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橋本治『二十世紀』を読んでみる(8) [本]

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1987年、バブルがはじまる。東京株式市場の株価は2万円の大台に達する。
しかし、円高が進行していたため(年末に1ドル=122円になる)、日銀は公定歩合を2.5%に引き下げる。
日本経済は輸出中心から内需中心への転換を求められていた。とはいえ、もう十分に物はあった。これ以上、必要とも思えない外国製品を買うこともなかった。あふれたお金は土地と株に流れていく。
1988年、8年にわたったイラン・イラク戦争が終結する。イラクを応援していたのはアメリカである。パーレビ政権を倒したシーア派原理主義のイランを許すわけにはいかなかった。
1979年にサダム・フセインがイラク大統領になっていた。かつて親ソ派だったイラクは、このころ反ソ親米に転じている。
イラクの近代兵器を前に、イランはこの戦争に敗れる。双方の戦死者100万人。とりわけ、イランの若者が数多く犠牲となった。
1989年、昭和が終わる。それは「失敗の時代」のはじまりとなった。亡くなったのは昭和天皇だけではない。手塚治虫、松下幸之助、美空ひばりもこの年に亡くなっている。
竹下内閣はリクルート事件で退陣、宇野宗佑が首相になるが、女性スキャンダルで、たちまち首相の座を失う。
幼女連続殺人事件で宮崎勤が逮捕される。
東欧では、ハンガリー、東ドイツ、ブルガリア、ポーランド、チェコと、共産党政権が立て続けに崩壊する。ルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻は処刑される。
そんなとき、日本の株価は3万8900円をつけていた。
1990年、昭和を見送った日本は、どこかまだ虚脱状態にある。
3月に公定歩合が5.25%に引き上げられると、株価は一気に暴落し、3万円台を割る。
バブルが破裂したのに、日本人はそれを直視しないまま、バブルの傷を深くしていく。
1991年、イラクがクウェートに攻め込んだため、湾岸戦争が発生する。多国籍軍が勝利し、イラク軍は撤退、停戦協定が結ばれる。
すでに東西ドイツは統一されていた。それに引きつづき、アゼルバイジャンやリトアニアにも独立の動きがでる。ソ連はそれを武力で押さえ、ゴルバチョフが初の大統領に就任する。
共産党保守派はゴルバチョフ追放のクーデターをくわだてるが、失敗する。そのあと権力を握ったのはロシア共和国のエリツィンだった。これによって、ソ連は崩壊し、12月25日に消滅する。
1992年3月、日本の株価はついに2万円台を割り、8月にはさらに1万5000円を割り込む。
警視庁は佐川急便事件の捜査に着手していた。11月には竹下登元総理が国会で喚問される。
日本人は度重なるスキャンダルにうんざりしていた。
1993年、中東ではパレスチナ解放機構のアラファト議長とイスラエルのラビン首相のあいだで平和条約が結ばれる。だが、これでパレスチナ問題がすべて解決されたわけではなかった。
橋本治はユダヤ人問題は「本来ヨーロッパで処理されるべきもの」だったはずで、それがパレスチナに持ち込まれたことで、問題がさらにややこしくなったと書いている。
日本では不況を打開するために、公定歩合が1%台まで引き下げられた。だが、一向に景気は上向かない。
政治不信は強く、自民党は分裂し、日本新党の細川護熙が非自民連立政権を組んで首相となる。だが、それも長くはつづかなかった。
1994年6月、自民党と社会党が連立を組み、社会党の村山富市が首相に。それを見て、人びとはあっけにとられた。
1995年は、何といっても阪神淡路大震災とオウム真理教事件に尽きる。ふたつとも、まさかのできごとだった。
大震災は日本があらためて地震国であることを認識させた。だが、それからしばらくして、さらに大規模な震災がつづくとは、このとき誰が予測しただろう。それは終わりではなかったのだ。
つづいておこったオウム真理教事件は意味不明のばかげた教理に、なぜ多くの人がひきつけられたのかという謎を残す事件だった。日本は病んでいた。
1996年、社会党の村山富市が首相を辞任、自民党の橋本龍太郎が首相になった。新たに厚生大臣になった菅直人はエイズ問題に取り組み、厚生省がいかに不都合なデータを隠していたかを暴いた。
住宅金融専門会社(住専)による不明瞭な融資をはじめ、さまざまな金融スキャンダルが露見する。
都合の悪いことは隠蔽するという日本官僚社会の体質がさらけだされた。それはいまも一向に改まっていない。
1997年、香港が中国に返還される。タイのバーツにはじまり、韓国のウォンも暴落する。アジア通貨危機である。
「ヘッジファンド」ということばが聞こえてきた。余った巨額のカネが世界中をうろつき回る時代になった。
日本経済は破綻していた。山一証券が自主廃業を決定する。
神戸では、酒鬼薔薇聖斗を名乗る14歳の少年による猟奇的な殺人事件が発生する。
1998年、北朝鮮のミサイル、テポドンが日本上空を通過する。
インドとパキスタンが核実験をおこなう。
大蔵省の官僚がノーパンしゃぶしゃぶで過剰接待を受けていたことがわかる。
和歌山では、毒物カレー事件が発生する。
長野では冬季オリンピックが開かれていた。
不良債権処理に苦しむ銀行への公的資金投入が実施されるのもこの年だ。「バブル経済の破綻による、人間関係の破綻」が広まっていた。日本人のモラルが壊れようとしていた。
1999年、世界の民族紛争が頻発している。
旧ユーゴスラビアのコソボ自治区では、セルビア人によるアルバニア系住民の虐殺がつづいていた。東ティモールではインドネシアからの独立を求めて、住民が決起する。
不景気の日本では、経済効果ということばが魔法の杖となり、「ミレニアム・カウントダウン」騒ぎがはじまっている。
2000年、20世紀最後の年には、少年たちの犯罪が続出する。
愛知県では17歳の少年が「人を殺してみたかった」という理由で、近所の主婦を刺殺する。バスハイジャックや金属バット殺人事件、恐喝事件もおこっている。
柏崎市では、37歳の男による少女監禁事件が発覚する。大阪では23歳の男が「私は神」と称する声明文を用意して、通り魔殺人をおこなった。
橋本治の描く20世紀末の未来図は暗い。

〈日本の社会を動かしている人間達は、自分達のなすべきことで手一杯になっていた。そこに“未来”への展望はない。いつの間にかゴールを欠いて、しかし少年達を乗せたベルトコンベアは動き続けていた。動いていればこそ、そのベルトコンベアは“破綻”を示さない。しかし、そのベルトコンベアの先には、なにもないのだ。それが20世紀最末年の日本である。〉

20世紀は終わる。だが、橋本治はけっして明るい21世紀を夢見ていなかった。

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