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竹田青嗣『欲望論』を読む(2) [思想・哲学]

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 2年前、この本を衝動的に買ってしまい、序文だけ読んで放り出してしまった。悪い癖で、本屋に行くと、ついおもしろそうだと思い、買うのだが、買っただけで満足し、けっきょく読まないという本が多い。とくに哲学書がそうだ。買った手前、ぱらぱらとめくってみるのだが、前提となる教養がないため、読みはじめてもさっぱりわからず、すぐに投げだしてしまう。その繰り返し。
 本の整理を迫られている。あまり先がなさそうだ。そんなわけで、年寄りの冷や水とからかわれるのを承知で、無謀にもこの本を読んでみることにした。
 参考までに、前回の序文だけのまとめを挙げておく。「気の向くままに、少しずつ読んでいきたい」と書いたのに、いったいどうしたことだろう。困ったものだと思う。

https://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2017-12-09

 今回は第1部「存在と認識」の第1章「哲学の問い」をまとめてみる。
 人が世界をえがこうとするのは言葉をもつからである。最初の世界は宗教的世界としてあらわれる。死の畏怖が神々の世界をつくりだす。
 神々の物語は、人のいまを説明する。それは確執と戦い、秩序と混沌、善と悪などからなる物語だ。神々によって、人間は創成されたと信じられる。
 死の畏怖と不安から「普遍闘争」、すなわち「生きるために殺す」闘争がはじまる。そして、「共同防衛的集合社会」として国家が誕生する。その国家はもちろん戦争の主体でもある。そのさい、宗教は少なくとも共同体内では「暴力原理に対する根源的な抵抗」を示す平和原理となる。
 哲学が登場するのは紀元前6世紀前後だ。それは最初、宗教的説話を受け継ぐかたちで誕生し、世界の始原的原理をさぐる言語ゲームへと発展していく。
 インドのウパニシャッド哲学は、「有」から世界が生成し、広がっていくありさまを提示する。中国の老荘思想はわずかに世界の始原をえがくものの、儒教思想にはそうした哲学的思考はみられない。
 インドにおける哲学体系の発展と世界原理の把握。そこでは精神と物質の区別、自我と知覚、思考、理性の関連が示される。苦と輪廻、解脱の思想が、その根本だ。
 仏教はさらにその哲学を精緻化する。その過程で、一元論と多元論、唯物論と観念論などといった、哲学ならではのさまざまな対立図式が生まれる。
「空」の思想も誕生するが、まだ宗教的色彩が強く、本格的な「認識の謎」や「言語の謎」にはいたらない。もっぱら解脱をめざす便法にとどまる。相手の論の矛盾をつく帰謬論があらたな思索の方法を示したが、それは哲学の問いには発展しない。
 ギリシャ哲学において、はじめて哲学の問いがあらわれる。すなわち、存在、認識、言語にたいする問いである。著者によれば、ギリシャで哲学が誕生したのは、そこには少なからず自由な社会が存在したからだという。言論の自由なくして、思索の発展もありえない。
 イオニアの哲学者たちは、存在原理の探究から出発した。火と土と水。その発生と運動、展開、消滅、そして無限なるもの。ヘーゲルとハイデガーは、ここに哲学のはじまりをみる。しかし、世界認識の普遍性が問題として立ちあがるまでには、プラトンとアリストテレスの登場を待たねばならない。
 ギリシャ的思考の特徴は宗教から離れた思考様式、すなわち自由な思考の展開にある。それは、世間の先入見と臆断を解除しつつ、理性がとらえうる最高の普遍性へと近づいていく。「思考の思考」が繰り広げられる。
 パルメニデス。存在するものだけが存在する。人は存在するものしか思索できない。無から存在、存在から無への転移はない。
 ヘラクレイトス。万物は永遠であり、不断の流れと運動のうちにある。世界は生成変化している。生成を生みだすのは、対立と調和、統一の動きである。ここには感覚的思考にとどまらない抽象的(超感覚的)思考、認識における時間性の契機が登場している。
 認識の正しさ、言語の正しさは何によって保証されるのか。存在論、認識論、言語論の困難な問いから懐疑論が生まれる。
 ギリシャにおける懐疑論の代表者はゼノンとゴルギアスである。ゼノンの有名なアキレスと亀のパラドクス。あるいは飛んでいる矢は止まっているというパラドクス。これらのパラドクスは論理学や数学では解決できない。これを解くには本質的な思考が必要となる。ゼノンはパラドクスをしめすことによって、哲学に相対主義的論理(帰謬論)を持ちこんだ。
 ゴルギアスのテーゼ。何ものも存在するとはいえない。たとえ存在があるとしても、それを認識することは不可能である。またその認識が可能だとしても、それを言葉で表現するのは不可能である。
「存在と認識と言語の不可能性によって、ゴルギアスは、ギリシャ哲学における最も自覚的かつ本格的な相対主義哲学、懐疑論哲学をうち立てた」と、著者はいう。
 懐疑論は形而上的独断論を批判するソフィストたちの武器となった。ソクラテス、プラトン、アリストテレスは普遍的認識論をもちだして、これに対抗することになる。
 クセノフォンによれば、ソクラテスは世界とは何か、永遠とは何かといった問題ではなく、美とは何か、勇気とは何か、国家とは何かというような、現実生活に結びつく問題について、人に問いつづけた。生きる知恵を与える人だったという。
 これにたいし、プラトンのえがくソクラテスは、対話弁証法を駆使しながら、新しい哲学的地平をひらいた思索者として登場する。ソクラテスは、人びとが自明とする認識に疑いをいだかせる。だが、ソフィストとちがい、真理についての確信をいだいている。
 プラトンはソクラテスから認識の普遍性に到達するための方法を受け取る。それは「臆見(ドクサ)」から「真知(エピステーメー)」を導きだす方法だった。それによってプラトンは「イデア」説に行きつく。
 プラトンの弟子、アリストテレスは、その代表作『形而上学』で、それまでの知の総体を総括することによって認識の普遍性にいたろうとした。だが、「存在」を規定しようとするその記述は網羅的で、混乱している、と著者はいう。
 師プラトンのイデア説を批判するのが、アリストテレスの存在論の特徴である。あらゆる存在の「本体」としてのイデアなるものは、言葉のあそびであり、そんなものはない。
 ものには原因(質量因、形相因、動因、目的因)があり、変化(生成と消滅、性質の変化、増大と減少、移動)がある。事物存在の様態は可能態と現実態からなる。人間の存在は、構成要素(精神と質量)、外的原因(父親)、内的原因(太陽)からできている。「実体」は物と宇宙、神である。
 存在の総分類、原因から神にいたる考察がアリストテレスの思考の特徴だ。感覚だけでは事物の生成変化をとらえることはできない。それをおこなうには時間的契機を導入し、根本原因にいたり、もう一度事物の総体を見つめなおさなければならない。そこで発見されるのが「力」という概念だ。そして、一切の存在を生成する根本原因は神だという結論に達する。
 ここで、もう一度プラトンのイデア説について、考えなおしてみよう、と著者はいう。

〈プラトンのイデア論は、長く、感覚的な世界の上位に超感覚的な世界をおく本質実在論、あるいは実念論であるという通念に支配されてきた。しかしプラトンのイデア論の最も重要な核心は「存在」の思考に対する「価値」の思考の優位という点にある。〉

 プラトンは思惑や臆見に左右されやすい人間から出発する。その人間が「善のイデア」という価値に導かれて、「真知(エピステーメー)」、すなわち普遍の認識にいたるにはどうすればよいか。プラトンはそれをさぐろうとした、というのが著者のとらえ方である。
 そして、ある意味で、著者もこのプラトンの思いを共有している。著者はニーチェとフッサールに依拠しながら、懐疑論と本体観念を根本的に解体し、間主観的確信にもとづく普遍的認識への道をさぐろうとしているからである。
 快刀乱麻、新たな哲学が切り開かれようとしているのではないか。まだ、とば口だが、そんな予感がする。

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