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平山周吉『江藤淳は甦る』断想(3) [われらの時代]

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 1964年8月にアメリカから帰国した江藤淳には、さっそく多くの仕事が殺到した。「朝日ジャーナル」に『アメリカと私』、つづいて「日本と私」(未完)を連載する。講演会や座談会もある。新聞や雑誌にも多くのエッセイを寄稿している。「文芸時評」も再開した。
 オリンピックの年だった。
 それはわずか2週間の祭典にすぎなかったが、日本はまるで「見えない敵に対して挑んでいるように見えた」と、江藤は「文藝春秋」に書く。

〈その敵とは、大きくいえば提督ペリーの来航以来、日本人の肩の上にのしかかっている宿命という名の敵である。歴史家のいわゆる日本の「近代化」が開始されてこのかた、われわれはつねに不幸であった。〉

 近代化は日本にとって不幸な宿命だったというのは、どうみても大仰である。しかし、江藤は日本はこの宿命を背負って戦い、敗れ、復活し、また闘おうとしていると感じていた。
 平山周吉によれば、東京オリンピックは「戦後日本のナショナリズムの解放だった」。
 そのなかでも江藤のとらえ方は、常軌を逸するくらいの悲愴さに満ちている。とりわけ江藤は開会式において、世界が「日本の君主の前におのおのの旗を垂れて、敬礼していた」ことに感動をおぼえる。開国以来の怨みが「この儀式のなかではじめて象徴的につぐなわれた」とまで書いている。
 私見をはさめば、これは抗いがたい感情であり、万歳するほかない論理である。国際的な通常の儀礼が、いつのまにか日本を頂点とする八紘一宇の舞台へと転化されてしまっている。
 ますますグローバル化する世界のなかで、いわば水戸学の精神を保ちつづけることは、江藤を孤立のなかに追いこんでいったのではないだろうか。
 このころ超多忙な江藤自身は、落ち着かない不安な生活を送っていた。住まいは転々として定まらず、盟友ともいえる作家、山川方夫をとつぜんの交通事故で亡くしている。夫人が子宮筋腫で、子宮を全摘し、そのあと鬱病で入院する。そうした不安が、自身をますます仕事に駆り立てていた。
「文學界」に長期連載していた「近代以前」は、1966年7月号で打ち切りになる。単行本化されるのは20年後である。プリンストン大学での日本文学講義をさらに深めるための試みだった。藤原惺窩と林羅山からはじまり、近松、西鶴を論じ、上田秋成で中断された。ほんらいは、伊藤仁斎や荻生徂徠、本居宣長も論じ、さらに洒落本や滑稽本、人情本、読本も扱うつもりだった。だが、あまりにも構想が大きすぎて、力及ばなかった。
 そこで、方向を転換し、1966年8月号の「文藝」で、現代の小説を論じることにする。テーマは戦後日本の家族の変容である。連載は2回で終わるはずだったが、8回にふくらみ、江藤の代表作のひとつ『成熟と喪失』が生まれる。
 ここでは安岡章太郎や庄野潤三、小島信夫などの現代小説が取りあげられている。なかでも重要なのは小島信夫の『抱擁家族』をめぐる考察である。
 江藤の表現を借りれば、『抱擁家族』は「妻のアメリカ兵との姦通にきわまった混乱、無秩序から家庭を再建しようという話」。それは、まさに戦後日本を象徴する悲喜劇だった。
 その主人公、俊介に江藤はみずからを投影する。ただし、江藤に喜劇意識はない。
 江藤は小島信夫を絶賛する。のちに「ひとつの国の敗亡と、その国に生きる人間たちの倫理的・感覚的崩壊の過程を、小島氏ほど独特な視角から、なまなましく小説化しつづけている作家を、私はほかに誰一人として知らない」とまで書いている。
 少なくとも、江藤はそう読んだのだろう。しかし、上野千鶴子は『成熟と喪失』を、「母の崩壊」、言い換えれば「女が壊れた」話として読んでいる。戦後は「母なるもの」が壊れ、女が立ちあがる時代でもあるのだ。これは、おそらく江藤自身の読みとはくいちがう評価である。
 ちなみに、ぼく自身も長い大学時代にこの評論を読んだが、さっぱりわからなかった。女のこわさ(存在感)に思い至っていなかったのである。
 1967年、江藤は、文壇の渦に巻きこまれながら、猛烈な勢いで仕事をこなしている。『成熟と喪失』と同時に、『一族再会』の連載もはじまっていた。のちに書き下ろしで刊行される『漱石とその時代』にも取り組んでいる。雑誌「季刊藝術」の編集も担当することになっていた。まさに超多忙の売れっ子だった。
『一族再会』は、みずからの家の物語である。それは幼いときに病死した母と、事実上一家の主だった海軍中将未亡人の祖母の話からはじまる。そして、明治の海軍一家の物語へと膨らんでいく。
 江藤が「私の生きる意味」とまで断言した『漱石とその時代』もまた家庭の物語である。漱石と妻鏡子の関係に多くのページが割かれていた。平山周吉は『漱石とその時代』は『成熟と喪失』と地続きの関係にあるという。その背景には妻の不調がある。
 このころから、江藤淳は大江健三郎と絶交状態に陥っている。それは1967年に刊行された大江の『万延元年のフットボール』をめぐる論争がきっかけだった。
 江藤は「万延元年」を空虚で、「本当のこと」はどこにもないと論じた。切実なテーマは展開されていないと断言している。しょせんは政治ごっこなのだ。
 大江が江藤の私事について、事実ではないことを触れ回ったことも、絶交をもたらす引き金となった。
江藤は文学の「産業化」と「政治化」にも警鐘を鳴らしている。
 68年には大学紛争がさかんになるいっぽう、参議院選挙で、自民党公認の石原慎太郎が、300万票を超える得票数でトップ当選をはたし、タレントの青島幸男が120万票で2位につけた。
 大江との仲が険悪だったのにたいし、江藤と吉本隆明は、最後まで不思議と良好な関係を保った。
 江藤淳は学生運動による「革命ごっこ」や三島由紀夫による「自主防衛ごっこ」を嫌い、現実主義に立つと主張していた。
 日米安保条約は即時廃棄できるわけがない。それでも、70年代後半には安保条約を「発展的解消」し、「真の自主独立」を達成できるかもしれないと思っていた。
 佐藤栄作は高坂正堯や山崎正和らとならんで江藤をブレーンとして迎えた。70年の大阪万博にはどこか冷ややかだった。夫人の健康は回復しつつあり、軽井沢の千ヶ滝に別荘を購入した。この年に刊行された『漱石とその時代』は野間文芸賞と菊池寛賞を受賞した。
 そうした文壇の表舞台に立つ江藤を吉本隆明はなぜか評価した。最初の対談でも「江藤さんと僕とは、なにか知らないが、グルリと一まわりばかり違って一致しているような感じがする」と語っている。
 江藤自身も吉本について、のちにこう書いている。

〈私にとっては、その人の人柄を信用するのとその人の思想を信用するのとは同じことである。科学の普遍性をよそおった「指導理論」などは犬に喰われるがいい。私が吉本隆明さんの思想を信用するのは、まさにその人を信じるからである。私は吉本さんとすきやきの鍋をつつくようにして、吉本さんの詩と思想を味う。これは珍味である。なぜなら吉本さんはその人柄において、その思想において、男のなかの男だからである。〉

 吉本が評価したのは、佐藤政権のブレーンを務め、日本文化会議に参加し、園遊会に出席する江藤ではない。歴史観や世界観はちがっていたが、その人柄にひかれていた。
 このあたりの機微は、ぼくにはよくわからない。考え方においても、ふたりはどこか一致するところがあったのではないか。そのあたりは、ふたりの実際の作品をもう少し読んで評価する必要がある。
 いずれにせよ、平山周吉はこう書いている。

〈吉本はこの後[江藤淳が自死したあと]、13年生きて87歳で亡くなった。その間、対談、インタビューなどで何度も江藤について話している。著書でも必ずといっていいくらいに江藤の名前と思い出が出てくる。二人は下町の悪ガキと山の手のお坊っちゃまクン、といった珍妙な組み合わせだったが、吉本は死ぬまでずっとお線香を絶やさなかった。〉

 ぼくにとっても、不思議なのは、大学闘争のころ、どうしてあんなに吉本や江藤、三島、竹内、武田にひかれていたのだろうかということである。
 こう書いてしまっては身も蓋もないが、いまとなっては懐かしい。

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