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竹田青嗣『欲望論』を読む(4) [思想・哲学]

 伝統的「本体論」の解体は、ニーチェによってはじめの扉が開かれ、フッサールによってその完成にいたる、と著者はいう。だとすれば、前回のニーチェにつづき、フッサールの仕事が問われねばならない。
 フッサール現象学が批判するのは、ひとつに伝統的な主観−客観構図に立つ哲学的独断論であり、ひとつに現代的な相対主義、懐疑主義である。フッサールはむずかしい。だから、さまざまな誤解がある。しかし、重要なのは、現象学の根本動機とその本質的方法だ、と著者はいう。
 現象学の方法とは何か。それは「内在的意識」が「世界確信」の信憑構造をいかにつくりあげていくかという「確信成立の条件」を解明していくことだという。
 認識問題における主客一致構図には難問があった。客観認識はありえない。あらゆる認識は相対的なものである。もし、それがありうるとすれば、純粋数学、純粋自然科学においてでしかない。人間社会においては、客観的認識はありえず、「力の論理」だけが正しいものとされる。しかし、力の論理だけがまかりとおり、正義や不正義に普遍的基準がないとするなら、哲学の営みも無意味なものになってしまう。
 フッサールは普遍認識はないという考え方を批判し、主客の構図とは異なる新たな構図を提示する。主客の一致はありえない。にもかかわらず、普遍認識はなぜ成立しうるのか。そのためにとられる方法が、いわゆる「現象学的還元」である。
 フッサールはいう。絶対的に実在する世界の全体といった観念は背理である。主客の一致を検証することはできない。しかし、認識は「確信」となりうる。そのためには「本体」、すなわち世界の客観存在を想定することをやめ、世界はただ私によって生きられているものとみなすところから出発しなければならない(すなわち現象学的還元)という。そのことによって、「私の意識」は「超越論的構成」にもとづく「世界確信」、すなわち普遍認識へといたりうるのだ。
 世界確信には、個人的な体験にもとづく個的確信、共同的確信からなる間主観的確信、それに純粋数学的、純粋自然科学的な普遍的確信がある。
 ここでは「本体」としての客観存在という想定はしりぞけられる。さらに、独断的形而上学と懐疑論(相対主義)も否定される。
 そのうえで、フッサールの「現象学的還元」がめざすのは、認識における間主観的確信の本質構造にほかならない、と著者はいう。
 フッサール自身はこう書いている。

〈世界は、目ざめつつ、つねに何らかのしかたで実践的な関心をいだいている主体としてのわれわれにとって、たまたまあるときに与えられるというものではなく、あらゆる現実的および可能的実践の普遍野として、地平として、眼前に与えられている。生とは、たえず世界確信の中に生きるということなのである。〉

 フッサールは、現前する意識から出発する。これこそが世界認識の源泉である。これにたいし、フッサールを引き継いだハイデガーは、意識の背後に実存的生という存在論的基底をとらえる。そこから、フッサール現象学とハイデガー存在論とのちがいがでてくる。
 ハイデガーにとって、現象は存在者の存在を隠蔽するものであり、現象学は存在の真理を取りだす方法と考えられた。対象への関心からはじまって、人間存在へと戻り、人間存在および人間存在を可能にしている真理を、取りだすこと。これがハイデガーの発想だ。
 ニーチェ、フッサール、ハイデガーの相関性。ニーチェは「力相関性」の構図を示し、フッサールはこれを「意識相関性」の構図へと推し進め、ハイデガーはこの構図を「気遣い〔関心〕相関構図」へと変奏することで実存論へと転換した。しかし、三者の関係は錯綜し、それどころか対立したものとなる。それを解きほぐし、再構築すること。それが著者の課題となる。
 しかし、まずはフッサールをハイデガー流解釈から切り離して、より深く理解することである。
 フッサールは現出する意識の背後に回ることを禁止する。意識はたしかに身体や歴史性、習慣性、無意識、言語によって先構成されたものである。しかし、フッサールは「けっして現前意識の背後に遡行してはならない」という。根拠の根拠を問う思考が客観主義的独断論におちいるのは、「本体」論的思考がはいりこむからだ。
 意識が先構成されているのなら、われわれは「意識」を絶対的な出発点とするわけにはいかない。だが、はたしてそうだろうか。われわれは現前意識から出発することで、むしろその背後にあるとされる感情や無意識、言語、美、文化といった問題を探るべきだ、と著者はいう。
 現象学は対象存在それ自体を問うわけではない。対象の存在様態についての確信(信憑)が間主観的に成立する条件を問う。それは本体論(形而上学)とも懐疑主義とも異なる思考方法である。
あくまでも普遍的認識をめざす哲学は、次のような意義をもつ、と著者はいう。

〈問題の核心は一つである。人間社会のあらゆる営みの底には「力の論理」がその強大な現実力を潜めて居座っている。人間の「言葉の営み」の中心的な意義は、この赤裸々な「力の原理」(暴力原理)をいかに抑制するかという点にある。〉

 懐疑主義もまた否定の論理である。だが、懐疑主義には根本的な問題がある。

〈あらゆる社会思想は、相対主義=懐疑論的な言説戦略をとることで、現実主義の「力の論理」に対する本質的な対抗力を喪失する。この思想は、やがて行き場を失って形而上学的倫理学へ逃げ込み、そのことでかろうじて現実世界に対する反抗(反感)の思想に留まろうとする。……どれほど過激な思想を口にしていてもそれは思想の本質として「羊のロマン主義」への陥落以外のものではない。〉

 これがポストモダン思想にたいする著者の懸念とみてよい。
 18世紀以降のヨーロッパ哲学の流れについての著者のまとめもみておこう。

〈18世紀ヨーロッパの啓蒙思想は超越神論を理神論−汎神論へと置き換え、ドイツ観念論哲学はこれを完成させた。このヨーロッパ汎神論を決定的に終焉させた第一の原因は、哲学的な潮流であるよりむしろ19世紀の自然科学(とくにダーウィン)の隆盛である。しかしこれに続く実証主義科学は「事実学」にすぎず、哲学の伝統的主題は危機に陥る。ヨーロッパ哲学は、ニーチェとフッサールの仕事を横目にして通り過ぎつつ、第一に、ヴィンデルバントが示唆した「神」なしの本体論的探求が新カント派以後の流れになり、第二に、科学を標榜するマルクス主義的世界観が台頭し、第三に、反形而上学を旗印とする論理実証主義と論理哲学が現われ、最後に相対主義を論理的武器とする分析哲学(言語哲学)とポストモダン思想が登場する。そしてこの最後の流れは、ヨーロッパの形而上学本体論を完全に終焉させ、これに対抗する哲学的相対主義の最終的勝利を告げる(=大きな物語は終わった)ような様相を呈する。〉

 これが近代哲学史の流れである。
 このあと第2部の「世界と欲望」がつづく。
 よく理解できない部分も多いが、概略だけでもつかみたいものだ。

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