SSブログ

橋本治『二十世紀』を読んでみる(5) [本]

51A7akxoDxL.jpg
 文庫版では下巻。
 1946年には、すでに第2次世界大戦は終わっている。
 だが、すっかり戦争のカタがついたわけではない。
19世紀以来の帝国主義時代の清算も終わっていない。ナチス・ドイツを倒すため、かりそめに結束した米ソの対立も鮮明になってくる。
 20世紀後半は、それらの課題を解決するために費やされたようなものだ。
 インドネシア、アルジェリア、ヴェトナムなどでは、独立に向けての動きがはじまっていた。
 チャーチルは「鉄のカーテン」演説をぶち、ソ連による東欧支配を糾弾する。
 日本は虚脱状態にある。極東軍事裁判がはじまり、新憲法が公布される。ラジオからは、「素人のど自慢」の歌声が流れていた。
 1947年、アメリカで「赤狩り」がはじまる。トルーマンが社会主義とソ連を敵視するようになると、世界はたちまち「冷戦」状態に突入する。
 1948年にはベルリンが封鎖され、朝鮮半島が韓国と北朝鮮に分断される。ヴェトナムも南北にわかれる。
 とはいえ、ベビーブームの年でもある。アメリカでは「キンゼー報告」が発表され、人間の性行動に光が当てられるようになった。
 1949年、ドイツは西と東に分かれる。毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言する。蒋介石は台湾に逃れ、台北を首都とする。ふたつの中国が生まれた。
 東欧はソ連の衛星国になっている。
 1950年、朝鮮戦争が始まる。北の軍隊はたちまち南のソウルを占拠し、釜山に迫った。国連軍はこれを押し戻し、鴨緑江にまで迫るが、ここで中国軍が参戦し、形勢がふたたび逆転する。
 1951年、朝鮮での戦争は膠着状態となる。トルーマンは中国に攻め入るというマッカーサーを解任し、北に停戦を呼びかけた。帰国したマッカーサーの「日本人は12歳の少年」という発言が物議をかもした。
 この年、日本はサンフランシスコ講和条約を結び、主権を回復する。アメリカとの安保条約も締結された。
 ラジオでは紅白歌合戦がはじまり、黒澤明の『羅生門』がヴェネツィア映画祭でグランプリをとる。
 日本人はマッカーサーの発言に憤激したが、はたして日本人は一人前だったのか、と橋本治は問うている。

〈日本人は、占領軍の言うことを聞いたが、自分達の手で軍国主義者を追うことはしなかった。「占領軍がそれをやってくれた」と思う日本人は、それを自分達自身の手でやらなければいけないものとは思わなかった。……その後の日本人達の戦争責任に対する認識の薄さは、おそらくそのことに由来するのだろう。〉

 日本ではGHQの指導のもと、1945年に労働組合法がつくられ、労働組合運動が活発になっていた。1947年にゼネストは中止させられるが、その後も組合運動は衰えたわけではない。
 アメリカは日本を共産主義の防波堤にしようとしていた。1951年、共産党は武装闘争方針を採用する。
 1952年、メーデーのデモ隊は皇居前広場を「人民広場」にしようとして、警官隊と衝突する。いわゆる「血のメーデー事件」である。
 国会では破壊活動防止法が成立し、追放された軍国主義者が次々復帰を果たす。
 1953年、スターリンが寿命を全うして死ぬ。まもなくフルシチョフがソ連の新指導者になる。フルシチョフは1956年にスターリンを弾劾する。この「雪解け」をみて、ポーランドとハンガリー、チェコはソ連の支配権から脱しようとするが、ソ連の戦車が進駐し、それを阻止する。
 1954年、第5福竜丸がアメリカの水爆実験で被曝する。
戦争が終わったあとも、米ソの核実験は平然とつづけられていたどころか、むしろエスカレートしていた。
 その結果、核兵器があまりにも多くなり、「うかつには戦争が出来ない」状態が生まれる。
 防御のための核兵器という考え方から「核の抑止力」という倒錯めいた幻想が生まれる。「冷戦以後の世界には“豊かさ”が溢れ、しかし、なんだか落ち着かなかった」と橋本はいう。
 この年、日本ではゴジラが映画に登場し、プロレスの力道山が人気を博した。中村錦之助主演の『笛吹童子』もヒットする。
 アメリカでは、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』が公開された。
 1955年、石原慎太郎が『太陽の季節』でデビュー。アメリカではプレスリーがはやっていた。ジェームズ・ディーンがスクリーンに登場する。若者の季節がはじまろうとしている。
 1956年、『経済白書』は「もはや戦後ではない」とうたう。日本経済が復興を遂げたという宣言だった。
 政治の世界では、前年、すでに鳩山一郎と吉田茂による「保守合同」が実現し、自由民主党が誕生している。
 橋本治は、鳩山一郎はとても政党政治家とはいえず、「公職追放にあっても不思議はない」人物だった、と書いている。いっぽうの吉田茂は「アメリカ第一主義」で、「傲慢なワンマン総理」。
 このふたりが一緒になることで、政治も復興して、戦前のよき時代に戻ったことになる。その延長上に岸信介が現れる。橋本が「日本には、他に人材がいなかったのか?」と嘆くのももっともだ。
 1957年、ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げる。日本ではそのころ「鉄腕アトム」がはやっている。
 ソ連に先を越されたアメリカは悔しがり、翌年、航空宇宙局(NASA)を発足させる。以来、米ソによる宇宙開発競争が始まる。
 人類が月に降り立つのは1969年である。だが、はたしてその目的は何だったのか。「ヤケっぱちの大人は、『月に行く』だけを考えて、その先を考えていなかった」
 スーパーのダイエーが大阪に誕生したのも1957年である。翌年、ダイエーは神戸の三宮に2号店をオープンする。
 そのころはまだデパートと商店街の時代である。私鉄の駅を拠点として団地の建設ラッシュがはじまる。
 やがて、スーパーが中途半端に高級化すると、激安店が登場する。そして、1990年代にバブルがはじけると、スーパー業界にも過剰投資のツケが回ってくる。
 だが、1958年の日本はまだ貧しく、無限の消費成長が信じられていた。大量生産がゴミの山を生みだすのは、まだ先のことだ。
 1959年4月10日、皇太子の成婚記念パレードがテレビ中継される。このころから、日本中にテレビが普及する。プロレス中継は人気番組だった。だが、橋本は「テレビの普及は、日本人の孤独と貧しさの始まりとも重なりうる」という。

〈テレビがなくても生きていられる──その豊かさを持つ日本人はいくらでもいた。だから私は飽きなかった。だからこそ「テレビがある」以外にはなにもない人の持つ“貧しさ”を感じとってしまったのかもしれない。テレビを見ているだけの人は、テレビを見ているだけで、遊んではくれないのだ。〉

 橋本治にとって、これは子ども時代の実感だった。
 つづきはまた。

nice!(11)  コメント(0) 

nice! 11

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント