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ウズベキスタンの旅(3) [旅]

 5月11日(土)つづき

 バスはキジルクム砂漠のなかを走っています。
 よく話すガイドさんです。
 自分が住んでいるのは、タシケントから2時間ほどの山のふもとで、旦那さんと子どもが2人いる。仕事中は、義理のお母さんが子どもの面倒をみてくれる。ウズベキスタンでは子どもはふつう3人で、ほんとうはもうひとりほしいがあきらめた。町ではチューリップとポピーの花がきれいに咲く……。
 いま向かっているのはカラカルバクスタン自治共和国で、ここには古代ホレズム王国の遺跡群が残されています。ホレズム王国には50の城があり、ゾロアスター教はここで発生したといいます。
 ホレズム(ホラズムとも)は、かつてアラル海に流れ込んでいたアム川(アムダリア川)下流一帯の地域を指します。川の周辺は農業が盛んで、国家が形成されていたのでしょう。
 問題はおそらくアム川の流れがよく変わったことです。川の流れが変わると、元の肥沃な土地はたちまち砂漠になってしまい、人びとは適地を求めて、新たな地へと移動しなければなりませんでした。そのとき砦もまた新たにつくられたのです。
 ところで、ゾロアスター教とは紀元前6世紀にゾロアスター(ドイツ語ではツァラトゥストラ)によってつくられた宗教です。善悪二元論からなりますが、太陽神アフラマズダを信仰する一神教で、火を尊びます。そのため拝火教とも呼ばれます。
 ゾロアスター教がウズベキスタンで誕生したというのはほんとうでしょうか。ゾロアスター教というとイラン高原のイメージが強いのですが、ガイドさんはあくまでもウズベキスタン説にこだわります。ちょっと場所がずれていますが、それもよしとしましょうか。
 ゾロアスター教では、人は亡くなると鳥葬されます。それによって肉が鳥についばまれ、罪が消えて、白い骨だけとなります。白は善であり、その白骨を壺に収め墓にいれます。
 ガイドさんによると、ウズベキスタンでは、ゾロアスター教の習慣が残っているそうです。たとえば、玄関のドアの上にヤギの角の印をつけるのは魔除け。家にはいるときは右足、出るときは左足から。そうすると、善がはいってくる。話はとまりません。
 ホレズム王国をつくったのはソグド人。ゼロを発見したのもインド人ではなく、ウズベキスタン人のアル・ホレズミ(780?〜845?、アル・フワーリズミーとも)だと、ウズベキスタン自慢がつづきます。
 ちょっとまゆつばですが、名前の通り、アル・ホレズミが、ここホレズム地方の出身で、大数学者だったことはまちがいありません。代数や天文学、アラビア数字の定着にも貢献しました。でも、ゼロを発見したのは、やはりインド人ですよね。
 猛烈な暑さです。トプラク・カラが見えてきました。
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 バスはその下に停まります。
 いまは砂漠ですが、かつてこのあたりは海だったといいます。その証拠に、地面に塩がふきだし、ところどころ白くなっているでしょう、とガイドさん。われわれはこの砦に登るわけです。
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 トプラク・カラは三重の城壁に囲まれた土の城で、1世紀から5世紀にかけての遺跡。いちばん内側の城壁は500メートル×300メートルで、城内には広間やゾロアスター教の神殿もあったといいます。
 たぶん、この城壁のなかに何千人もの人が暮らしていたのです。これが古代の町のかたちです。日本の農村のようなものはありません。町の外は遊牧の世界です。
 ここは城の広間でしょうか。つわものどもが夢の跡といった感じです。壁画や美術品、貨幣なども出土したようですが、それらはいまはなく、各地の博物館に収められているようです。
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 トプラク・カラを1938年に発見したのは、ソ連の民族学者セルゲイ・トルストフだといいます。
 おや、鳥が巣をつくっているようです。大きなトカゲもみました。
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 ゾロアスター教が拝火教と呼ばれるのは、アトルバーンと呼ばれる聖火台に火をともして祈るからです。その根本経典は「アヴェスター」ですが、大半が失われています。
 廃墟となった砦には、ゾロアスター教の神殿跡が残っています。これがそうですね。聖火台が並んでいます。
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 ここも何かちいさな部屋があったのでしょうか。
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 発掘はいまもつづいているようです。
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 そのあたりで記念写真を1枚。シャッターと一緒に目をつむる癖があって、このときもそれが遺憾なく発揮されています。年をとりました。
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 ホレズム王国はアラブ人の侵入により8世紀に滅びます。そのとき、ゾロアスター教も禁じられますが、ガイドさんによると、その影響はミナレットのタイル模様などにひそかに埋め込まれて保存されました。たとえば、鼓を縦にした模様は、ゾロアスター教の火をともす道具を表したものだといいます(これはのちほど)。
 遺跡のいちばん上から向こうを眺めると、ふたつめの城壁らしきものと、さらにその先に黒い山が見えました。カラタオと呼ばれるそうです。
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 ここは現在、カラカルパクスタン自治州になっています。カラパクスタンとは遊牧民のかぶる黒いとんがり帽という意味だそうです。北側はアラル海ですが、いまはもう見えなくなっています。昔はよく見えたのではないでしょうか。
 ガイドさんによると、アラル海が干上がったのは、綿花栽培や天然ガス採掘のためだけではなく原爆実験のためでもあったといいます。そのあたり真相はどうなのでしょう。
 気温は35度以上あるでしょう。猛暑のなか遺跡見学を終えたわれわれは、ユルタと呼ばれるパオのなかで昼食をとることに。なかは絨毯がしきつめられ、暑さをしのげます。
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 スープ、サラダ、パン、フルーツなど、次々料理が出ましたが、メインはジャガイモとニンジンと羊肉を煮込んだ豪快な一品(ウズベキスタン風肉ジャガ?)。もちろん、ビールもいただきました。
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