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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(8) [商品世界論ノート]

 1940年から2014年にいたる商品世界の流れをみている。はかどらない読書だ。
 きょうはまずコンピュータの話。1960年以降、コンピュータの性能は猛烈な勢いで向上したが、コンピュータは経済成長にさほど寄与しているわけではない、と著者は論じている。
 コンピュータははたして何をもたらしたのだろう。ひとつは単調な定型作業の省力化である。電子タイプライター、銀行のATM、スーパーなどのバーコードスキャナーなどが初期の成果だった。
 1980年代以降からはパソコンが身近なものになった。ワープロや表計算ソフトは画期的だった。ゲームソフトも人気を博した。電子メールは便利な通信手段だった。電子商取引やウェブ検索もおこなえるようになり、音楽や映像の鑑賞も手軽にできるようになった。ニュースもパソコンでみられるようになる。フェイスタイムなどでの無料通信も可能になった。それは驚くべき進化のように思えた。
 1970年代前半までは、まだスーパーコンピュータの時代だったが、いまではノートパソコンがかつてのスーパーコンピュータの能力をはるかに凌駕している。半導体の集積密度は2年ごとに倍増するというムーアの法則(予想)は、これまでほぼ実現してきた。モニターやマウス、計算能力、パソコンの操作方法も急速に改善された。だが、2006年以降は、パソコンの進化も頭打ちになっているという。
 電子計算機が構想されたのは1940年代である。最初は軍事目的だった。だが、それはあまりに巨大で、莫大な電力を要した。戦後、アメリカン航空は増えつづける旅客の事務処理をする必要から、新たなシステムを開発した。生命保険会社も顧客データを管理するため、1950年代に初の商用コンピュータを導入する。銀行も小切手処理のためにマシーンを開発し、クレジットカード、ATMの導入へと進んだ。バーコードは1970年代半ばに利用できるようになっていたが、実際にこれがスーパーマーケットで活用されたのは1980年代になってからである
 ゼロックスは1959年にコピー機を開発し、1960年代から70年代にかけ、屈指の人気企業となった。タイプライターはふつうの家で使われていたが、1964年にIBMが最初に電子タイプライターを開発する。それからワープロ専用のミニコンピュータへと突きすすんでいった。
 パソコン革命がはじまる。1975年にビル・ゲイツらはマイクロソフト社を設立する。スティーブ・ウォズニアックは友人のスティーブ・ジョブズと協力してアップル・コンピュータを売りだした。1990年代からはインターネットによって、ハードウェアとソフトウェアがつながり、電子メール通信がはじまり、さらに数年後には一般向けのウェブブラウザが登場する。
 インターネットを開発したのは、もともと国防総省だった。だがインターネット革命をおこしたのは、1995年に発売されたウインドウズ95である。とはいえ、このころのインターネットはワープロと電子メール以外、ほとんど使い物にならなかった。
 しかし、それ以降、インターネットは急速に普及する。人びとはパソコンを通じて、航空券やホテル、レストランを予約したり、音楽を聴いたり、映像をみたり、情報や知識を得たり、友達と交流することもできるようになった。ソーシャルネットワーキングも広がっている。
 インターネットは流通業界に革命をもたらし、消費者に計り知れない恩恵を与えた。1994年に創業したAmazonは当初、書籍を販売していたが、いまではアメリカだけで2億3200万の商品を扱っているという。アマゾン革命のおかげで、大勢の顧客は幅広い選択肢を手に入れた。だが、そのおかげで多くの書店が閉店し、ショッピングモールの衰退をもたらすという現象も招いている。
 コンピュータとインターネットが圧倒的な恩恵をもたらしたのはたしかだ。そのいっぽうで、ネットいじめ、プライバシー侵害、オンラインゲームへの依存、子どもの集中力や読み書き能力の低下をもたらしていることもまちがいない。

 次に保健と医療の発展をみておこう。
 平均余命に関しては、1870年から1940年にかけては乳幼児の死亡率が低下した。これにたいし、1940年から2010年にかけては高齢者の死亡率が低下したのが特徴だ。平均余命が延びるペースは、とうぜんながら減速してきた。
 医療の重点は、感染症の撲滅から慢性疾患の治療へと移った。健康状態の改善ペースは緩慢になるいっぽう、医療費負担は増え、アメリカではとりわけ医療制度によってもたらされる格差が問題になっている。
 平均余命は1950年まで急速に延び、その後は緩慢になっている。20世紀の最大の死因は心臓病だったが、1960年代以降は死因に占める心臓病の割合は減り、その代わりがんが増えている。ほかに多いのは呼吸器疾患と脳血管疾患、アルツハイマー病である。最近はアルツハイマー病の割合が増えている。
 フレミングによってペニシリンが発見されたのは1928年だが、これが量産され、手軽に買えるようになったのは戦後になってからである。ほかの抗生物質も次々と現れ、量産によって値段も安くなった。結核はほぼ撲滅されるにいたった。
 戦時下の研究から、蘇生法や輸血技術、人工関節などの医療技術が生まれた。ポリオワクチンも開発された。
 心臓移植手術は1960年代後半にはじめて行われたものの、生存率は低かった。いまでも、まれにしか実施されない。それよりも心臓病のリスク要因となる高血圧やコレステロールの管理と治療が進むようになった。さらにペースメーカーの埋め込みや心臓カテーテル法、冠動脈バイパス手術が広く用いられるようになっている。
 20世紀にがんは増加の一途をたどったが、その対策は外科手術と放射線治療が中心で、戦後になって化学療法が加わった。1970年代にはCTスキャンによるがんの早期発見も可能になった。しかし、70年代以降、がん治療の技術そのものはさほど進歩していない。
 1980年代にはエイズの蔓延が問題になった。アメリカでは1995年に50万人以上がエイズに感染し、30万人が死亡している。だが、抗レトロウイルス療法が開発されるとともに、エイズの進行を抑えることが可能になった。
 1960年以降、たばこは健康に害をもたらすという意識が高まった。幅広い啓蒙活動も功を奏して、その後、たばこの消費量は減少の一途をたどる。とはいえ、アメリカではいまでも成人の喫煙率は18%近くで、高止まりしている。
 戦後はメンタルヘルスの面の取り組みも進んだ。大気汚染にたいする意識も高まった。
 事故と暴力が死因に占める割合も見逃せない。自動車事故を除く事故による死亡率は1940年以降減りはじめる。1940年には10万人あたり48人(自動車事故を含むと70人)という割合だったが、1990年には10万人あたり19人(同35人)に減った。しかし、2000年以降は逆に増えはじめ、2011年には30人(同40人)になっている。
 これは殺人をはじめとする重大犯罪の件数が減っていないことを意味している。なぜ、そうなっているかは、あらためて検討される。そのいっぽう、1970年代から、レイプやドメスティックバイオレンスなど女性や子どもにたいする暴力が強く非難されるようになったのも事実だという。
 医療の専門化は戦後の特徴である。医薬品も医師の処方によるものが増えた。医療分野ではCTやMRIなどの画像診断システムが開発されるなど重要なイノベーションがおきている。ゲノム技術は急速に進んでいる。再生療法のひとつとして幹細胞研究も進められている。だが、ゲノム技術や再生療法はまだ本格的な臨床段階にいたっていない。
 戦後、病院は急速な発展を遂げた。各地に病院が建設され、医師や設備も増強され、多くの患者が病院を訪れるようになった。だが、それとともに医療費も増大した。その効率性が見直されることはあまりなかった。地域住民の啓発や予防などの活動もあまりおこなわれなかった。「1970年代から1980年代にかけて、病院の姿勢は営利志向に傾いていった」
 現在の問題は慢性疾患をもつ高齢者が増大していることである。いまの70歳は検査や管理を受けつづけ、アルツハイマー病にかかる可能性と向き合っており、高齢者は入退院をくり返しながら余生をやりすごしているのが現実だという。
 1960年代には経口避妊薬が一般でも使用できるようになった。これにより女性が出産の時期と頻度を選ぶことができるようになり、女性の労働参加率が高まったと著者は述べている。
 たいていの先進国は国民皆医療保険を採用しているが、アメリカはこれを採用していない。医療保険に加入している人の割合は2010年時点で84%だが、アメリカの医療費はイタリアやイギリスの2倍以上、日本の1.8倍になっている。高コストと非効率が問題だ。
「他の先進国では、医療保険は雇用主の提供するものでなく、市民の権利のひとつととらえられ、国民皆保険の方向へ向かっていたが、アメリカはその流れに逆行していた」と、著者はいう。

 最後に1940年以降の職場と家庭の労働環境の変化をみておこう。このころ、すでに、農村社会から都市社会への移行は完了していた。
 1940年段階で、すでに工場の作業環境はかなり改善されている。職種としては事務職と販売職が増えていた。労働時間も週40時間となっている。家庭の労働環境も改善され、水道とガスが普及し、ほぼ半数近い家庭が電気冷蔵庫や洗濯機をもつようになっていた。
 ベビーブームのあいだ、女性は子育てに忙しかったが、1960年ごろから労働に続々と参入するようになる。
 製造業の就業者は1953年に労働力人口の30%に達したあと、1980年代にはいると急激に低下する。機械が労働に取って代わり、輸入品が押し寄せるようになったためである。2015年には製造業就業者の割合は労働力人口の10%まで低下している。安定した雇用が失われたことで、ブルーカラーの生活は苦しくなった。
 労働環境が改善されたことで、若年層は高校に行くのがふつうになった。1970年には高卒率は70%に達した。だが、それ以降は頭打ちになっている。貧困家庭出身者のなかには、高校を卒業できず、最低賃金レベルの単純労働を余儀なくされる者も多い。
 大学卒業者の割合は増えたが、その40%が大卒向けの仕事をみつけられないでいる。授業料が高騰するいっぽう、卒業してからも学資ローンに苦しむ若者も少なくない。
 1940年以降、高齢者の生活も一変した。年金制度により、年金の支給開始年齢になれば退職することも可能になった。とはいえ、いまでは「退職後の人生が長くなり、将来の社会保障費の財源をどう確保するかという頭の痛い問題が持ち上がっている」。
 1953年には農業労働者の割合が10%を切った。農作業を農業機械が代替するにつれて、農業就業者の割合はさらに減り、2000年以降はほぼ2%の水準となっている。
 労働者の雇用は、農業やブルーカラーからホワイトカラー中心に移行した。20世紀後半には中産階級の割合が大きくなった。製造業が衰退するものの、サービス業が成長したのだ。そうしたなかで製造業や鉱業でも安全性が向上する。空調設備の普及は労働環境を改善し、生産性を増大させた。
 1950年代から60年代にかけては実質賃金が大幅に上昇し、賃金格差が圧縮され、経済成長が黄金期を迎えた。しかし、1975年以降は、成長の鈍化とともに、所得格差が拡大し、所得階層の下半分が中産階級から脱落しはじめている。
 戦後の労働市場の変化で重要なのは女性の参入である。戦後当初は出生率が高かったため、女性は家事や子育てに忙しかった。しかし、女性が仕事を得ようとすると、当初はとてつもない女性差別の壁にぶつかった。
女性による本格的な労働市場参入がはじまるのは、1960年代半ばからである。1964年に44.5%に達した女性の労働参加率は1999年に76.8%となり、その後は緩やかに低下し、2014年には73.9%となっている。
 1970年代から80年代にかけ、女性の学歴も高くなった。女性はまもなくホワイトカラーの専門職、医師、弁護士、管理職のポストへの道をも歩み始める。1970年代以降は、男女同一賃金に向けて、かなりの前進がみられるようになった。それでもいまでも賃金格差は残っている。
 25歳−29歳でみる大卒者の割合は1940年には5%だったが、1966年には10%、1990年には20%、2013年には32%に上昇した。大卒者の数が増えるなかで、女性の比率が上昇し、1978年には50%を超えた。
 しかし、いまでは卒業してから学生ローンの返済に苦しむ若者も増えている。大学を卒業しても、タクシー運転手やスターバックスのバリスタなどの単純労働にしかつけない人も増えている。それでも、大卒者は労働市場で有利な位置にあり、失業することも少ない。しかし、過去17年をみると学位をもたない大卒者の実質所得水準はむしろ下がっている。
 全人口に占める退職年齢層の割合は、1940年の7.1%から2010年の13.1%へと確実に増えている。1935年にはニューディール政策で社会保障制度が導入され、失業保険や年金が保障されるようになった。アメリカでは1959年に高齢者の貧困率は35%だったが、2003年には10%に減っている。だが、今後はふたたび貧困率が増大していくのではないか。
 年金の黄金時代は1970年代だった。余命が延び、退職者の所得が増えたことから、高齢者向けのあらたな産業やコミュニティも生まれた。しかし、現在は老齢人口が増え続けるなか、退職後の生活の持続可能性への懸念が高まっている。中産階級労働者の49%が退職後に貧困線以下、もしくは貧困線以下で生活するようになるという最近のデータもでている。預金口座にわずかな資金しか残っていない多くの労働者は、65歳を過ぎても働きつづけなければならない状況にある。
 だんだんしんどくなってきたので、きょうはこのあたりにしておきましょう。

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