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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(3) [商品世界論ノート]

 GDPは年間の商品生産のフローを集計した数字だが、それ自体が生活水準を示しているわけではないという著者の発想はきわめてまっとうなものである。GDPはあくまでも経済指標にすぎず、社会の成長をみるには、生活水準の移り変わりそのものに焦点をあてなければならない。
 そのような視点から、著者は第3章と第4章において、1870年から1940年にかけ、アメリカの衣食住がどう変わったのかをみていく。
 衣食住のなかで、人がもっとも必要とするのが食であることはまちがいない。アメリカでは、1日の消費カロリーはだいたい3000〜3500カロリーが基本で、それは1970年ごろまで、ほとんど変わっていない。それが増えるのは1970年以降で、2000年には4000カロリーになっているという(ちなみに、日本人はほぼ2000〜2500カロリー)。
 ある調査によると、アメリカの家計における食品の支出割合は、1870年から1920年にかけては40数パーセント。それが約35%に低下するのは、1930年代後半からである。しかし、そのかんに食品は多様化し、豊富になる。それが生活水準の向上をもたらした、と著者はいう。
 アメリカ農務省の統計によると、1870年から1930年にかけ、肉の消費は減っている。牛肉は25%減、豚肉は半減。ラムや鶏肉の消費も増えていない。小麦の重要性も低下している。そうしたなかで、消費が増えたのは、脂質・油、果物、乳製品、卵、砂糖、コーヒーだという。加工食品の開発も目立つ。とりわけ、油で揚げたり、いためたりするものが食卓をにぎわせるようになった。
 都市でも多くの家が家庭菜園で野菜をつくっていた。都市と農村のちがいは、都市がほとんどの食料を買わなければならなかったのにたいし、農家は基本的に自給自足で、食料以外の必要なもの(砂糖や靴、農機具など)を得るために余った豚肉や穀物、野菜を売っていたことである。
 とはいえ、1890年代から1920年代にかけ、冷蔵貨物列車と家庭用のアイスボックスが開発されるにつれ、食品の流通は拡大する。果物や野菜も汽車で運ばれるようになった。冷蔵技術の発展によって、保存期間が長くなり、生鮮食料品の価格が下がった。その分、食料の商品化が促進されたといえる。
食の多様化が進んだのは移民が増えたせいでもある。上流階級はフランス料理を好み、ドイツ人はソーセージを持ち込み、ホットドックを生み出す。イタリア移民は外食文化を普及させた。ドイツ人はビールを、イタリア人はワインをよく飲んだ。1920年から33年にかけての禁酒法は、かえってGDPに占めるアルコール消費の割合を高めるという皮肉な結果をもたらしたという。
 1870年から1900年にかけて、加工食品が台頭する。缶詰やドライフルーツ、クラッカー、オートミール、パスタ、ソース、ソーセージやハムなどである。パンも市販のものを買う人が多くなってくる。缶詰は西部の開拓地でよく利用されていた。1886年に誕生したコカコーラがよく売れるようになったのは20世紀になってからである。コーンフレークも次第に便利で手間のかからない朝食として重宝されるようになった。ジャンクフードも出回るようになる。1896年にはポップコーンが全米で発売されるようになった。そのほか、お菓子のたぐいは数え切れない。
 こうして、加工食品工業が確立されていく。ブランド食品は大量生産で価格が下がり、労働者も手に入れられるようになって、マーケットが広がる。「1900年にはすでに、加工食品の生産高が製造業生産高の20パーセントを占めるまでになっていた」。
 冷凍食品が生まれるのは1920年以降である。魚や肉、野菜、果物、その他の調理食品が冷凍食品が発売されるが、当初はさほど売れない。それが定着し、よく売れるようになるのは、1950年以降に冷蔵庫に冷凍スペースが設けられるようになってからである。
 1870年の「豚とトウモロコシ」の単調な食卓から、バラエティに富んだ現代の一般的な食卓への移行は、1920年代にはほぼ完了していた、と著者はいう。アメリカでは所得水準の上昇とともに、レストランも増え、各国さまざまな料理を楽しむことができるようになった。すでに1920年代には、主要な高速道路にはドライブインが並び、町にはハンバーガー・チェーンもできている。
 こうしたアメリカの食品革命が日本に押し寄せたのは、第2次世界大戦後だったかもしれない。
 それはともかく、アメリカでは1870年当時、農村と都市の人口比は75対25で、農村のほうが圧倒的に人口が多い。これは日本も変わらない。農村ではほとんどの食料が自家農園で栽培されていた。家族で消費する以外の余った分だけが市場で売られていた。その代金で、農家は地元の雑貨屋で、靴や男性用衣服、女性用の布地、農機具その他を買っていた。
 都市には大規模な市場があり、さまざまな商店が、肉や魚、野菜、果物のほか、乳製品やパンなどの食品を売っていた。ほかにも石炭や薪、さらにはハーネス(馬具)や塗料、自転車、銃、書籍、衣料品などを売る店があった。
 店の形態が変わるのは1920年前後からだ。「現金・持ち帰り」のチェーン・ストアが急成長する。チェーン・ストアは大量仕入れによって、安い値段で商品を提供し、各地に広がっていく。
食品のマーケティング革命が進行していた。消費者はより安い価格で食品を購入できるようになった。
 だが、食品には中毒がつきものだった。水や牛乳、肉には危険がひそんでいた。牛乳が殺菌されるようになったのは1907年からである。ソーセージも不衛生な環境でつくられていた。食品の安全対策には時間がかかった。20世紀にはいって、肉の消費量が減り、流通コストが高くなったのはそのためだ、と著者はいう。食品を安価で安全な商品として売りだすには、さまざまな検査体制が必要だったといえるだろう。
 次に著者は1870年から1940年にかけての衣服の展開をみる。衣食住の衣である。著者によれば、そのいちばんの展開は「衣服が家庭でつくるものから市場で購入するものへと変わったことだ」。
1890年以降、東欧からの移民がもっとも仕事をしたのは仕立屋としてだった。安い賃金で汚い屋根裏部屋で、懸命にはたらいたという。
 ファッションが生みだされたのも20世紀になってからである。1910年以降、女性のファッションは確実に進化していった。
 1870年は衣料品販売に革命がおきた変わり目だったという。パリのデパート、ボン・マルシェをまねて、アメリカでもデパートが誕生する。豪華な店構えを誇るデパートは商品の殿堂だった。ありとあらゆる商品が店頭に並べられ、定価で売られていた。
 デパートだけではない。日用雑貨チェーンやドラッグストア・チェーンが、店舗を広げ、さまざまな商品を全米に供給し、アメリカ人の生活水準の上昇に寄与するようになる。それによって、小間物や針、ペン、ノートなどの文具、その他多様な商品の大量生産も可能になった。
 直接、デパートに買い物に行けない農村の住民に恩恵をもたらしたのがカタログ販売である。モンゴメリー・ウォードは1872年、シアーズ・ローバックは1894年に最初のカタログを発行している。そのカタログには、帽子やかつら、コルセットに毛皮のコート、時計、自転車、セントラル・ヒーティングの炉、銃など、食品を除くあらゆる商品が網羅されていた。
 アメリカではカタログ販売の果たした役割は大きい、と著者はいう。それまで田舎の商店や行商人に頼らざるをえなかった農村の世帯が「カタログを見て気に入った商品を買える豊かさを手にしたのだ」。農民にとっては、世界が広がる経験だった。
 1870年から1940年(日本でいえば、明治維新から昭和前期)にかけての食料品や衣料品の展開は、人びとの生活を大きく変えていった。しかし、それ以上に人びとの暮らしを変えたのが住宅の進化だった。電気、水道、ガスの普及が、その進化を促していた。
 1940年段階で、アメリカの都市人口は全人口の57%を占めるようになった。急速な都市化が進んでいる。
 各家庭は電力ネットワークでつながり、電灯と家電製品が増えている。上水道と下水道のネットワークもできあがった。ガスや電話も普及しつつある。1940年に洗濯機と電気冷蔵庫の世帯保有率は40%に達し、浴室やセントラル・ヒーティングもあたりまえになっていた。
 住宅革命の本質は「ネットワーク化による現代的な利便性の実現」にある、と著者はいう。とりわけ女性が多少なりとも家事から解放されたことが画期的だった。
 アメリカは1920年ごろまでは農業社会で、大多数の人は広々とした一軒家で暮らしていた。狭くて暗いアパートに労働者がひしめくように暮らしていたのは、ニューヨークのような大都会だけだという。
 1870年から1940年にかけ、アメリカの人口は3700万人から1億2700万人へと3倍になった。世帯数はそのかん5倍になり、1世帯あたりの人数は5人から3.7人へと低下した。
 1940年時点の住宅はほとんどが1880年以降につくられたものだ。しかも、その大半が1920年以降に建てられていた。「少なくとも都市部では、ほとんどの住宅が、都市に電気が通り、上下水道など衛生面のインフラが整った後に建てられたものだといえる」。
 都市では賃貸用に多くの一戸建て住宅が建てられ、その多くが二世帯住宅だった。1920年以降、ニューヨークやシカゴでは大型の高層アパートがつくられるようになった。
 人びとの生活水準は、世代ごとに着実に向上していた。教育水準の向上にともない、労働者階級の子どもが中流階級に上がる機会も増えてきた。親が移民で苦労したとしても、1920年代には、その子どもは電気や水道が完備された住宅に住み、自動車に乗る生活があたりまえになっていた。
 都市人口が増えるにつれ、都市の人口密度が高まり、住宅のスペースは狭くなった。それでも、世帯あたりの平均人数が減ったため、一人当たりの部屋数は増えた。住宅は小型化したが、その分、より効率的になった。よけいなスペースが減り、間取りはよりシンプルになっていった。
 1900年代の都市労働者階級の住宅事情はけっしてよくなかった。スラム街にはテネメント(安アパート)が密集し、3部屋に5人が居住するありさまで、周囲には悪臭が立ちこめていた。とりわけひどかったのがニューヨークである。
 シカゴやクリーヴランドのような中西部の都市はまだましだった。都心の中心部から3、4キロ離れたところに郊外住宅をつくることもできたからである。
 かつての広壮な邸宅にかわって、1910年から1930年にかけて、簡素な平屋建てのバンガロー・ハウスが数多くつくられるようになる。それは労働者階級が次第に中流階級になったことと関係しているという。
 技術革新によって、住宅建設のコストも安くなった。
「標準的な間取りと加工建材を活用したバンガローの建設は、19世紀半ばに遡る建築のイノベーションの長いプロセスの頂点と位置づけられ、これにより人口のかなりの割合が一戸建てを所有できるようになった」と、著者はいう。
 シカゴなどでは、かなり計画的に住宅地域がつくられ、マイカー時代の到来に備えて道路が整備され、電柱や電線は道路に埋設され、街路樹が植えられていたという。
 小さな町では中流階級と労働者階級は一戸建てに暮らしていた。貧しいか、豊かかのちがいはあったが、混ざりあって住んでいた。安アパートのひしめく都市にくらべ、スペースには余裕があった。回りは田園地帯で、どの家にも菜園があった。
 200〜300エーカーの土地をもつ農家は、1900年以降に建て替えられた広大な屋敷を構えていた。暖房や家具、水のポンプなどで大きな改善がみられたが、現代的な利便性は農村まで行き渡らなかった。
 1920年ごろ、農民は自分たちが現代の進歩から取り残されているのではないかという気持ちをいだくようになる。「現代的利便性は、都市の生活を均質化する一方、都市と農村の生活に大きな格差をもたらしたのだ」と、著者は論ずる。
 アメリカで住宅革命がおきたのは1910年から1950年にかけてである。水道、ガス、電気のネットワークが、現代的利便性をもたらした。とりわけ、1930年から50年にかけての発展は著しく、ほとんどの家庭が電灯、水道、水洗トイレ、セントラル・ヒーティングの設備を備えるようになった。冷蔵庫と洗濯機が急速に普及するのは1930年以降である。
 つまり、1900年と1940年のあいだに、電気、ガス、水道の奇跡が、家庭に一大変化をもたらしたのだ、と著者はいう。エジソンが電球を発明したのは1879年、ニューヨークに発電所ができるのは1882年である。ガスはイギリスで19世紀初頭に開発され、最初は街灯として用いられ、その後、燃料として広く活用されるようになった。
 1900年時点で、電力サービスはそれほど普及していない。電力消費が大きく伸びたのは、電力価格の急速な下落がある。それにつれ、電球の性能は向上し、値段も安くなっていく。照明のほか、電気は工場や鉄道などでも利用されるようになる。
 しかし、1940年になっても都市と農村部のあいだには、電化率に大きな差があった。エジソンが電球を発明してから60年たっても、南部の農家では8割がランプを使っていた。
 家電製品はわりあい早く開発されたが、普及には時間がかかった。屋内配線は面倒だったし、プラグや差し込み口の標準化も必要だった。それでも1940年には4割の家庭が電気洗濯機や冷蔵庫を使用するようになっていた。1919年に775ドルした冷蔵庫は、1940年ごろには137ドル〜205ドルと買いやすい値段になっている。1927年にはサーモスタットつきの電気アイロンが発売されている。掃除機も人気があった。「電灯や家電製品によって家庭の電化が進んだことで、多くのアメリカ国民の日常生活ががらりと変わった」と、著者は指摘する。
 1890年代まで、ほとんどの家庭に水道はなかった。上水道と下水道が整備されるようになったのは、利便性より、もっぱら公衆衛生上のためだった。水洗トイレが発明されたのは1875年である。公営水道は1870年から1900年にかけ、都市全域に広がる。それ以降、家庭での革命がはじまる。台所の水回り設備が開発され、水洗トイレや浴室が普及する。
 1940年時点で、水洗トイレのある家庭は全米の6割にすぎない。しかも、都市部の割合が圧倒的に高い。屋内のバスルームが誕生したのも1940年になってからだという。
 暖房用の蒸気ボイラーはすでに1840年代からできていたが、安全性の問題があり、よく爆発事故をおこした。お湯をわかして暖気を送るセントラル・ヒーティングが普及したのは1880年になってからで、これも都市が中心だった。その燃料には石炭やコークスが使われていたが、灰の始末もたいへんだったし、大気汚染も引き起こした。それが改善するためには、燃料をガスに変えていく必要があった。
 著者はこう述べている。

〈1870年以降の生活の変化、とりわけ都市部での変化は、水や燃料を自分で運ぶ生活から、ネットワークを基にした生活への転換だといえる。電話線、上下水道、電力ケーブルのネットワークは、突如出現したわけではない。都市の中心部から人口のまばらな地域に徐々に拡大していった。必要性は認識されていたが、政府のインフラ開発部門と民間資本の組み合わせで実現した。〉

 しかも、こうした革命的な変化が起こるのは1回切りだった。1940年には水道や電気、ガスに関連する発明はほぼ終わっていて「日常生活の劇的な変化をもたらす発明は、1940年以降生まれていない」。
 現代世界は多かれ少なかれ、こうしたアメリカン・ライフスタイルを追いかけてきた。それを可能にしたのは、それ自体がネットワークである商品世界の広がりだった。そのこと自体は否定できないだろう。
 まだ話は終わっていない。それどころかはじまったばかり。終焉までつづく。

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