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シャフリサブスへ──ウズベキスタンの旅(9) [旅]

 5月14日(火)
 けさは朝6時50分にバスでホテルを出発。中間のカサンを経て、シャフリサブス(旧名ケシュ)に向かいます。最終到着地は青の都サマルカンドです。
 ブハラからシャフリサブスまでは300キロで約4時間、シャフリサブスからサマルカンドまでは170キロで約3時間のバスの旅になります。
 早朝、宿泊したグランドブハラ・ホテルの屋上から眺めると、新しいホテルが建設中でした。観光客が増えている様子がうかがえます。
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 郊外にでると、そこはすぐ乾燥地帯になり、遠くに工場と倉庫らしいものが見えてきます。
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 さらに行くと荒涼とした大地が広がります。ガイドさんによると、このあたりは自然公園になっているとのこと。積み上げた石の上にシカの像が立てられているのは、シカが道路を横切るので注意ということでしょうか。
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 ガイドさんがとつぜん、ウズベキスタンに強制連行された日本人捕虜の話をはじめます。
 戦後、ソ連によって60万人の日本人がシベリアに抑留された話はよく知られています。しかし、そのうち2万5000人がウズベキスタンに連れてこられたことは知りませんでした。
 ガイドさんによると、ウズベキスタンで亡くなった日本人は1300人で、強制連行された人の4%にあたります。これはシベリアに比べると圧倒的に少ない割合だ、とガイドさんは強調します。
 いまでもタシケントをはじめ、ウズベキスタン各地に日本人墓地が残っています。亡くなった人の無念さを思わないわけにはいきません。
 ガイドさんはウズベキスタンとの友好関係に力をいれた大使として、とくに中山恭子さんの名前を挙げていました。中山さんには『ウズベキスタンの桜』という著書もあるそうです。
 バスは砂漠のなかを走っていきます。
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 帰国してから読んだ藤野達善『もうひとつの抑留』には、もう少し生々しい話が書かれていました。
それによると、日本は戦争末期にソ連に終戦工作を依頼し、その見返りとして満洲を放棄し、そこに住む日本人をソ連に引き渡してもよいとする条件を示していたというのです。あきらかに棄民政策です。さらに戦後直後には、捕虜の一部を労働力として用いる、いわゆる「役務賠償」を認めていたといいます。
 これがもしほんとうだとすれば、日本人のシベリア抑留は、スターリンによる非人道的措置というだけでは片づきません。日本の国体維持をソ連が認める代償として、日本政府はスターリンによる日本人強制連行を認めていたことになるのですから。
 60万人の日本人捕虜はシベリアの鉄道建設や港湾建設、鉱山採掘のため、その現場に配置されていきました。そして、その一部の2万5000人がウズベキスタンに回されたのです。
 日本人はウズベキスタンの金属・石油・化学工場や炭鉱に送られたほか、さまざまな建設、すなわち住宅や病院、工場、学校、道路、橋、ダム、発電所、運河をつくる仕事に従事させられました。
 ウズベク人は日本人に同情し、よく差し入れなどもしてくれたといいます。気候はシベリアよりましだったかもしれませんが、砂漠の運河掘りなどは死ぬほどきつい労働でした。
 収容所での生活は生半可なものではありませんでした。自殺、逃亡による射殺、日本人同士の対立、抗争、喧嘩もあったといわれます。
 抑留日本人の墓地は、フェルガナ盆地一帯、飢餓砂漠といわれる砂漠地帯、ブハラ郊外のカガン、タシケントなどに残っているそうです。
 運河が見えてきました。こういう運河もひょっとしたら日本人が掘ったのかもしれないと思うと感無量です。
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 ガイドさんによると、ウズベキスタンは金やウラン、石油、天然ガスなど資源に恵まれているといいます。石油タンクが並んでいました。
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 畑の子どもがバスに向かって手を挙げてくれます。
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 ヒツジの放牧です。
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 これは天然ガスの工場でしょうか。
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 ラクダも放牧されています。
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 ラクダのミルクを売る露店もありました(ついでにコーラも?)。
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 砂漠地帯が終わると、だんだん畑が広がります。
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 ガソリンスタンドの横で、ラクダが草を食べていました。
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 かまどでナンを焼いている人も。
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 これは古い城壁の跡。
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 馬も放牧されています。何といっても中央アジアは名馬を産出する地域です。
_DSC0291馬疾走.JPG
 ブドウが栽培されています。
_DSC0318ブドウ栽培.JPG
 大きな山が見えてきました。あの山の向こうはアフガニスタンです。
 そのふもとテルメズで、人類学者の加藤九祚がクシャン(クシャナ)朝時代の仏教遺跡を発掘し、みごとな仏像を発見したとガイドさんが教えてくれます。われわれは最終日にタシケントの歴史博物館でその仏像と対面することになります。
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 11時、バスはシャフリサブスに到着します。
 シャフリサブスはティムールの生まれた場所です。
 そのころウズベキスタンはモンゴルのチャガタイ・ハン国に属していました。そのなかで実力をつけたティムールはチャガタイ・ハン国を吸収し、みずからの帝国を築きます。その版図はアゼルバイジャン、アルメニア、インド、イラン、トルコ、ボルゴグラードにまでおよびました。享年69歳。遺体はかれの意に反して、ここシャフリサブスではなく、サマルカンドに埋葬されることになります。
 シャフリサブスで最初に訪れたのがドルッティロヴァット建築群と名づけられる場所です。ここにはティムールの父が眠っています。しかし、長くなりましたので、今回はこのあたりで。
_DSC0350ドルッティロヴァット建築群・シャフリサブス.JPG

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