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平山周吉『江藤淳は甦える』断想(4) [われらの時代]

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 1971年4月、38歳の江藤淳は東京工業大学の助教授に就任した。平山は「国家の官吏」になったと書いている。ついにエスタブリッシュメントの地位を獲得したのだ。
 2年後、江藤は教授に昇任し、文学を担当することになる。東工大時代は20年におよぶ。この地位には満足していたという。
 教育活動に時間がとられたとはいえ、執筆活動は衰えない。『漱石とその時代』(第1部、第2部)を書き終えたあとは、立て続けに『海舟余波』、『海は甦える』に取り組んだ。
 自分の知らない過去の時代の感触を知りたいという「抑えがたい欲望」があったという。言い換えれば、日本という国家につながりたいという思いである。
 祖父が海軍中将だったことから「政治的人間」への関心は強い。勝海舟や山本権兵衛にたいする関心はそこから生まれる。
 江藤にとって、戦後とは、どういう時代だったのか。こう書いている。

〈国家意志は、敗戦国においてはいわば奴隷の言葉によって語られなければならない。政治的指導者たちは、戦勝国に対しては「戦争の継続」である外交努力をつづけながら、半面一般の国民に対して勝者の意志を励行し、かつその過程でひそかに自己の意志をも励行するという際どい綱渡りを強制されるからである。このような状況のなかで、「国家」が一般国民にとって、望ましい「同一化のシンボル」でなくなることは自明である。〉

 ここからは江藤の意識が透けてみえる。ひとつは、政治とは現実だということである。政治は無責任に現実をもてあそんではならない。
 しかし、にもかかわらず、敗戦国という現実をどうとらえればよいのか。敗戦国意識に閉じこめられているかぎり、日本の戦後は終わらない。
 江藤にとって、戦後民主主義とは奴隷の平和にほかならなかった。日本が戦後を脱するためには、アメリカやソ連によって強要される奴隷の姿勢から自立して、ほんらいの日本を取り戻さなければならない。そのために努力しつづけるのが、天皇の臣民たるおのれの役割である。
 これはある意味では、ひじょうに不幸な意識である。というのも、江藤にとって、ほんらいの日本は、明治以降の大日本帝国時代にしかありえなかったからである。はたして、日本の未来は、大日本帝国時代の誇りを取り戻すことにかかっているのだろうか。江藤は4歳半のときに亡くなった母の面影を追い求めるように、帝国の栄光をさがしつづけることになる。
『海舟余波』は1974年に刊行された。ときあたかも、NHKの大河ドラマで、子母沢寛原作、倉本聰脚本による『勝海舟』が放送されていた。江藤はこれに便乗したわけではない。むしろ、人情仕立ての大河ドラマには反発していた。かれがえがくのは、自立した国のあり方を求めつづける海舟だった。
 そのころぼくは大学をようやくレポート提出で卒業させてもらい、結婚し、ちいさな総会屋系出版社に勤めていた。あちこちふらつきながら、なんとか暮らしていく算段をするのがせいいっぱい。でも自由で楽しい時代ではあった。もちろん、気分は反体制である。
 やたら、日本、日本と叫ぶ、ぎょうぎょうしい大河なんか見なかった。非国民でけっこう。鳥や獣、いや草木のように生きるのだと思っていた。政治にはほとんど関心がなかった。むしろ、嫌いだったといえるだろう。
 そんなことは、どうでもよろしい。
 江藤が『海舟余波』につづいて取り組んだ『海は甦える』は、日露戦争時の海軍大臣、山本権兵衛を主人公とする「ドキュメンタリー・ノヴェル」。平山の引用をみれば、明治天皇がじつにざっくばらんに山本と会話するシーンがあって、このあたりがいかにも江藤らしい。
 1975年、江藤は博士論文の『漱石とアーサー王傳説』を出版する。ここで、江藤は漱石と兄嫁、登世との恋愛説を提示する。これに、大岡昇平がかみつき、大げんかとなった。
 大岡は、江藤がこんな思いつきの論考で、文学博士号を手に入れたのが、気にくわなかった。加えて、この年、江藤が芸術院賞を受賞したのもおもしろくなかった。右傾化する江藤に大岡は怒りをおぼえていた。
 大岡の大批判は、江藤に『漱石とその時代』を続行する意欲を失わせる。かれが漱石伝を再開するのは、それからじつに16年後の1991年で、大岡昇平が亡くなってから3年後のことである。その結果、『漱石とその時代』は、未完のまま第5巻で断ち切られる。
 ふり返ると、このころから、ぼくは江藤淳への興味をなくしている。生活のため、新しくはいった会社での営業の仕事が忙しくなったこともあって、本を読むのは通勤時間の行き帰りだけになった。とうぜん、司馬遼太郎や藤沢周平、山田風太郎が多くなる。
 そのころ江藤淳は大学や文壇にとどまらず、福田赳夫のブレーンとして活躍していた。
 福田内閣が成立するのは1976年の年末である。江藤は文部大臣としての入閣を取り沙汰されていたが、それは実現しなかった。しかし、福田のアドヴァイザーとして、1977年2月に訪米したり、7月に東南アジア5カ国に出張したりしている。
 翌78年10月には日中平和条約批准書交換に先立って、鄧小平副総理とも面会している。気分はキッシンジャーで、平山は「江藤の関心はおそらく文部行政よりも、国際関係、外務行政にあったのではないか」と記している。
 1978年になると、江藤はそれまでつづけてきた文芸時評をやめ、平山によれば「占領期から続く戦後日本の実像をあぶり出す作業」に集中する。
 吉本隆明は対談で「江藤淳ともあろう人が、日本の知識人流にいえば、こんなつまらんことにどうしてエネルギーを割くんだろう、という疑問があるんですよ」と江藤に問いただしている。これにたいする江藤の答えは「私はこれが私にとっての文学だからやっているのです」というものだった。政治でも学問でもなく、文学だというところが味噌である。
 戦後日本の実像をあぶり出す仕事の皮切りとなったのが、日本が無条件降伏したという通説にたいする批判である。日本はポツダム宣言の第6項から第13項までの条件を受諾しただけで、それはけっして無条件降伏ではない、と江藤は主張した。言い換えれば、占領当局がポツダム宣言を逸脱して、強引な占領政策を実施したというのが江藤のとらえ方であり、そこから江藤の関心は占領政策の批判へと向けられていく。
 1979年10月から9カ月間、江藤は国際交流基金派遣研究員として、ワシントンのウッドロー・ウィルソン研究所に赴任し、検閲に関する資料を中心に、占領史関係の資料の山に向きあった。その成果として、のちに出版されるのが『一九四六年憲法』や『閉された言語空間』である。
 とりわけ江藤にとって宝庫となったのが、メリーランド大学のプランゲ文庫。ここには占領期に検閲された書籍や小冊子、雑誌、新聞が収録されていた。江藤は占領時代における検閲の実態を知り、GHQがいかに日本人を心理的に操作していたかを実感する。
 さらに、憲法の制定過程である。GHQが新憲法を起草したことは明らかだった。当時の幣原喜重郎首相が閣議で閣僚にたいし、総司令部による憲法案を受諾すると告げている。にもかかわらず、メディアがその事実に言及することを検閲当局は禁止していた。もちろんアメリカ批判は許されない。
 江藤によれば、9条の戦争放棄もアメリカの強制によるもので、日本人が心から求めたものではないという。
 江藤の批判は、「不可解な日米関係の『ねじれ』の根源をつくった吉田茂に向けられ、さらに裏切りの「ユダ」と「左翼」にあふれた戦後文壇にも向けられていく。
 こうした主張は、江藤淳を「絶対的少数派」の孤立へと追いこんでいった、と平山は指摘する。
 日本では、いまでもアメリカに刃向かう政治家や官僚はけっしてえらくなれない。そこで、日本の権力政治は奴隷のことばでアメリカにすり寄りながら、戦後パラダイムなるものを批判し、それをつくりだしたとして左翼を攻撃する。
 そこには換骨奪胎された江藤淳がいる。西部邁がいる。
 江藤淳はいまも孤独なままである。

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