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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(2) [商品世界論ノート]

 第2章「出発点」を読んでみる。1870年が出発点である。
 1870年のアメリカの1人あたり所得は、イギリスの74%に達していた(2010年ベースで約3700ドル)。すでに中世風の農業社会ではなく、産業革命の成果もとりいれられている。人口もイギリスを上回っていた(約4000万人)。
 ちなみに、日本はこのころ人口はアメリカとほぼ同じだが、1人あたり所得はアメリカの3分の1以下で、ずっと貧しい。もちろんGDPだけで、社会の水準がはかれるわけではないのだが。
 当時の観察では、イギリスやフランスにくらべ、アメリカの労働者階級の生活はましだったという記録がある。しかし、それは東部の大都市の話だった。人口の75%を占める農民の生活ぶりがどうだったかはわからない。むしろ、1870年以降は、労働者の生活水準は低下している。それは移民の増大や、農村から都市への人口の流入と関係がある。
 1870年にはすでに大陸横断鉄道がつくられようとしていた。電信が導入され、海底通信ケーブルも開通し、全米の一体化が進む。
 とはいえ、動力の中心は、まだ蒸気、水車、馬である。電気や石油はない。明かりはロウソクや鯨油に頼っていた。
 ヨーロッパにくらべ、人口増加率は高かった。その背景には農地の安さがある。人口は87%が白人、13%弱が黒人だった。人口の約60%が25歳以下で、65歳以上は3%にすぎない。大人も子どもも農作業や家事労働を中心によくはたらいていた。年金や保険などがないから、人は死ぬまではたらくしかなかった。
 当時の消費はほとんどが食料、衣服、住居に費やされた。ある研究によると、平均世帯5人家族の年間消費額は1000ドル弱で、その45%が食料に、タバコ、薬、燃料、新聞などに7%、衣服や靴、布、玩具などの半耐久財に16%、家具や調理器具、時計、その他の耐久財に9%、残り24%が家賃などのサービス財にあてられていたという。
 消費の総額と中身は、その後、150年で大きな変貌をとげることになる。とりわけ、特徴的なのは、食料支出の割合の低下と、サービス支出の割合の増大である。半耐久財や耐久財にしても、その中身はがらりと変わった。
 食料に関していえば、農村部では自家栽培が中心で、トウモロコシと豚肉が主食だった。野菜は地域によってことなる。北部はジャガイモ、南部はサツマイモが中心。果物はりんご。飲み物はチョコレート飲料や紅茶、コーヒーといったところだ。
 当時は人口の75%が農村に住んでいた。典型的な開拓農民は、肉食用の家畜を飼い、ジャガイモなどの野菜をつくり、適地であれば小麦を栽培し、自家消費していた。着る服も自宅でつくっていた。しかし、砂糖やコーヒー、香辛料、たばこ、医薬品、農機具、調理器具、布地などは最寄りの雑貨店で購入しなければならず、それには現金が必要だった。しかし、ほとんどの商品はツケで販売されていたという。
 男性用の服は雑貨屋で購入されていたが、女性用の服は上流家庭をのぞき、一般家庭では手作りで、布を裁断し、針と糸でつくるものとされていた。
 住環境は都市と農村ではまったくちがうが、都市でも一軒家が多く、集合住宅は少なかった。電気もガスもないから、家は寒く暗かった。薪や石炭を燃やして暖を取り、夜はランプの裸火を明かりにしていた。水道や浴室、トイレもない。とりわけ都市の労働者の住環境は劣悪だった。
 そのいっぽう、経営者や地主などの上流階級は、都市や町に大邸宅を構えていた。しかし、多くの使用人をかかえるその大邸宅でも、まだ快適な設備は整っていない。
 鉄道はできたが、交通手段は、都市でも農村でも馬車が主流であり、農村の生活は孤立していた。だが、1870年ごろから、列車による郵便配達システムが登場し、電報が便利な通信手段となりつつある。
娯楽は、酒場や公園、マーケットに行くぐらいのものだが、ニューヨークでは遊園地などができている。
 当時の平均寿命は45歳。とりわけ乳児死亡率が高かった。さまざまな感染症が蔓延し、結核が不治の病であり、工場での事故も多発していた。病院も少なく、医療も発達していない。地域でも家庭でも、公衆衛生上の措置はほとんどとられていなかった。
 労働力人口でみれば、農民と農業労働者が46%、職人や工員、人夫などのブルーカラーが33%、事務員、販売員、使用人などのサービス業が13%、経営者、専門職、管理職・役人が8%という統計がでている。この割合は様変わりしていくが、当時は都市の労働者より、農家のほうが圧倒的に暮らし向きがよかった。
 男女の役割は明確に分けられていた。都市では、外で給料を稼ぐのは男であり、女は家で家事を切り盛りしていた。ホワイトカラーとブルーカラーは区別され、階級間の移動はほとんどなかった。地主が同じ場所にとどまるのにたいし、労働者は都市のあいだを移住することが多かった。都市の職業は多様だった。
 1870年では、25歳以下の若年人口が総人口の60%を占めている。学校教育は12歳までの小学校にほぼかぎられていた。男は15歳、早ければ12歳から働きはじめる。女は母親の手伝いをし、若くして結婚し、家庭にはいった。
 南部では黒人への教育はほとんどなされなかった。「奴隷制度のもとでは黒人の学校はなく、プランテーションの経営者は、教育を受けさせず、文盲のままにしておくことで奴隷支配を維持しようとした」。奴隷解放宣言以降も、こうした差別はつづく。
 65歳以上の高齢者の割合は、わずか3%だ。しかし、社会保障制度がなかったため、高齢者の生活はかなり悲惨なものだったという。
 1870年の生活は現在とはまったくちがう。商品世界が全面的に浸透していないためGDPという指標もあまりあてにできない。
 消費財はかぎられていた。それでもその財を得るための労働はきつく、主婦も家事労働に追われていた。
 売られている食品の種類も少ない。保存技術が限られているため生の肉は危険だった。住環境も厳しかった。どの家もハエや虫に悩まされた。鉄道や汽船、一部の工場は蒸気で動いたが、交通面で基本的な動力源となっていたのは馬だった。
 だが、そのころ第2次産業革命がおこるのだ。
 著者はいう

〈1870年という年は、現代アメリカの夜明けと位置づけられる。その後の60年間、生活のあらゆる面で革命が起きた。1929年には、アメリカの都市部は電化され、都市のほぼすべての住宅がネットワーク化され、電気、天然ガス、電話、水道水、下水道で外の世界とつながっていた。1929年には、馬は都市の通りからほぼ姿を消し、自動車の世帯保有率は90パーセントに達していた。また1870年には想像もできなかった娯楽を楽しめるようにもなっていた。レコード、ラジオ、豪華な映画館での映画上映。さらに乳児の死亡はほぼ克服され、病院や薬の処方は、現行の認可制度や専門性が確立された。労働時間は短くなり、肉体労働に従事する労働者の割合は低下し、家電が日々の家事労働を明るいものにし始めた。〉

 日本はこのアメリカを追いかけることになる。
 商品世界の広がりと経済成長が問題である。

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