賃金も減らすのはまちがっている、とマーシャルは断言する。むしろ、機械を導入しながら賃金を増やしたほうが、生産効率が上がり、製品の単位あたり費用も低下する。かれは「最高の賃金を支払おうとくふうしている実業家こそ最善の実業家である」というモットーに賛成する。
 実質賃金と名目賃金とは区別されなければならない。貨幣の購買力を考慮する必要があるからだ。重要なのは実質賃金である。
 ある人の本来の所得を知るには、粗収入から経費を引いてみなければならない。弁護士であれ、大工であれ、医者であれ、収入から営業経費を控除しなければ、ほんらいの所得は判明しない。
 召使いや店員が、自分で衣服を用意しなければならない場合は、これも経費である。しかし、たとえば、そうした衣服を主人や店主が提供した場合、これを実質賃金に加えるのはまちがいである。逆に、使用者が労働者に、生産した商品の購入を強制する場合は、実質賃金を低下させることになる。
 個人事業では、成功の度合いは不確実であり、その度合いに応じて所得は大きく異なってくる。そのため、不安定な仕事より確実な職種を求める者が多いこと、そのいっぽうで異常に高い報酬を得られる職種に引きつけられていく者もいるというわけだ。
 雇用が不規則な職種では、料金は仕事のわりに高くなる。そのことは弁護士や家具屋などをみればわかる、とマーシャルはいう。このあたりは、当時のイギリスの事情も勘案しなければならないだろう。
 また、その収入を主業だけではなく、副業で稼ぐケースもないではない。家内事業や農業では、家族全体の稼得を収入単位とみるほうがよいかもしれないとも述べている。
 仕事の選択は、個々人の事情によっても、民族性によってもことなってくる。低級な仕事にしか適さない人がいるのも事実だ、とマーシャルはいう。そういう人は簡単な仕事に押し寄せ、かえってその職種の賃金を低くする原因となっている。しかし、「こういった種類の労働をするものが少なくなり、その賃金も高くなるようにすることは、他のどんな仕事にも劣らず、社会的に緊要な仕事なのである」。
 このように、マーシャルは、労働者にせよ、個人事業者にせよ、その仕事内容も所得もけっして一律ではなく、大きなばらつきがあるとみている。
 その理由は、働き手が扱っている(あるいは生みだしている)物やサービス、すなわち商品の価値に関係している。労働者や個人事業主は、その商品が生みだす価値の形成にどれだけ寄与したかによって、その分配分を受け取るとみてよい。労働者や個人事業主の所得が、仕事に応じて、かなりのちがいがでるのはそのためだ。
 マーシャルはさらに、賃金のもたらす累積的効果にも注目する。低賃金は労働の質を低下させ、さらにいっそうの賃金低下を招く。これにたいし、高賃金は労働の質を高め、人をより勤勉にさせる。
 いっぽうマーシャルは労働者は機械のように売買できないこと、さらに「労働者はその労働力を売るが、自分自身を売り渡しはしない」とも述べている。
 労働者は奴隷ではない。しかも、労働者の売る能力は、機械以上のものである。
 マーシャルは、労働者の育成には長い時間がかかることを認めている。
 労働者の養育と訓練は、その両親の保護があってこそ可能になる。資力に加えて、先見力や犠牲が、子の将来を支える。
 高い階層の人びとは、将来を考え、子どもたちを養育し、訓練することを怠らない。しかし、下層の人びとは、しばしば子どもたちの教育訓練にまで目がいかぬことが多い。そのため「かれらは能力や資質を十分に開発されぬまま、その生涯を終えてしまう」ことになりがちだが、それらが十分に開花し結実するならば、社会にとってどれだけ有益かわからない、とマーシャルは嘆いている。
 問題はこうした弊害が累積的であることだ。「そうした悪循環が世代から世代へと累積していく」ことを何とかして避けたい。
「ある世代の労働者によりよい稼得とかれらの最良の資質を開発するよい機会をもたらすような変化が起これば、かれらはその子供たちによりよい物的および道徳的な利便を与えてやれるようになろう」。それがマーシャルの希望でもある。
 人生における出発のちがいは、職業の選択においても大きなちがいをもたらす。高い階層に生まれた者が有利なことはいうまでもない。熟練工の息子は、非熟練工の息子よりめぐまれているし、家庭でもゆきとどいた世話を受けて育っている。
 学校での教育が終了したあと、労働者に周到な訓練をほどこすのは雇い主である。雇い主は従業員に投下した資本の成果があらわれることを期待する。
「高賃金の労働こそほんとうは安い労働だ」とマーシャルはいう。その影響力はひとつの世代だけで終わらず、次の世代にも永続的な便益を与える。
 所得の大きさは、次の世代の育成にも影響をもたらすというのが、マーシャルの持論だとみてよい。
 労働についての考察は、さらにつづく。

 労働のもうひとつの特殊性は、それがかならず場所をともなうことだ、とマーシャルは論じている。場所なくして、労働はない。
 労働がおこなわれるのが不快な場所、あるいは危険な場所であれば、それにたいして支払われる賃金は高くなる。また人がしばしば移住するのは、自主的ないし強制的に、新たな仕事場に移ることを余儀なくされるからである。
 このテーマは労働の流動性、もっと大きくいえば人口の移動性に関係してくる。
さらに、労働のもうひとつの特殊性、それは労働力が「保存がきかない」ことだ、とマーシャルは指摘する。俗なことばでいうと、人ははたらかないと食っていけない。労働者にとって最大の災厄は失業である。
 未熟練労働者の場合は、その代わりとなる者は多くいる。そのため労働組合を結成するのもむずかしく、賃金交渉力も弱い。熟練労働者や上流社会の召使いは、未熟練労働者よりも有利な交渉力をもっている、とマーシャルはいう。知的職業人の場合は、その用役を売る、より優位な条件を備えているといえるだろう。
 一般に、肉体労働者は交渉において不利な立場にたっている。かれらの賃金は低く抑えられがちだ。その影響は累積的で、かれらの能率を引き下げ(やる気をなくさせ)、さらに賃金を引き下げる方向にはたらいてしまう。
 親は子どもたちを、よりよい職につけたいと願っている。だが、その業種が将来どうなるかを見極めるのはじっさいにはなかなかむずかしいことだ。よいと思って選んだ職種が、そこに人が集まりすぎて、かえって賃金が低くなることもある。そこへの就職が容易でない場合もある。何はともあれ、一般的に、子どもの仕事は、親の仕事の影響を受けることが多い、とマーシャルは書いている。
 しかし、労働の需要に対応するように労働の供給が調整されていく事実を見落とすわけにはいかない。労働力の移動が生じるのはそのためだ。
「つまり成人労働力がある業種から他の業種へ、ある職階から他の職階へ、またある場所から他の場所へ移動する」。この移動は、ときに大規模で、急速におこなわれることがある、とマーシャルはいう。
 働き手が一人前になり、その力を発揮するまでには長い時間がかかるけれども、その後は仕事場を離れるまで、長くはたらきつづけることになる。その意味で、労働に関する需給関係は「長期」におよぶ。労働を提供した人びとにたいする報酬は、じゅうぶんとはいかないことが多いが、その稼得額は「利用可能な労働のストック、他方、労働にたいする需要」によって規定されざるをえない。
 現代社会において労働者は企業によって雇用されることが多くなっている。そして、資本家的企業家は、経済競争のなかで、事業を拡張し、高い収益を確保するため、従業員を確保し、賃金改定に応じないわけにはいかなくなっている、とマーシャルはいう。
「その結果、一般には、収益の大部分はやがて従業員のほうに配分されていき、かれらの稼得額は繁栄がつづくかぎり正常な水準を上回っていく」。労働分配率が増大することをマーシャルは望んでいたといえるだろう。
 だが、仕事場がなくなると、労働者への需要は減り、実質賃金が低下していく。マーシャルの時代、1873年にイギリスでは恐慌が発生し、20年にわたる不況がつづいていた。

〈1873年に頂点に達した信用の拡張は事業の堅実な基調をうちこわしてしまい、真の繁栄の基礎をそこない、その程度には差こそあれ、ほとんどの産業を不健全で沈滞した状態におとしいれていった。〉

 超マクロ的展望でいうと、このころ世界のヘゲモニーは、大英帝国からアメリカ帝国に移ろうとしていた。
 1873年以降の長期不況は、イギリスの炭鉱労働者をはじめ、多くの労働者に深刻な影響をもたらした。
 賃金理論についてのマーシャルの結論はこうである。

〈人的なものにせよ物的なものにせよ、生産要因の場合には、その需要はそれを使って製造された商品にたいする需要から「派生」してくる。こういう短期においては賃金の変動は販売価格の変動に付随して起こるのであって、これに先だって起こるわけではない。〉

 賃金は商品世界の動向に左右されないわけにはいかない。
 その反面、マーシャルは労働力の需要と供給のあいだには、常に正常均衡点に向かう傾向があると論じている。ただし、一国の経済状態はたえず変化しているために、労働力の需給均衡点もたえず移動していく。

   19 利子と利潤

 マーシャルの功績は、利子と利潤の概念を区別したことである。
 すなわち、利子が資本(資金)への報酬であるのにたいし、利潤を企業家利得と解釈したのである。
 利子が支払われるのは「資本の利用からなんらかの利益が得られるとの期待」が成立する場合である。当面やむを得ない必要を満たしたり、機械を購入したり、工場を手に入れたり、住宅を取得したりするために、人びとはたとえば金融機関から融資を受ける。現在の要求を満たすために外部から資金を借り入れる場合には利子が発生するが、その資金にたいする報酬の割合が利子率である。
 古代や中世においては、困窮者にたいする金貸しのあこぎな貸付が、倫理的に非難されることが多かったし、いまもそうした問題が残っていないわけではない。しかし、近代の産業組織においては、利子にたいする考え方は根本的に変わってきた、とマーシャルはいう。

〈文明の進歩につれて、困窮した人々にたいする富の貸付は着実にその例が少なくなり、その比重も縮小してきた。その反面、事業における生産的用途のための資本の貸付は加速度的に増大してきた。その結果、借り手はもはや抑圧されたものとはみなされなくなり、すべての生産者が、借入資本をもって運営されているかどうかにかかわりなく、使用している資本の利子を経費のうちに算入し、資本費用が製品の価格によって長期的には回収されることが事業存続の条件として不可欠だと主張されるようになった。〉

 つまり、産業社会においては、資金の貸付はおもに事業にたいしておこなわれるようになり、貸付にたいする利子は、商品を生産したり販売したりする事業の獲得する粗利に含まれるようになるというわけである。
 マーシャルは、利潤とは元来、労働力の生みだした剰余価値にほかならないというマルクスの主張に反論し、あくまでもそれを資本の取り分と理解している。
 労働力にたいしては賃金が支払われる(それがはたして労働力の価値に見合ったものであるかどうかは別にして)。これにたいし、「使用者および職長などの労働と資本の用役」によって生みだされるのが利潤なのだと解釈している。
 いわゆる利子は粗利子というべきもので、ここでは資本の(「待忍」による)利得である純利子のほかに、さまざまな手数料が含まれている、とマーシャルはいう。その手数料とは、危険補償のための引き当て分や経営上の報酬などである。このことは銀行の利子の中身を思い浮かべれば、よく理解できるだろう。
 ここでマーシャルは、自己資本による事業と他人資本による事業とを対比している。営業上の困難はどちらも同じである。しかし、他人資本の場合は、借り手の信用という問題が発生し、このリスクにたいし、貸し手は高い利子をかけないわけにはいかない。そうした利子のなかには、経営上の報酬という意味合いも含まれている。
 こうして、利子率は純粋利子率(純利率)から乖離していくことになる。マーシャルが原理的に問題とするのは、あくまでも純利率である。
 現代の金融市場の特徴は、資本が過剰な場所から不足な場所へ、また縮小過程にある業種から拡大過程にある業種へと移動することだという。こうした流動性によって、純利率は国内だけではなく国際的にも平準化する傾向がある。銀行は確実な担保をもつ短期の融資であれば、時に低い利率でも、すすんで融資することもありうる。
 マーシャルは、産業社会の発展と調整は、資本(資金)の流動性を通じてなされると考えていた。
 厳密にいうと、利子率とは、新たな投資によって得られると期待される純利率を意味する。それは更新される資本にたいしては適用されない。
 だが、現実には、貨幣の購買力の変動は、利子率に大きな影響をもたらす。たとえば、事業者は貨幣の購買力が上昇すれば(つまり物価が下落すれば)、より多くの商品を販売しなければならない。そうしないと、借り入れに利子をつけて返却することができないからだ。
 逆に貨幣の購買力が下落すれば(つまり物価が上昇すれば)、より少ない商品を販売するだけで、返済は可能になる。
 好不況の循環は実質利子率の変動とふかく結びついている、とマーシャルはいう。価格が上昇するときは、人びとは争ってカネを借り、物を買うことによって価格はさらに上昇する。やがて、信用が収縮し、価格が低落しはじめると、だれもが商品を手放し、それによって価格がいっそう低落していく。こうして「価格が低落したがゆえに価格は低落する、といった悪循環が長らくつづく」。
利子と利子率に代表される金融問題は、マーシャルの弟子であるケインズによって、より広範に検討されていくことになるだろう。
 次に論じられるのが、利潤についてである。
 マーシャルは、利潤は企業の能力によって生じると考えている。すなわち、資本力、経営力、組織力が利潤を生みだす源である。
 マルクスが剰余価値の利潤への転化を解き明かすのに困難を覚えたように、利潤が発生する根拠を見いだすのは、そう容易ではない。
 現在、経済学のテキストなどでみられる利潤の定義は、次のようなものである。

〈[商品の]販売収入から賃金支払を控除した剰余を利潤とよぶ。この利潤を資本の前貸にたいする収穫(リターン)とみなし、前者の前貸資本額にたいする比率を「利潤率」と呼ぼう。〉(青木昌彦『分配論』による)

 これはあくまでも定義であって、利潤がはたして実現するかどうかは別問題である。
 企業が存続していくのは容易ではない。そこには、常に「代替の法則」、言い換えれば競争の原理がはたらくからだ。
「直接的で短期的な用役をより安い価格で提供する産業組織の方式が他のものを駆逐していく傾きがある」と、マーシャルはいう。要するに、より役に立つ商品をより安く提供できる企業が生き残っていくというわけだ。その生存競争はけっこう激しい。
 労働者は一般に利潤の分配にあずからない。その分配にあずかるのは、部長や工場長、職長などの管理職、ならびに事業主だ。賃金と利潤ははっきり区別されている。利潤から得られる所得は、報酬ということになる。
 それでは企業はどのようにして利潤を得るのだろう。マーシャルは次のような例を挙げている。
 大工が独立し、ひとりで稼いでいる場合は、依頼された仕事から得られる収入と、仕事場や道具などにかかる経費の差額が利潤となる。
 しかし、その事業が大きくなって、大工が建築業者になると、かれは人を雇い入れ、その収入から賃金、その他の経費を控除した分を利潤として獲得することになる。
 さらにかれがすぐれた経営能力をもっていれば、より少ない経費でより大きな成果を挙げる工夫を重ね、販路を広げて、事業規模を拡大し、より多くの利潤を得るようになる。
 企業間には、代替の法則、言い換えれば競争の原理がはたらいている。大規模企業と小規模企業のあいだでは棲み分けがなされる場合もあるが、企業間の吸収や統合へと発展することもありうる。
 伝統的な産業分野では、利潤率はおもに自己資本からなる企業間の競争によって決まってくる。借入資本で企業を運営しようとする新人が優位となるのは、大胆な機略と工夫によって、これまでにない商品を開発できる場合においてのみである、とマーシャルは断言している。
 いっぽう大きな利潤が出なくても、さほど気にしない人もいる。自作農や親方、貧乏画家、三文文士などだ、とマーシャルはいう。かれらは、職業の自由さと品位、それに商品への愛着があって、強い忍耐力でその仕事を守りつづける。低い報酬しか得られなくても夢中になってはたらく。
 マーシャルの時代、株式会社はまだ発展途上段階だったが、かれはその株式会社について、こんなふうに述べている。株式会社では、経営者の大半は、ほとんどあるいはまったく資本をもっていない。会社内部の摩擦もあるし、株主と役員の対立もあって、その運営は容易ではない。「株式会社は個人企業にみるような機略、活力、強固な意志と迅速な行動を示すことはまれである」
 だが、大きな資本を有する株式会社は、銀行や保険会社、さらには鉄道、電車、運河、電気、ガス、水道などの産業部門では長所を発揮する。「その経営は長期的な視野にたって将来を考え、緩慢ではあるが遠大な方針をたてるようになるのが普通である」
 マーシャルは、産業が巨大化するにつれて、事業体は株式会社形態に移行するとみていた。
現代経済の特徴は、「自己資本をもたないが経営能力はもっているような人々に活動の場を与える」ところにあるとも述べている。以前は「資本の所有者以外のものの手で資本が利用されることがほとんどなかった」。それにたいし、現代においては、経営能力と必要な資本とが結合し、最小の費用でより役立つ商品がつくられるようになっただけではなく、新たな商品も次々と開発されるようになったという。
 マーシャルがとりわけ重視するのは経営能力である。まれな天才を除いて、そうした能力は一朝一夕では形成されないが、「天性の資質の稀少さと仕事に必要な特殊の訓練にかかる費用は……経営の正常な稼得額にも影響をもたらす」。
 商品をやみくもに製造したり、やみくもにかかえたりしているようでは、企業は持続できない。それらを、いわば「社会化」することができてこそ、企業ははじめて存続することができる。
したがって、平均利潤率などといったものは存在しない、とマーシャルはいう。
 利潤をどう規定するかで、マーシャルは悩んでいる。大企業では部長や工場長、職長などの所得は、一般に賃金として利潤から控除されるが、かれらが企業所有者の意志を代表して動いているのだとすれば、その賃金は、ほんらい利潤の一部として理解してもよい。そうでないと、個人商店と大企業とでは、利潤の概念がくいちがってしまうからだ。
 そのうえで、一般的にいうと、大資本は技術上の優位性をもち、さらに規模の経済を活用できるから、小さな事業体にくらべて利潤率が高いとみてよい。逆にさほどの経営能力をもたない個人会社の利潤率は、一部の例外はあるにせよおおむね低い。そんなふうに、マーシャルはとらえる。
 とはいえ、鉄鋼業などでは、事業体の規模が拡大するにつれ、ふつうのやり方で計算した利潤率が一般に低下していくようにみえるのはどうしてか。ここで、マーシャルはまた迷いはじめる。
 そこで出した結論はこうだ。産業によって利潤率はことなる。たとえば固定資本の割合の大きな事業体では、利潤率が低い。また、高価な原材料を要する事業では、仕入れや販売を含む経営能力が利潤率を大きく左右する。
 マーシャルは利潤を危険にたいする補償とみる考え方には否定的で、そうした危険は保険の対象であって、利潤のうちに含まれると主張する。
 同規模の資本がもちいられる同様の事業体では、賃金の支払総額が利潤額を決定する要因となり、ここでは利潤率平準化の傾向がはたらく。
 有能な経営者は、組織化と調整をおこなうことによって事業を拡大し、他の事業体より優位さを確保し、それにより利潤の増大をもたらす。しかし、産業による競争が一般化していくと、製品の価格が下がり、利潤率も下がっていく。
 ここで、マーシャルは年利潤率と回転利潤率のちがいにも言及する。業種によって、資本の回転率は大きくことなる。そのことは、たとえば小売業者、卸売業者、造船業者をくらべてみてもわかる。繊維産業でも、原綿購入から完成品までを一貫してつくる業者と紡績や織布を専門におこなう業者とでは回転率がことなる。鮮魚や果物、野菜、花卉などの足の速い商品を扱う業種は回転率が高いだけではなく、利潤率が高くなければ引き合わない。
 資本の回転は業種によってばらばらだし、その利潤率も一定ではない。それでも業種ごとに、それぞれ適正な利率が存在している、とマーシャルはいう。というのも、それ以下の利率だと業績が落ち込み、逆にそれ以上の利率だと顧客を逃がしてしまうおそれがあるからである。
 マーシャルは、経済を動かす原動力は、企業家間の競争だと考える。「かれ[企業家]は将来起こり得ることがらを予測し、それらの相対的な意義を正しく評価し、その事業の収入が必要な支出をこえてどれだけの余剰を残すかを検討して、あらゆる新規の事業を試みようとする」
 実業家が形成されるまでには長い時間と訓練を必要とする。しかし、それで実業家が誕生したとしたとしても、その成功は約束されているとはいえない。時の運によって、成功と失敗は相半ばしている。
その理由は、利潤にはさまざまな攪乱要因があるからである。たとえば、製品価格の変動である。何らかの事情で製品価格が上がれば、利潤が増大する。その場合、企業家は労働者に高い賃金を払う余裕がでてくる。しかし、「利潤率の上昇率に賃金の上昇率はなかなか追いつかない」のが実情だということを、マーシャルも認めている。
 逆に景気が悪くなると、とりわけ借入資本の多い企業は苦しくなり、製品が売れなくなって、最悪の場合、企業が倒産し、投資家も企業家も資本を失い、従業員が失業することもありうる。
 事業で成功を収める者は全体のなかでほんの一握りだ。だが、少数の成功者のもとには、富が集中してくることになる。
 熟練工や弁護士、大学教授の得る所得は、かれらの習得した技能にもとづくのであって、それはそれまでの投資額にたいする準地代と似たものである。これにたいし、大規模な事業体の企業家が得る所得は巨額なものとなり、それは一種、天与の非凡な才能にもとづくものだ、とマーシャルはいう。
 事業体の所得は、産業の置かれた環境や経済状況の変化によって、大きな影響を受ける。それは鉱山労働者や劇場の役者でも同じである。アメリカやオーストラリアで大鉱山が発見されると、資源の価格が下がって、イギリスの鉱山労働者の所得稼得力は下がる。いっぽう、劇場の演目が大ヒットすると、役者の稼得は大幅に上昇する。
 所得に関しては、産業の連関性も念頭におかなければならない。住宅産業にせよ、繊維産業にせよ、関連業種の好不況が、その産業にかかわる人びとに影響をもたらさないはずはないからである。
 いっぽう事業体の稼得額は、資本力、経営力、組織力による物理的結果によるだけではない。いわば、商品自体のもたらす準地代のようなもの、言い換えればブランド力も稼得に影響を与える。
 商品のブランドを維持するうえで、従業員の貢献は欠かせない。ある企業の業績がよければ、企業はその従業員にたいし給与を増額し、不況のさいにも雇用を継続し、好況のさいには超過勤務料を多額に出さなければならない。
 そこで、マーシャルは「ほとんどすべての事業体とその従業員とのあいだには、ある種の収益分配制がおこなわれている」という。いや、むしろ「正式に収益分配制をとったほうが、労使関係は経済的にも道義的にも高次の段階にすすんでいく」と主張している。
 経営者と経営者、従業員と従業員がそれぞれ団結して組織的な行動をとると、賃金問題はその解決が不確定なものになる。収入の余剰を労使間でどう分配するかは団体交渉で決めるほかない。
 衰退に向かっている産業は別として、一般に賃金の引き下げは長い目でみれば使用者の利益にならない、とマーシャルはいう。それは、企業がかれらの技能を失ってしまうからである。使用者は労働組合の主張を受け止めなければならない。しかし、事業体の運営をつづけるためには、賃上げといってもおのずから限度がある、とマーシャルは論じている。
 マーシャルの利潤概念は、単なる資本家ではなく、非凡な才能をもつ企業家による事業体経営に重きをおいたものといえるだろう。

   20 土地からの収入

 国民所得の分配は、最後に土地からの収入を扱っている。
 土地はそれ自体が価値をもち、売買の対象になるが、その流動性は一般商品ほど大きくない。
土地の価値を規定するものとしては、温度や陽光、空気、降雨といった自然条件のほか、場所の有利性といった社会条件がある。灌漑や開墾、土壌改良、その他の開発によって、土地の価値を上げることも可能である。
 土地からの収入を論じるにあたって、マーシャルはおなじみの収穫逓減の傾向をもちだしている。すなわち、「資本および労働の投入単位をつぎつぎに投下していくと、はじめの2、3単位にたいしては収量は増加していくが、やがて土地が十分に耕されてしまうと、収量は逓減しはじめる」。
 こうした投資は収益のぎりぎり(限界)までつづけられる。マーシャルによれば、土地の本源的な特性からもたらされるものが地代であり、新しい投資から得られたものが利潤となる。このふたつを合わせたものが、土地からの収入(余剰)となる。
 余剰を決定するのは、土地が生みだす商品(農産物その他)の価値である。そこでは土地の豊沃さや、作物の種類・耕作方法の選択、耕作者の能力などがかかわってくる。
 農産物価格の上昇は、一般に土地から得られる余剰を増大させる。こうした余剰の増加は、これまでの豊沃な土地に加えて、瘠せた土地の開発をもうながす。
 いっぽう農産物価格の上昇は、それを購入せざるを得ない労働者の実質賃金を低下させる。しかし、農業以外の分野でも経済発展が生じているのであれば、やがて実質賃金は上昇していくとマーシャルはみる。このあたりマーシャルは、人口圧力の増大が必然的に労働者の貧困化を招くというマルサスの見解にくみしていない。
 市場を基準として場所の不平等を最初に指摘したのはリカードだった、とマーシャルはいう。リカードは、土地の価値を、土地の豊沃さだけではなく、市場との近接性や関係性においてもとらえ、そのうえで、その土地をどれだけの商品価値を生みだせるかによって評価していた。  
 マーシャル自身は、リカードの考えを踏まえて、「イングランドの土地の耕作の技法にいま改良を加えると、……土地からの集計的な余剰を拡大することができる」と論じている。そして、これはかならずしもリカードの比較優位説と矛盾しないという。
 もちろん土地が現在の土地になるまでには、多くの人の手が加えられている。土地の価値には、本源的な属性に加えて、改良による属性も含まれている。したがって、地価にはそれに要した経費も含まれると解することができる。
 土地から得られる生産者余剰は、土地を所有し耕す個人もしくは協同組織に帰属する。所有者と耕作者が別の場合は、とうぜん分配の問題が生じる。
 イギリスでは、土地を改良するのは一般に地主(貴族)の仕事である。借地農は地主から土地を借りて農地を運用し、その余剰のうちから定められた地代を地主に支払う。さらに借地農は雇い入れた農業労働者に賃金を支払わなければならない。地代は長期的には農産物の市場によって左右される。
 経済学にとっては、地主と借地農の分け前の境界線をどうとらえるかが大きな課題だった。この研究が重要性をもっていたのは、それが一般に利子と利潤の区別を意識させ、自由企業の発達をうながすきっかけになったからだ、とマーシャルは書いている。
 土地の所有権は慣習によって受け継がれていることが多い。地主と借地農との関係は微妙であり、地代が長期にわたって据え置かれることもままあるという。
 かつて領主は、農産物の一部を要求する権利のほか、賦役や賦課、使用料や贈り物を請求する権利さえもっていた。そうした権利が無制限に拡大するのを抑える役割を果たしていたのは、慣習の力である。とはいえ、借地農は次第に農地にたいする管理権を拡大していった。
 イギリスの土地保有制度に関連して、マーシャルは「イギリス人は製造工業や植民の技法においては世界の第一人者となり、程度は劣るとしても、農業でも先駆的な役割をはたした」と述べている。
 マーシャルによれば、イギリスでは地主は所有する土地にたいする改良をおこたらないが、その管理はほとんど借地農にまかせ、純地代としては3パーセントほどしかとっていないという。
 イギリスの地主は有能で責任を重んずる借地農を選択しており、借地農の地位はほぼ慣習によって引き継がれる。いっぽう、農業の技法は徐々にしか改善されていない。厳格な帳簿が付けられることも少ない。製造業とちがって、才能がなくても借地農が入れ替わることはまずないという。
 農業では製造業とちがって、規模の経済がはたらかない場合が多いが、機械化にあたっては大規模な農地が有利であることはまちがいない、とマーシャルは述べている。
 農場主も時代の変化についていく必要がある。大規模な農場では、従業員の雇用や農産物の調整を含め、経営管理が求められる。
 だが、そうした管理のいきとどいた農場はさほど多くない。実際、それほど大きくない農場では、農場主が雇用者とともにはたらき、経験をつむほうが、仕事はうまくいくようだ、とマーシャルはいう。
 一般に小さな保有地にたいする需要は多く、その地代の率は大きな保有地にくらべて高い。
 イングランドでは自作農は少ないけれど、それでも小さな区画の土地を買い入れて、その土地を自作して心豊かに暮らしている者がいないわけではない、とマーシャルはいう。「かれらは激しい労働をし、またひどくきりつめたくらしをしても、ただだれか他人を主人と呼ばないですむなら、それでかまわないとするといった気風をもっているのである」
 自作農の気概を高く評価していたのだ。
 マーシャルは農業の共同経営は明るいと考えている。たとえば、デンマークなどでは「酪農製品の処理、バターやチーズの製造、農業用品の購入と農産物の販売について協同組織の将来に希望を十分もたせるような運動が開始されている」という。
 とはいえ、20世紀はじめのマーシャルの時代でも、積極的な村の若者は次々と都会へ流出していた。
 マーシャルは農地ではなかなか合理的な経済運営ができていないという。常に時代に適応していく有能な借地農は少ないし、地主もしばしば高い地代を要求しがちである。農業労働者の賃金は低く抑えられている。
 そうしたことが農業の発展を妨げる要因になっているという。

 土地についての議論は、これでひとまずおしまいにしよう。
 マーシャルは、これまで、労働、資本、土地の収入について検討してきたが、最後に分配論の補足をみておくことにする。
 まず強調されるのは、人的資本と物的資本の連続性である。人格が時間をかけて徐々に形成されるように、物的資本も徐々に蓄積されていく。
 青年の才能を開発するのは基本的には両親であり、その効果は累積的である。したがって、長期的にみれば、「使用者にとってのある種の労働の貨幣的費用は、その労働を生みだす真実の費用にかなりよく対応する」という。質の高い労働力は一朝一夕には形成されない。
 企業家は人的要素と物的要素に要する費用を比較し、そこからいちばん収益性の高い組み合わせを選ばなければならない、とマーシャルはいう。
 労働には垂直的競争と水平的競争がある。つまり、職階を上昇する方向での競争と、同一職階内での競争。これらは連動している。
 長期的にみると、こうした競争原理は、職階・業種間を問わず、あらゆる局面ではたらき、代替をもたらす。
 その原理は、未熟練労働者から熟練労働者、職長、部長にいたる連続性のなかでもみることができる。また個人企業経営者から大企業経営者へといたる連続的発展もありうる。だが、その途中で、失敗による脱落も数知れない。
 企業においては大が小を吸収するかたちで、ますます企業が巨大化する傾向がみられる。そのいっぽう、自己資本をほとんどもたない人が新しい事業を起こし、大企業を築いていく場合もある。
 事業経営に問われるのは能率だ、とマーシャルは強調する。「企業家は熟練工と同じく社会が必要とする用役を提供している」
 企業家は生産した商品の代価を受け取り、原料費と減価償却費、労働の対価を支払う。商品の売れ行きにより利潤の幅は変動する。それはときに大きくなり、ときにマイナスになる。利潤が増えても、従業員の賃金はすぐには変動しないし、変動してもその幅はちいさい。いっぽう、企業の赤字がつづくとき、そのしわ寄せは労働者の雇用にはねかえる。
 土地のもたらす地代は、いわば天与の贈り物である。それと同じく、並外れた天与の才能が、高い所得をもたらす事実も否定できない。「ひじょうに有能な企業家は一般に最高の利潤をあげるが、仕事のわりによけいの報酬をとっているわけではない」と、マーシャルは経営者を擁護する。
 国民分配分は、労働、資本、土地によってつくられた結合生産物(総商品)の価値であり、またその需要の唯一の源泉でもある。
 物的資本が増大するにつれて、資本は新しい用途に投入され、それによって全般的に雇用の場が拡大される。「資本の増大は国民分配分、つまりはすべての生産要素にたいする需要を拡大する」
 資本の使用にたいする競争が激しくなると、利子率が押し下げられ、企業は存続しやすくなり、新たな労働への需要も生じる。いくら機械が導入されるといっても、資本が労働に全般に代替することはありえない。資本の増大は、さらに多くの商品の産出と、労働の雇用を生みだし、資本の所得分配率を縮小させていく傾向がある、とマーシャルは述べている。
 労働能率の向上も労働量の増加も、ともに国民分配分を増加させる。しかし、一般に労働量の増加は、賃金の低下を招く。あるグループの労働者の賃金は、他のグループの労働者とその能率によって左右されるという依存関係が存在する。労働者は企業家が正常利潤を得られる限界以上に追加雇用されることはない。
 こうして、マーシャルの分配論の骨格はほぼ描かれたといえる。

   21 経済の進歩と国民生活の改善

 経済活動を活発にするのは、自然資源と、資源を活用する力、そして市場だ、とマーシャルは書いている。豊かな土地があり、気候も温暖というだけで、人は豊かにくらせるわけではない。逆に土地が貧しくても、外部世界とつながり、そこが交易の中心地となると、高い所得が得られる。繁栄をもたらす原因は、とりわけ市場の形成にある、とマーシャルは断言する。
 19世紀末から20世紀初めにかけて、イギリス経済は商品の大量生産、大量の労働力、機械化、株式会社、そして海外への輸出によって発展した。それを支えたのは、技術上の改良、経営上の努力、運輸交通の発達、通信の拡大だった。こうして、海外からは農産物が輸入され、また海外にはイギリスの工業製品が輸出されていた。
 しかし、アメリカやドイツでも次第に工業化が進むと、イギリスはその独占的地位を失うようになった。それでも産業が衰退しなかったのは、運輸業が発展したおかげだ、とマーシャルはいう。
 新しい経済時代は商品の質の向上もうながした。たとえば、小麦や肉の品質はずっとよくなり、まだまだとはいえ、住宅の環境も改善された。
 石炭が製鉄用だけではなく、家庭用の燃料としても木材の代わりに利用されるようになったことも、この時代の進歩だ。さらに石炭が機械の動力として使用されることによって、衣服、とりわけ安い下着が提供されるようになった。
 大都会で水道が発達し、夜間も石油やガスによる照明が利用されるようになったのも、文明が発達したおかげだという。郵便や新聞、汽車や蒸気船も見逃せない。電気の将来にも期待できる、とマーシャルは述べている。
 近代といっても、19世紀末の世界は、まだそんな状況だったのだ。
 ここで、マーシャルはこう書いている。

〈国民分配分はその国のすべての生産要素の純生産の集計であるとともに、それらにたいする支払いの唯一の源泉である。それが大きくなるほど、他の事情に変わりがなければ、それぞれの生産要素の分け前も大きくなる。またどれかの要素の供給が増加すれば一般にその価格を低落させ、他の要素はそれだけ有利となる。〉

 国民総生産は国民総所得と一致する。言い換えれば、国民総生産が増大すれば、国民総所得も増大する。国民総所得(国民分配分)は、労働、資本、土地の生産要素に分配されるが、もし労働力の供給が増大すれば、一般に賃金が下落するし、資本の供給が増大すれば、利子が低下する。また土地の生産性が増大すると、農産物の価格が低下し、資本家や労働者に利便性をもたらす。
 交通手段の発達はだいたいにおいて、地価を上昇させる。いっぽう、機械などの固定資本の価格は、どちらかというと低落する傾向がある。鉄道やドックなどの施設の価値は、立地条件によって左右されるが、産業発展に伴って、その価値は一般に上昇するとみてよい、とマーシャルは述べている。
 イングランドでは17世紀以降、一人あたりの富の大きさは上昇をつづけている。そして、人びとは、将来を見越すことのできる「展望鏡」的な資質をもつようになった。
 慎重さと克己心が現代人の特徴である。「かれらは利己的なところは少なくなり、家族のために将来のそなえをしようとして、いっそうよく働き、かつ貯蓄をするようになった」。そのことが社会の富と高尚な生活をもたらす推進力になっていくだろう、とマーシャルはいう。
 将来のために、人びとが進んで努力するようになったため、西欧では休日が少なくなり、労働時間が増えてきた。だが、その傾向もすでに頂点に達し、これからは労働時間も減っていくだろう、とマーシャルは予測する。人びとは過重な仕事から逃れて、休息を高く評価するようになるだろうという。
 中世には10パーセントだった利子率は、18世紀には3パーセントに低落した。その後、資本需要の増加によって利子率は上昇したが、産業発展の基調はもはや揺るぎないものになっている。
 社会が発展すると、国富の多くが人的資本にも投入されるようになった。その結果、読み書きの水準が上昇し、科学的な知識も増え、かつては習得のむずかしかった技能も、機械化とともに、より簡単に習得できるようになった。
 かつて熟練工の賃金は未熟練工の賃金の2倍が相場だったが、機械化の進展により、その差は徐々に縮まっている。実質賃金は次第に上昇している。
 女性の賃金も相対的に上昇した。また並外れた才能をもつ者が獲得する所得は上昇し、かつてない迅速さで巨富を積むことができるようになった。いっぽう、かれらと、ごくふつうの才能しかもたない人との所得格差は広がっている。
 大きな富がもたらされたのは、全般的な富の蓄積と、新しい運輸通信手段の発達があったからである。弁護士や才能のあるスポーツ選手、画家、音楽家などが、高い報酬を得るようになり、たとえばアメリカではニューヨーク・セントラル鉄道をつくったヴァンダービルトなどが巨富を築いた。
 だが、こうした巨富は例外であって、重要なのは中位の富の形成である。中産階級の所得は上昇しており、全般的にみれば、富裕層よりも中産階級の所得増加が目立っている。
 大規模な金融資本家が巨大な力をもつようになったのも現代の特徴である。
「経済進歩の本当の基調をつくりだすものは、新しい欲望の形成ではなくて新しい活動の展開なのである」というのは、いかにもマーシャルらしい。すなわち、活動なくして、欲望は満たされない。
 マーシャルによれば、「生活基準」とは「欲望を考慮にいれたところの活動の基準」を意味する。
 経済活動なくして、生活基準は上昇しない。しかし、生活基準が上昇すれば、人びとの知性・活力・自主性が向上し、支出が思慮に富んだものとなり、実質賃金も国民所得も上昇する。
 欲望が増大するだけでは、人びとは前よりみじめになるだけである。欲望の増大が間接的に活動を上昇させ、それによって生活基準が向上しなければ意味がない。
 人は食べて寝るだけの、ぎりぎりの生活には満足しない。娯楽や少しのぜいたくも必要である。人間にとって、希望と自由と変化は必需品だ、とマーシャルはいう。
 イギリスでは1846年に穀物法が廃止されたおかげで、南北アメリカやオーストラリアからじゅうぶんな小麦が輸入され、低い実質費用で食糧を入手できるようになった。しかし、食料価格が下がっただけでは、人口の増加にともなって、賃金はむしろ抑制されてしまうかもしれない。
 労働の能率が大幅に上昇し、国民分配分が「人口に比べて相対的に増大し、持続しうるかたち」になって、はじめて賃金は上昇する。それによって、社会全体の生活水準も上がっていくはずだ、とマーシャルは考えた。
 労働組合が労働の供給を制限すれば、賃金は一時的に上昇する。しかし、それは長続きしない。また組合が会社に独占的な商品しかつくらせないようにしても、それはすぐに競争によって打ち破られてしまう。
 いっぽう、余暇や休息を与えず、労働者を過剰な労働にかりたてることは、個々の資本家にとってだけではなく、社会全体にとっても不経済である。ある程度の休みをとり、緊張をゆるめる時間をつくらないと、仕事の効率は上がらない、とマーシャルはいう。
 そのいっぽう、機械の稼働率を上げることで生産効率が上がるなら、勤務を2交替制にするのも悪くないと書いている。
 マーシャルは、賃金を上げようとして、労働力の供給を人為的に制限する組合の方策に反対する。そんなことをすれば、賃金と利潤の源泉である国民分配分をかえって減らすことになるという。
 賃金が高く利潤が減れば、資本は海外に向かう。その結果、労働への需要は減り、やがて賃金が低下する。
 したがって、労働の能率を低下させるような手段で賃金を引き上げようとするのは、反社会的で近視眼的であるという。
 だが、マーシャルは労働時間の短縮にはかならずしも反対していない。時短は一般に生産と賃金を減少させるが、にもかかわらず、それによって生産が増大し、賃金が上昇する場合がないわけではない。それは労働生産性が上昇する場合である。
 イギリスの労働組合は、労働者の賃金を上げ、その生活水準を向上させることをめざしている。その視野はいちじるしく狭いが、それでも組合が使用者と対等の立場で交渉をおこなってきたことをマーシャルはそれなりに評価している。
 労使の賃金交渉が決裂した場合、組合はストライキやロックアウトといった手段に訴えるが、そこには「野蛮な人々のあいだの激しいゲリラ戦とは異なった文明国民のあいだの節度のある戦争といったおもむきがある」と、わりあい冷静に書いている。
 しかし、労働組合には権利とともに義務がともなうはずだ。
 組合と使用者のあいだでは、1時間の一定の労働ないし作業量にたいし、支払われるべき標準的賃金が定められる。マーシャルは、こうした取り決めを「コモンルール」と呼んでいる。
 いっぽう、使用者の側も仲間どうしで、たがいにほかより高い賃金をださないという協定を結んでいる。しかし、優先されるのはコモンルールのほうである。
 使用者も労働組合のいいなりに賃金を上げるわけではない。あくまでも労働生産性が上昇することへの期待を踏まえて、賃金交渉に臨んでいる。
 労使間のコモンルールにより、労働と賃金の基準が定められると、それは国民全体にも利益をもたらし、社会福祉の向上にも役立つ。そうしたルールが守られれば、事業経営に支障をきたすことはないだろう、とマーシャルは書いている。
 だが、組合が、能率の低い若年労働者や高齢労働者にも同等の賃金を払わせたり、機械の導入を阻止したり、職務を限定したりするような「反社会的な」行動にでるときには、かえって国民生産を抑制し、その結果、よい賃金の得られる雇用を縮小させてしまうことになる、とマーシャルはいう。
 さらに問題は貨幣価値が変動することである。インフレになれば賃金が上昇するが、まもなくデフレがやってくると、適正賃金での雇用を維持するのもむずかしくなってくる。
 賃金を調整するのはむずかしい。しかし、高賃金を維持しようとするあまりに、失業の増加を招くのは感心しない、とマーシャルはいう。
 景気が後退すると、需要が縮小し、それが連鎖反応をおこして、さらに不況が深刻化していく。

〈事態悪化の主要な原因は確信の喪失である。確信さえ回復すれば、悪化した事態の大半はほとんど即座に改善されよう。確信はすべての産業にちょうど魔法のつえのように生産をよみがえらせ、その生産を続行させ、他の産業の製品の需要を起こさせるのだ。〉

 経済はやがて確信を取り戻し、不況から好況へ、そしてまた好況から不況へと景気循環の波をくり返していく。
 マーシャルは、資本主義が富の分配を改善の方向に導いているという。これにたいし、政府がすべての生産手段を占有する社会主義的計画経済が実施されれば、経済的活気がなくなり、社会的繁栄は失われてしまうだろうと断言する。
 国民分配分の増大をもたらすのは、発明の継続と生産設備の蓄積である。これらを可能にするのは民間の力であって、けっして政府の役人ではない。「生産手段の公有は人類の活力を殺し経済進歩をとめてしまうのではないか」と、マーシャルはいう。
 さらに国民所得を平等に分配すると、中間層の生活水準をも引き下げてしまうことになりかねない。その結果、「公有制はおそらく個人的、家庭的な生活上のあいだがらにみられるいちばん美しくたのしいものを多くこわしてしまうであろう」。
 とはいえ、巨大な富と極端な貧困が併存していいわけではない。富の不平等が現代の経済組織の重大な欠陥であることを、マーシャルも認めている。
 そのためには、水準以下の人たちの所得をいくらかでも引き上げる努力をしなければならない。最低賃金制の導入は、そのための方策のひとつである。
 国民全体の幸福は、ほかの階級よりも下層階級の所得を上昇させることによって、より多く得られる。社会の責任は大きい、とマーシャルはいう。

〈われわれはそこで、機械化の進展を十分に促進し、未熟練な作業しかできないような労働の供給を縮小させるように努力し、それによって国民の平均所得をこれまでよりもいっそうすみやかに成長させ、未熟練労働者が受け取る分け前を相対的に増大させるようにしなくてはならない。〉

 教育にたいしては、惜しみなく公共の資金を投じなくてはならない。労働者の居住区を快適にし、子どもたちが遊べる空き地を確保するための資金を惜しんではならない。医療や衛生にたいする公的援助や規制も必要である。こうしたことは国家の義務だ、とマーシャルはいう。
 経済活動の中心を担っているのは中産階級である。この層の指導的な人びとが発明や改良を生みだしてきたからこそ、労働者階級はこれまで手にしたこともない品々を手に入れることができるようになった。
 できうれば、「経済騎士道」が普及して、富裕な人びとが公共の福祉に関心を示し、かれらの資力を貧しい人びとのために活用することを、マーシャルは望んでいる。
 だいじなのは青年の資質と活動なのである。社会に求められるのは、かれらの資質を伸ばし、有能な社会人として育てることである。その家庭環境を整え、場合によっては援助する態勢をとらなければならない。
 人間性の要素はそう簡単には変えられない。社会主義者は社会主義になれば、人間性も変化するというが、そうは簡単にはいかないだろう。人が私有財産を求めるのは、それなりの理由がある。
 現在の経済的害悪を強調し、それにたいし社会主義の希望をふりまくだけでは、問題は解決しない。それは「山師の強い薬のように、多少の即効を示すが同時に広く長くつづく衰退のたねをまくべつの道を性急にえらぶことになりかねない」とマーシャルはいう。
 かといって、現状に満足しきるのは無気力というものである。「無気力な人たちは、現代のような大きな資力と知識をもっていながら……貴重なものがつぎつぎと破壊されていくのをじっと眺めており、それで昔はもっとひどかったとみずからをなぐさめて、現代の害悪にはなにもしようとはしないのである」
 マーシャルの経済学は、社会主義の幻想や悲観論者の無気力をしりぞけて、経済の実際問題に対応していくことを目指していたといえるだろう。
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