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ヒヴァ──ウズベキスタンの旅(5) [旅]

 5月12日(日)
 きのう、古代ホレズム王国の遺跡からの帰り道、ガイドさんがウズベキスタンには、桑の木が多いと話していました。赤い実をつけるものと白い実をつけるものがあるといいますが、どちらかというと白い実をつけているものが多いような気がしました。ちょうどいまが盛りです。桑の実、なつかしいですね。
 ウズベキスタンは1991年にソ連から独立します。しかし、いまもロシアとは友好な関係を保っており、みんなロシアが好きだ、とガイドさんはいいます。ぼくなどはまゆつばと思ってしまいますが、ここヒヴァを首都とするヒヴァ・ハン国がロシアの保護国となるのは1873年のことですから、いまは独立しているとはいえ、ロシアとのつながりは、切っても切れないものがあるのでしょう。
 しかし、ウズベキスタン人は日本も好きで、それはテレビドラマ「おしん」の影響だそうです。日本人はみんな「おしん」の世界の人と思っているようです。
 われわれはヒヴァの城内(イチャン・カラ)のホテルに泊まっています。
 早朝、朝日を見るツアーがあるというので、のこのこ出かけました。
 10分ほど歩いて、北門に到着。楼閣に上ってみました。
_DSC0866朝日ヒヴァ/北門.JPG
 きょうは曇りなのでどうかなと思いましたが、しばらく待つと場外のモスクの上に朝日が昇ってきました。
_DSC0888.JPG
 まだ早いせいか、さほど人通りはありません。
 修理中のメドレセ(神学校)などもあって、看板をみると、どうやら中国が援助しているようです。一路一帯政策もあって、最近は中国の進出ぶりがめだちます。ウズベキスタンとの貿易額も、いまはロシアを抜いて、中国がトップを占めています。日本の貿易額はそれほど多くないようです。
 しかし、ほかの観光地でも、中国人観光客の姿は見かけませんでした。そのあたりに、なにか中国との微妙な関係を感じます。ぼくなどは新疆ウイグル自治区の問題もからんでいるはずだとみるのですが、うがちすぎでしょうか。
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 工事中の道路もありますが、ここヒヴァでは、観光地としての整備が着々と進んでいるようにみえます。
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 ホテルの近くまで戻ってきました。朝はまだ静かです。
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 鼓を縦にした模様を見ました。これがきのうガイドさんが言っていたゾロアスター教の痕跡ですね。
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 ホテルの角にあるジュマ・モスクのミナレットです。ミナレットはウズベキスタンではミノールと呼ばれるそうです。塔にはちがいありませんが、火をともす場所を意味します。いってみれば、砂漠の灯台でしょうか。
_DSC0916ヒヴァ/ジュマ・モスクのミナレット.JPG
 朝食をとってから、この日はヒヴァを観光します。城壁に囲まれたヒヴァの旧市街はイチャン・カラと呼ばれ、その面積は25ヘクタールだそうです。東京ディズニーランドの半分くらいです。こぢんまりしていますね。
 ややこしい歴史の話はできるだけ省略しますが、ヒヴァがヒヴァ・ハン国の首都になるのは17世紀前半です。それまでホレズムの首都はウルゲンチでした(空港がありましたね)。
 ホレズム(またはホラズム、フワーリズム)はアム川(アムダリア)下流地域を指しますが、古くから歴史の激流に洗われています。
 ペルシアの勢力下にあったかと思うと、東からアレクサンドロスがやってきます。8世紀にはアラブ人によって征服され、イスラム化されます。ガズナ朝、セルジューク朝に支配されたあと、ホラズム朝として自立したものの、チンギス・ハンに征服され、ウルゲンチも破壊しつくされます。
 しばらくしてティムール時代となり、それからヒヴァ・ハン国ができ、19世紀にロシア、20世紀にソ連に吸収されるという歴史をたどるわけです。それ以来、このあたりは事実上、ソ連の綿の植民地となります。
 ホテルの目の前に、こんもりした墓がいくつも並んでいました。奥に見える大きなドームは、あとで行くパフラヴァン・マフムド廟です。
_DSC0928.JPG
 その先にあるイスラーム・ホジャ・メドレセは、1910年にヒヴァの最後のハンの宰相、イスラーム・ホジャによってつくられた神学校です。この宰相は進歩的で、ヒヴァの近代化(ロシア化?)に尽力し、病院や学校などもつくり、ひじょうに人気があったそうです。しかし、聖職者たちによって暗殺されました。
IMG_2431.JPG
 メドレセは神学校。その隣に立つミナレットの高さは51メートルで、内部に118段の階段があります。われわれはのちほど、フリータイムのとき、ここに上りました。
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 ヒヴァの観光は盛りだくさんです。
 次に訪れたのがさきほどちらっと見えたパフラヴァン・マフムド廟です。パフラヴァン・マフムドは14世紀の哲学者、詩人にして武道家。パフラヴァンとは強者という意味です。ガイドさんはほどこし(コラーシュ)のレスラーと呼んでいました。
 入り口をはいると、中庭に井戸があります。ヒヴァは砂漠の井戸で、人びとがアヘイワ(感謝)とつぶやいたことから、次第にヒヴァとなったといいます。もともとはちいさな集落でした。
_DSC0933パフラヴァン・マフムド廟/ヒヴァ.JPG
 廟のなかにはいります。
_DSC0934.JPG
 これがパフラヴァン・マフムドの墓でしょうか。パフラヴァン・マフムドは、ヒヴァをつくった聖人のようにみられているのかもしれません。ターコイズブルーのタイルに囲まれた美しい墓です。
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 ヒヴァ・ハン国のハンたちは、パフラヴァン・マフムドのそばに眠ることを念願しました。そのため、この廟には、多くのハンの墓があります。これはそのひとつですね。
_DSC0943.JPG
 次にジュマ・モスクに。ここにもミナレットがあります。
 ジュマとは金曜日という意味。10世紀に建てられたが、チンギスハンによって破壊され(多少疑問あり)、その後18世紀に再建されたといいます。
 ここの特色は3メートルごとに213本の木柱が立っていることです。
 クルミの木でできた柱にはそれぞれ彫刻がほどこされています。中庭から差し込む光が幻想的で、柱に陰翳をもたらします。
IMG_2441.JPG
 そのうち4本は10世紀から11世紀のもので、イスラムでは禁じられている羊の頭のかたちもえがかれています。わかりますか。これもゾロアスターの影響だとガイドさんはいいます。
_DSC0966.JPG
 彫刻がほとんどなくなっていますが、これも古い柱ですね。
_DSC0972.JPG
 キジバトがいました。日本の鳩とは、ちょっとちがう感じです。
_DSC0975キジバト?ジュマ・モスク.JPG

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