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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(5) [商品世界論ノート]

 ここからは、1870年から1940年にかけての生活環境の変化をみていく。
 商品世界の進展は、労働者の資本家への隷属をますます強め、労働者の困窮を広げていっただろうか。事態はマルクスの予想と逆に動いた。少なくとも、1870年から1970年までの100年については、そうだったといえる。
 イノベーションにもとづく新商品には、消費者の厚生を高め、余暇活動を広げ、家事労働の負担を軽減する効果があった。自動車や冷蔵庫、掃除機などの家電製品をみてもそのことがわかる。そのことが同時に平均余命(寿命)の伸びをもたらす、ひとつの要因ともなった。
 とりわけ注目すべきは、1900年から1940年にかけ、乳児死亡率が低下したことである。都市の衛生インフラ(たとえば上下水道)が整備され、危険な食品や薬品への規制がなされようになったことも、平均余命の伸びと無関係ではない。加えて、より直接的な要因としては、もちろん医療技術の進歩を挙げなければならない。
 1900年時点では、都市部の白人男性の平均余命は39.1歳と、農村部の46歳よりも低かった。これは都市の生活環境が悪く、新鮮な食べ物を得るのが難しかったからである。しかし、1900年と1940年を比較すると、都市部と農村部の差は縮小し、平均余命は白人男性が48歳から63歳に、非白人男性は33歳から52歳に伸びている。白人と非白人の余命のちがいは、とりわけ南部の生活環境の差によるものと思われる。
 平均余命の増加は、前に述べたように、乳児死亡率の低下が大きな要因だが、感染症による死亡率が低くなったことも大きい。1918年から19年にかけてのスペイン風邪(インフルエンザ)は例外的に多くの死者をだしたが、当時はまだウイルス研究がじゅうぶんに進んでいなかった。著者は上水道システムの普及や、パスツールの病原菌理論にもとづくワクチンの開発、住宅環境の整備、公衆衛生の浸透、大気汚染対策、食品の安全管理、疫学予防、病院と薬局の整備などを寿命増加の要因として挙げている。
 さまざまな医療器具が開発され、医師が専門化し、医療行為が市場性をもつようになったことも見逃せない。それまでは、医療は家庭か近隣の協力でなされるものだった。自動車は医師の行動範囲を拡大した。電話で緊急に医師を呼ぶことも可能になった。
 病院数は次第に増えていったが、それでも、まだ病気や怪我は自宅で治すという人は多く、その場合、病人は医師の往診を待つほかなかった。出産も家庭でおこなわれることがまだ一般的で、病院での出産が5割にのぼるのは1920年代になってからである。
 看護学校が誕生するのは1870年代。1920年代には病院の建設ラッシュがはじまる。それにより病院はより快適なものとなり、病室も個室や半個室がつくられるようになった。1930年ごろ、病院を運営するのは、連邦政府ないし地方政府が28%、教会や個人、非営利組織が72%といった割合だった。
 医学は着実に進歩し、麻酔薬が開発され、手術での苦痛も軽減されていく。ワクチンは感染症の脅威を軽減した。公衆衛生面では、清潔と消毒のたいせつさがより認識されるようになった。
 医療費は当初、さほど高くなかった。往診する医者は、個人事業主で、患者を診察・治療するたびに料金を請求した。医療費が上がりはじめたのは1910年ごろからである。このころ医学校改革がなされ、医者がより専門家になると、医師の免許制がいわば独占に似た状況を生みだし、診療報酬が押し上げられていった。現代的な医療機器による治療や入院費の増加も医療費を高くする要因となった。
 アメリカでは全国民を網羅する医療保険がなかなかできなかった。労働者の一部は産業の疾病基金でカバーされていたが、失業すると、たちまち所得と健康保険の両方を失った。長期入院を強いられると、年収の3分の1から半分の医療費を請求されることもあった。ニューディール政策では強制失業保険と社会保障法が成立したものの、国民健康保険の導入にはいたらなかった。
 事故についてはどうだろう。エジソンの発明した電球が職場での事故を減らした、と著者は指摘する。とはいえ、事故はまだ多かった。馬と人間が衝突することもあった。鉄道や船の事故も少なくなかった。それが一段落すると、今度は自動車事故である。1920年には、自動車事故による死者が鉄道事故の倍になった。だが、それも徐々に改善されていく。
 殺人率は1930年代に10万人あたり10人と上昇するが、1950年にはほぼ半減し、1980年代にふたたび上昇して、10万人あたり11人のピークをつけた。1930年代の殺人による死亡者数は、自動車事故のほぼ3分の1である。殺人には地域格差が大きい。北部が比較的少ないのにたいし、南部はきわめて高い。しかし、南部よりさらに高かったのが西部開拓地だった、と著者はいう。
 生活水準上昇の度合いは、1人あたりGDPの伸びよりも大きい、と著者はみる。GDPの増大は生活の質の変化と消費者余剰をもたらすからだ。とりわけ、その恩恵は死亡率の低下と平均余命の増加にあらわれる。平均余命の増加は、医療産業の進歩によるだけではなく、もっと総合的なものである。
 次に取りあげられるのは、職場と家庭の労働環境である。
 1870年代から1940年代にかけ、それらは多いに改善された。職場の労働時間は着実に短くなり、64時間だった週の労働時間は、1940年以降48時間に減少した。定年退職という概念も一般的になる。児童労働はほぼ消滅した。
 機械の導入により、きつい農作業は緩和された。それは食肉処理などの職場でも同じである。縫製工場の劣悪な労働環境も次第に改善されるようになった。
 女性の労働参加率は徐々に上昇した。1870年には12%だったが、1940年には26%に達し、2000年には72%まで上昇している。いっぽう、男性の労働参加率は1870年から1940年で95%で、その後減ったといっても2000年でも88%を保っている。
 10歳から15歳までの児童労働は1880年には男子が30%、女子が10%あったが、1940年にはほぼ4%に低下している。19世紀後半、少女たちは水くみや洗濯、台所仕事、縫い物、子どもの世話と、めまぐるしく働いていた。
 1910年ごろから若年男子(16〜24歳)の労働参加率が低下するのは、高校への進学率が増えたからである。戦後はさらに大学進学率の増加によって、若年労働者の労働参加率は低下する。いっぽう、若年女子の労働参加率は徐々に高まっていく。そのため2000年ごろにおいては若年の男子と女子の就職率はほとんど変わらなくなった(60数%)。
 かつては死ぬまではたらかねばならなかった高齢男性は、社会保障制度が充実するにつれ、退職し、余生を楽しむことができるようになった。65歳〜74歳の男性の労働参加率は、1870年には90%近かったが、1940年には53%、1990年には24%に低下している。
 労働の質も変わった。機械や道具の導入によって、それまでのつらく退屈で危険な労働が軽減された。農場労働者や作業員の数も減ってくる。人力による運搬や掘削などの仕事はトラックや掘削機に取って代わられた。製造業の組立工も1970年以降はロボットによって代替されるようになる。
 いっぽうブルーカラーに代わって増えてくるのが、ホワイトカラーや管理・専門職である。不快な仕事に従事する人の割合は1870年の87.2%から2009年の21.6%へと段階的に低下した。1870年から1970年にかけては苛酷な業務が反復的な業務へと変わり、1970年以降は非定型的な認識業務が増えてくる、と著者はいう。
 労働時間も減った。1870年には労働時間は週6日、1日10時間が一般的だったが、1940年には週5日、1日8時間がふつうになった。労働時間が減少したのは、労働時間の短縮によって労働の質が上がり、かえって労働生産性が上昇すると考えられたからである。時短と労働生産性の上昇は、実質賃金の上昇と結びついていった。
 ここで、農業に目を転じてみよう。その労働環境は、土地の肥沃度や気象の安定性、さらには家畜や農機具による負担軽減にかかっている。1862年のホームステッド法は、開拓を促進したものの、土地の劣化をももたらした。開墾は重労働だった。
 機械化が促進される19世紀後半まで、農業の生産性は低かった。1830年以降は馬が使われるようになっていたが、その後、内燃エンジンが開発され、余裕のある農家はトラクターや小型コンバインを取り入れるようになる。干魃や害虫に強いトウモロコシのハイブリッド種も開発された。これらにより、農業の労働環境が改善されていく。
 ただし、制度的な問題もある。アメリカでは南部と北部では、農業の制度がことなる。南部では黒人奴隷解放後も、小作人制度が幅をきかせていた。土地を所有する地主は小作人を雇って、作物や綿花を育てさせ、その収穫の半分を受け取っていた。19世紀後半から20世紀はじめにかけて、南部の黒人小作人の生活はみじめなものだったという。
 1870年から1940年のあいだに、アメリカは農村国家から都市国家に移行する。そのかん、都市人口の割合は25%から57%に上昇した。都市人口の割合が増えたのは、移民が都市に住み着いただけではなく、農村から都市への移住が増えたからである。
 労働環境が厳しかったのは農村だけではない。鉱山、とりわけ炭鉱は危険と隣り合わせであり、肺病にかかる確率も高かった。食肉処理場の労働環境も苛酷だった。鉄鋼業では、長時間労働と苛酷な労働環境が労働者の生活をむしばんでいた。企業間の熾烈な競争が人件費の削減に輪をかけていた。高温の蒸気が充満するなかでの作業はまるで生き地獄のようだった。そこに機械化の波が押し寄せる。機械化によって、熟練した職人は排除され、画一的な未熟練労働者に置き換えられていった。
 1919年以降の生産性上昇は電動モーターによるところが大きかった。その副産物として、作業場が明るく清潔になり、労働環境が改善されていったことは否定できない。
 19世紀後半には、炭鉱や鉄鋼業だけでなく、どの産業でも労働災害による死傷事故が多かった。建設現場や縫製工場でも事情は変わらない。低賃金、長時間労働に加え、労働環境も苛酷だった。労働者にたいする保護や補償はないに等しかった。
 しかも不況の波が、多くの労働者の職を奪った。確実なものは何もなく、来年の家計どころか、来週の賃金もどうなるかわからなかった。失業に対する打撃が緩和されたのは、1938年にニューディール法が成立してからである。だが、それ以前の1910年から20年にかけて、労働者災害補償法が各州で成立していた。
 第2次世界大戦前、家庭外での女性の労働は、使用人や事務員、教師、看護婦、縫製の仕事などにかぎられ、働くのはたいてい未婚女性か未亡人だった。その賃金は安く、労働環境は苛酷だった。1920年代から1940年代にかけ、女性の労働参加率が上昇したのは、サービス部門での仕事が増えたことや、女性が家事労働から多少なりとも解放されたためである。女性は次第に「汚く骨の折れる職場ではなく、清潔で快適な現代的オフィスや販売店で働くようになり、週あたり労働時間も短縮された」。
 19世紀後半、労働者階級の女性は家庭内での重労働に追われていた。洗濯、料理、水くみ、掃除、パン焼き、針仕事、どれもが大仕事だった。上下水道が普及し、ガスが敷かれ、家電製品がそろったことで、女性の家事負担は軽減され、家事を楽しいと思う女性も増えてきた。「20世紀には、女性の家事負担の軽減と男性の市場労働の時間減少という二つの異なるトレンドが重なり、男性が子育て、住宅補修、庭仕事などの家庭内生産に積極的に参加できるようになった」と、著者は指摘する。
 全体的にみれば、世帯あたりの家庭内生産(労働)の時間は1900年の週78時間から2005年の週49時間に減っているという。子どもの数が平均4人から2人になったことは、家庭内の仕事量に影響していない。手間は変わらないからである。だが、家庭内の仕事は料理にしても何にしても、より基準の高いものになっている。料理も掃除も子どもの世話もより入念におこなわれるようになっているのだ。
 1900年ごろ、熟練工と非熟練工のあいだでは、2倍の賃金の開きがあった。高所得労働者はアメリカン・スタンダードを謳歌できたが、底辺労働者は極貧を生きていた。移民労働者は労働条件が少しでもよいと、簡単によそへ移った。フォードが基本給を上げたのは、労働者の離職率の高さを抑えるためである。
 しかし、いずれにせよ、1940年代までは実質賃金が労働生産性を上回るかたちで伸びた。実質賃金が労働生産性を下回るようになるのは1980年代以降である。これは徐々に経済格差が広がったことを示している。
 実質賃金の伸びがもっとも高かったのは1910年から1940年にかけてである。1920年代の移民制限法と、ニューディール法制による労働組合の奨励も、実質賃金の増加に寄与した。自動車工場などでは、技術変化が労働者に特定の反復作業をうながすいっぽう、企業は労働者の離職率を下げるために賃金を上げなければならなかった。
 1870年に児童労働はごく一般的で、14歳、15歳の少年は半数以上が働いていた。炭鉱でも製鉄所でも織物工場でも農家でも、少年たちのはたらく場所があった。その給料は成人男性の半分ほどで、児童労働を禁止する法律が施行されても、児童労働はなかなかなくならなかった。とくに低所得世帯は、義務教育が終わるとすぐに子どもをはたらかせていた。
 1870年時点で、高校に進学する子どもはごくわずかだった。1910年の高卒率は9%にすぎなかったが、1940年には51%、1970年には約77%に達する。第2次世界大戦は、大学進学率も増えていた。
 1870年から1940年にかけてほど、急速に生活水準が向上し、人びとを取り巻く環境が一変した時期はない、と著者は指摘する。商品世界の広がりはいうまでもなく、この時期、保険や消費者信用が果たした役割、さらに経済開発をうながした政府の役割はけっして無視できない、と著者は指摘する。
 消費者信用は19世紀後半から広く用いられていた。農家は雑貨店や行商人から必要なものをツケで購入し、次の収穫期に支払っていた。北部の農民のなかには、銀行で資金を借りて、土地を購入する者もいた。しかし、当時の金利は高く、農民はその支払いに追われた。
 地主から借り入れをしている南部の小作人の生活はより悲惨で、借金でがんじがらめになっていた。そのころ都市で、質屋が盛んだったのは、都市の雇用が不安定だったことと関係がある。
 割賦販売は1845年のピアノとオルガンが最初だったという。シンガー・ミシンは1850年からミシンの割賦販売をはじめる。富裕層から労働者階級にまでミシンが広がったのは割賦販売のおかげである。すでにサラ金のようなものもはじまっている。
 大型デパートや通信カタログ販売は、現金販売が原則だったが、競争が激しくなるにつれて、割賦販売も認められるようになった。著者によれば、割賦販売が盛んになるのは耐久消費財への需要が増える1920年代からだという。それによって、「労働者階級の大半が消費者信用を利用できる新しい世界が台頭した」。
 消費者金融は急速に拡大する。大恐慌は1929年後半の株式市場の崩壊によって生じるが、「家計が消費者信用に過度に依存し、負債比率を高めていたことも大きかった」。
 その消費者信用がとりわけ効果を発揮したのが自動車販売である。1924年には4台のうち3台がローンで購入されていたという。
 1920年代から消費者信用は利用しやすくなった。耐久消費財の価格が下落したところに、消費者信用の供与が拡大し、電気冷蔵庫や洗濯機など、新製品の購入が促されることになった。それにより「労働者階級は、信用販売のおかげで、一世代前には存在しなかった新製品を入手できるようになった」。
 アメリカでは1890年にすでに住宅ローンが生まれている。1920年代には住宅建設ブームが起き、信用状況が全般に緩和され、住宅金融は急増している。
 生命保険がいまのようなかたちになるのは、19世紀最後の30年だという。20世紀にはいると、生命保険は急速に普及する。それは比較的少額の支払いで、万一の場合に備える貯蓄と考えられていた。1905年の時点で生命保険会社の資産の対GDP比は10%を超え、1933年には37%と急上昇している。いずれにせよ、1940年ごろまで、生命保険は急速に増大し、皆保険に近いものとなっていく。
 火災保険は17世紀後半にイギリスで誕生するが、現代的なかたちになるのは19世紀からである。1906年のサンフランシスコ地震と火災による被害は、約半分程度が火災保険でカバーされた。
 強制自動車保険が導入されたのは1920年代である。自動車事故の死亡率は現在より20倍以上高かった。そのころから、事故によるけがや死亡、車両損害や医療費の支払い、その他に対応する自動車保険が次々と開発されていった。
 1870年から1940年にかけてアメリカ人の生活水準が上昇したのは、主に民間部門による発明と資本蓄積のおかげだが、そのかん政府は何もしなかったわけではない。「連邦政府をはじめ州政府など公的部門が、成長のプロセスを直接支援するとともに、行き過ぎた成長には歯止めをかけた」。
 たとえば、ホームステッド法、鉄道への土地の無償供与、1906年の純正食品医薬品法、特許局の設立、1920〜33年の禁酒法、さらに反トラスト法や一連のニューディール法制などをみても、政府は積極的に経済にかかわっている。その評価は分かれる(とりわけ禁酒法にたいする批判は強い)が、政府の介入は概して近代化を促進するとともに、プラスの外部効果をもたらした。
 製品規格の統一、食品衛生、医療、上下水道の整備、道路の整備、電化などで政府の果たした役割は大きい。著者が評価するのはとりわけ1933年から1940年にかけてのニューディール法制である。これにより預金者の預金保護や社会保障制度も確立された。雇用を創出し、失業を減らす対策がとられたのもニューディール政策の特徴だった。

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