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ケネス・ルオフ『天皇と日本人』をめぐって [本]

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(2019年9月20日、早稲田奉仕園セミナーハウスにて)

 本日はお招きいただき、ありがとうございます。人前で話すのが苦手なので、うまくしゃべる自信がありません。たいした話もできないと思いますが、ご容赦いただければ幸いです。
 きょうは、ことし1月に発売されたケネス・ルオフ先生の『天皇と日本人』についてお話しさせていただきます。私は皇室評論家ではありませんので、皇室の内情についてはよく知りません。小室さんと眞子さまがどうなるかといった問題はわかりません。あくまでも訳者としてのこの本の紹介にとどまります。
 ルオフ先生は1966年生まれで、ことし53歳。歴史学者としては、まだ若い先生といえるでしょう。ハーバード大学を卒業し、コロンビア大学で博士号を取得され、現在アメリカ西海岸のオレゴン州にあるポートランド州立大学で、主として日本近現代史を教えておられます。同じ大学の日本研究センターの所長も兼任されています。
 日本には年に3、4回いらっしゃいます。その都度、東大や学習院、北大、京都の日文研などで講演をされています。5月の代替わりのときも日本にいらっしゃって、NHKワールドに出演されていました。10月の即位式のときも、日本に来られて、同じくNHKワールドに出演されることになっています。また10月には小学館から小林よしのりさんとのユニークな対談集がでる予定になっています。日本だけではなく、韓国や中国、ブータン、タイなどにもいらっしゃっていますから、まさに国際的に活躍されているといってよいでしょう。
 これまで日本語に訳された本としては、大佛次郎論壇賞を受賞した2003年の『国民の天皇』、2010年に出版された『紀元二千六百年』、それからことし出版された『天皇と日本人』があり、いずれも私が翻訳を担当しました。
 きょうは『天皇と日本人』を中心にお話しさせていただきます。この本には「ハーバード大学講義」という副題がついていますが、去年9月にハーバード大学のライシャワー日本研究所でおこなわれた講義がもとになっています。講義といっても一般学生が対象ではありません。どちらかというと日本研究者の集まる会合での発表で、発表のあとには学者どうしの活発な討議が交わされました。こうした発表会は毎年開かれているようですが、これをみると、アメリカの日本研究はかなりのレベルを保っていることがわかります。
 ところで天皇、あるいは天皇制の問題はだいじなのですが、いまでもとても話しにくいテーマでもあります。天皇について語ろうとすると、戦前、戦中なら特高に引っぱられたにちがいありません。最近テレビで「やすらぎの刻」という倉本聰のドラマを見ているのですが、ここでも思想を取り締まる特高や憲兵がよくでてきます。
 いまはそんな時代でないことはわかっているのですが、それでも天皇について語るのは、なんとなくはばかられる雰囲気が残っています。そこで、新聞でもテレビのワイドショーでも、日本の皇室はいかにすばらしいかということが、どちらかというと強調されて、皇室を客観的にどうとらえたらいいのかという視点はおろそかになってしまいがちです。そのいっぽうで、皇室のあり方を批判する人のなかには、左派なら素朴な皇室否定論、あるいは右派なら戦後民主主義批判に走る人がいて、ここでも日本の皇室にたいする冷静な評価は失われがちです。
 本書でも述べられておりますように、ルオフ先生は、利害関係のないアウトサイダーの見方が、時に役に立つことがあるとおっしゃっています。それが、日本人にとってはタブーになりがちなテーマを客観的に照らし出して、いま皇室がかかえているほんとうの問題を提示することにつながっていくのだと思います。
 アウトサイダーの視点とは何でしょうか。それは日本史のたこつぼにはいることなく、国際的な観点からものごとをみるということにつながっています。世界にはさまざまな王室があります。代表的なのはイギリスの王室ですが、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、スペインなどにも王室があります。中東ではサウジアラビアが有名ですが、モロッコ、ヨルダン、オマーン、クウェートなどにも国王がいます。アジアではタイをはじめ、ブータンやカンボジア、マレーシアなどに王室があります。そうした世界の王室のなかで、日本の皇室をどうみていけばいいのか。それが国際的視野で日本の皇室をとらえていくというルオフ先生の態度につながっていきます。
 現在、国連加盟国の数は193カ国で、日本が承認している国の数は196カ国です。たとえばバチカンは国連に加盟していませんし、北朝鮮や台湾、パレスチナを日本は国家として承認していません。国の数を数えるのはじつはむずかしいのですが、現在、世界にある国が約200だとすれば、そのなかで王国はどれくらいあるのでしょうか。現在、王室がある国は26カ国といわれます。近代以前は、ほとんどすべての国が王国でしたから、歴史的にみれば、立憲君主国を含む王国の割合は減りつつあることがわかります。
 王制、ないし君主制が廃止されたのはフランス革命以降です。革命や戦争での敗北が、君主制の廃止をもたらす大きなきっかけとなりました。そのような国としては、ざっと思い浮かべてみても、フランスを筆頭に、ロシア、イタリア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国、韓国、中国などの名前がでてきます。最近ではイラン、ネパールで君主制が廃止されました。逆にカンボジアとスペインではいったん廃止された王室が復活しています。
 世界的にみれば、王国ないし立憲君主国は相対的に少なくなっているとみてよいでしょう。日本ではいま皇室を否定する人はあまりいません。それでも1900年と2000年を比べると、世界じゅうで王室のあり方は大きく変化しました。そのいちばんの変化は、君主が以前の絶対的で神聖な政治主体ではなく、ほとんどの国で象徴的な存在へと変化したことだと思われます。したがって、日本国憲法だけが特殊ではないということは認識しておいてもいいのではないでしょうか。
 しかし、共和制が民主的かというと、かならずしもそうとはかぎりません。昔のソ連や現在の中国、北朝鮮をみれば、そのことがわかります。独裁的な共和制もありうるわけです。また民主主義が平和主義と同じともいえないわけです。民主制の古代アテネは軍事中心の都市国家でした。現在のアメリカも民主主義の国ですが、軍事的な国家だといってまちがいないでしょう。ですから、いま日本人が民主主義は平和主義だと思いこんでいるのは、まちがいです。そのことも、ルオフ先生はどこかで指摘しておられます。
 君主国もかならず独裁的になるわけではありません。君主をいただく国であっても民主的で、しかも平和主義的であることも、じゅうぶんにありえます。それは独特の国家のかたちですが、その場合、君主は憲法ないし慣例にしたがって、かならず象徴的存在と位置づけられています。
 ルオフ先生が天皇の象徴性をどのようにとらえられているかについては、のちほどお話しさせていただきますが、その前に先生が日本の天皇をどのようにとらえているかを、ざっとお話ししておきましょう。
これは『国民の天皇』の第1章に書かれていることですが、日本の天皇、少なくとも天皇制は近代の産物だ、とルオフ先生は指摘されています。言い換えれば、天皇制は明治になってから生まれたというわけです。
 260年つづいた徳川時代においては、天皇はあってなきがごとき存在でした。私たちは万世一系ということで、神武天皇から現在の天皇にいたる126代の系譜をたどったりするわけですが、天皇という称号が用いられるようになったのは、7世紀の第40代にあたる天武天皇のときです。それ以前は天皇という称号はありませんでした。
 さらにいいますと、10世紀の第62代村上天皇以来、19世紀の第119代光格天皇にいたるまで、約800年にわたって、じつは天皇という称号は途絶えてしまいます。亡くなったあとつけられたのはだいたいが院号で、たとえば後鳥羽天皇ではなく、後鳥羽院、後醍醐天皇ではなく後醍醐院、桃園天皇ではなく桃園院などと呼ばれていたわけです。
 江戸後期になって、天皇称号の復活のきっかけをつくったのは光格天皇です。光格天皇のとき、800年ぶりに天皇という称号が復活するわけです。ちなみに天皇の即位式と同時におこなわれる大嘗祭も江戸中期まで200年間途絶えていました。その後も、幕府は新天皇の即位にあたって、大嘗祭の挙行を認めないことがありました。たとえば新井白石の時代です。
 ちょっと話がすべりましたが、いずれにせよ、ルオフ先生が天皇らしい天皇をむしろ近代の産物ととらえていることはたしかです。とはいえ、天皇には伝統という側面もあります。ですから、天皇とは近代になってつくりなおされた伝統とみるのが、より正確かもしれません。
 そこで明治憲法についてです。明治22年、すなわち1899年2月11日の紀元節に発布されたこの大日本帝国憲法の第1章第1条には「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と書かれています。ちなみに紀元節はこの日にはじめて施行されました。それがいまは「建国記念の日」という祝日になるわけですね。なぜ、この日が建国記念の日なのか、日本では知らない人がほとんどではないでしょうか。
 それはともかく、明治憲法には、日本という国をつくったのは天皇家であり、「万世一系」でつづいてきた天皇家が日本を統治するのだという考え方が示されています。
 この憲法によれば、天皇は、法律の裁可と執行、議会の召集と解散、議会閉会時の緊急勅令の公布、官僚の任命、陸海軍の統帥権、開戦と講和の権利、爵位や勲章の授与にたいする権限などをもっていました。
 しかし、実際は天皇がひとりでこれを決定したわけではありません。立法に関しては帝国議会の協賛、行政に関しては内閣の各国務大臣による輔弼、司法権に関しても裁判所への付託によって、日本の統治をおこなうことになっていたのです。
 問題は軍にたいする天皇の統帥権でした。これを根拠にして陸海軍は昭和にはいってから次第に暴走をはじめます。
 しかし、表向きの明治憲法には裏の顔がありました。すなわち「元老」の存在です。
 明治体制においては、実際には明治維新の功労者である「元老」が政治をコントロールしていました。「元老」は首相を指名するだけではなく、軍ににらみをきかす存在でした。ですから明治寡頭制ともいわれます。たとえば、元老としては、伊藤博文や山県有朋、黒田清隆、松方正義、そして西園寺公望といった人がいました。
 ルオフ先生もはっきりと「大久保や伊藤をはじめとする明治寡頭政府の指導者たちは、自分たちが目指す国家統一の象徴として天皇を利用した」と書いています。
 時代の変遷とともに、この「元老」が次第にいなくなったあと、日本の政治はだれが主導すべきかという問題が出てくるのはとうぜんでした。議会だというのが美濃部達吉の答えであり、これにたいして軍部だというのが別の答えでした。そのさい、軍部は国体明徴運動を繰り広げ、天皇の統帥権を絶対化していきます。
 そして、先ほど、明治体制の裏の顔として「元老」、すなわち維新功労者の存在を挙げましたが、じつは明治体制にはもうひとつ裏のルールが存在しました。それが天皇を「なまの政治」にかかわらせてはいけないというルールです。
 明治時代に実際の政治を担ったのは、元老によって指名された内閣でした。ですから、明治憲法では神聖にして侵すべからずとされた天皇、すなわち国家の元首としての天皇にあらゆる大権が集中しているようにみえますが、実際の天皇はあくまでも「天の声」、言い換えれば象徴的な存在として位置づけられていたことになります。
 明治憲法とことなり、戦後の新憲法では、天皇は第1章第1条でこう定められています。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
 つまり、天皇は統治権をもつ神聖にして侵すべからずの国家元首ではなく、はっきり象徴と位置づけられるようになったわけです。すなわち象徴天皇です。
 そして、天皇は国政に対する大権をもたず、「憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とされたわけです。しかも、その国事行為は内閣の助言と承認にもとづくものでなければなりません。
 総理大臣を任命したり、法律を公布したり、国会を召集したり、衆議院を解散したり、特赦をおこなったり、外国の大使を接受したりするのも、天皇が勝手にやれるわけではありません。それはいわば儀式的、あるいは儀礼的な行為ということになります。
 ほかに天皇には象徴としての公的行為が認められています。国民的行事に臨席したり、全国戦没者追悼集会に参加したり、外国を訪問したり、海外の賓客をもてなしたり、園遊会を主催したりする行為です。
 大相撲を見たり、コンサートを鑑賞したり、宮中祭祀をおこなったりするのは私的行為です。
こうして、国政にたいする権限をもたない象徴天皇は、さまざまな国事行為、公的行為、私的行為をおこなっていることになります。
 そして、何よりも天皇の象徴性が際立つのが、儀式や儀礼、祭祀以外の公的行為においてであるという点は指摘しておいていいと思います。
 昭和天皇については、いまでも戦争責任をめぐる論議があります。昭和天皇は最晩年まで、戦争責任の問題で悩んでいたと伝えられます。
 君主制が崩壊するのは、たいていが革命または敗戦によってです。フランスでも、ロシアでも、ドイツでも、イタリアでもそうでした。日本は敗戦したにもかかわらず、天皇制が存続したというのは、奇跡に近いことです。
 マッカーサーの強い意向があったと伝えられます。国家が君主や皇帝をもつのは、けっきょくのところ、戦争を遂行するためです。したがって、君主や皇帝は戦争の最高指揮官となるわけです。明治憲法でもヨーロッパの憲法にならって、「天皇は陸海軍を統帥す」と定められています。
 したがって、戦争に敗れた王朝は滅びるというのが、これまでの世界史のルールでした。近代においては、ふつう敗戦は君主制から共和制への移行をもたらします。ところが、日本ではそうなりませんでした。これはマッカーサーの意向だけでは説明できないことではないでしょうか。
 それは、おそらく明治以来、いやそれ以前から、天皇が「なまの政治」にかかわらない象徴にほかならなかったことと関係しています。明治維新というクーデターが成功したのは、鳥羽伏見の戦いで「錦の御旗」が立ったからです。明治天皇が直接、維新の戦争を遂行したわけではありません。
 日清戦争のとき、明治天皇が「これは朕の戦争にあらず、大臣の戦争なり」といって、戦争に強く反対したことはよく知られています。また日露開戦のときも、「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という歌を詠んだことも有名です。
 あきらかに戦争への不安をあらわした歌です。昭和天皇は日米開戦前の御前会議で、あらためてこの歌を朗読し、何とか戦争が回避できないのかとの思いを示しました。にもかかわらず、昭和の軍部は昭和天皇による明治天皇御製の引用を戦争への合意とねじ曲げて解釈し、無謀な戦争に突入したのでした。ここでも、天皇の意向にかかわらず「錦の御旗」が立てられたのでした。
 こうしてみると、明治憲法に定められた天皇の役割は、あくまでも建前であって、実際は天皇は「錦の御旗」、すなわち象徴だったことがわかります。
 戦後、GHQが主導して新憲法を定め、天皇を「象徴」としたときも、天皇主義者の右派がさして反対しなかったのは、明治になって日本の天皇制が確立したときに、天皇はすでに生の政治にかかわらない「象徴」と考えられていたためです。そして、天皇は「象徴」であったからこそ、敗戦にもかかわらず、戦後も存続することができたといえるのではないでしょうか。
 にもかかわらず、象徴としての昭和天皇には戦争の影がまとわりついていました。「錦の御旗」の前で、国内でも海外でも、あまりにも多くの人が犠牲になってきたのです。ルオフ先生も、昭和天皇には戦争責任がある、とはっきり書いています。そこで、戦争の影を払拭し、戦後を終わらせる仕事は平成の時代にゆだねられることになります。
 平成の時代に明仁天皇はどのような役割を果たされたのでしょう。ルオフ先生は「国民の天皇」として明仁天皇を高く評価されています。
 天皇の象徴性はとりわけ公的行為によって、それぞれの特徴や個性がかたちづくられます。
 平成の時代は何といっても美智子皇后の役割が大きく、平成の皇室はカップルとしての活動が際立ちます。ルオフ先生が指摘するように、おふたりは、「社会福祉の皇室カップル」でした。それから戦後の自由民主主義体制の支持者でした。戦争の傷跡をいやすことに努めてこられました。
 平成は災害の多い時代でしたが、ご夫妻は多くの被災地を訪れ、被災者に間近で声をかけてこられました。80歳をすぎてもおふたりで全国各地を回り、海外の慰霊にも行かれ、日本であんなに仕事をしている年寄りはいないと言われたくらい、「行動の人」でもありました。こうした公的行為によって、平成時代の皇室の象徴性が刻まれてきたわけです。
 ところで、明治、大正、昭和、平成、そして令和と時は流れましたが、日本人は西暦を利用しながら、不思議なことに元号で時代を回顧する習慣をもっているようです。最近では、平成史とか、平成時代をふり返るといった本が書店にあふれています。
 こうした元号も、昔からあるようで、じつは近代になって改変されたものであることは知っておいたほうがいいかもしれません。それまでの年号は吉凶や天変地異によって、その都度、変えられてきました。天皇の在位とは関係ありません。ですから、光格天皇や孝明天皇はいても、光格とか孝明とかの年号はないのです。その代わり、天明とか寛政、安永とか万延といった年号が用いられました。
 一世一元制が採用されたのは明治になってからです。それによって元号は天皇と結びつき、明治は明治天皇の時代、大正は大正天皇の時代、昭和は昭和天皇の時代、平成は平成の天皇の時代となったわけです。
 平成時代の終わり方の特徴は、明仁天皇が退位されて、時代が平成から令和に移ったことです。天皇の仕事は激務ですから、80歳以上の高齢になって譲位されたのは、とうぜんのことで、むしろ遅すぎたといえるくらいです。
 とはいえ、天皇の譲位は、光格天皇が仁孝天皇に譲位して上皇になって以来、二百年ぶりのことでした。明仁天皇は上皇として、いまも元気で活躍されています。ですから、不思議なことにわたしなどは、まだ平成の時代がつづいているような気がしてなりません。
 最近思うのは、奥さんを亡くしたあと、文芸評論家の江藤淳が平成11年、1999年に自殺したことです。江藤淳は昭和に殉ずるという意識の強い人でした。あるいは、昭和45年、1970年に市ヶ谷で三島由起夫が戦後を全面否定して割腹自殺したことを思いだします。芥川龍之介は昭和2年に漠然たる不安を感じて、自殺しています。夏目漱石は、明治天皇大喪に際して自死した乃木将軍を意識しながら、『心』という小説を書きました。
 こんなふうに、文学者のなかにも、元号意識というものは強くきざまれるようです。ルオフ先生が書いておられるように、はたして元号によって時代区分ができるかどうかは疑問です。しかし、昭和とか平成とかの元号が、日本人の時間意識のなかに染みついていて、それが天皇の存在と組み合わさっているのは奇妙な気がするほどです。
 1989年から2019年までの平成の時代は、どういう時代だったのでしょう。ルオフ先生は平成時代の天皇の象徴性として、憲法にもとづく戦後体制の支持、弱者への配慮、戦争時代の清算と鎮魂、国際協調主義、女性の役割の重要性などを挙げておられます。それは言い換えれば、平和と国際協調、民主主義と平等を基本とする考え方だったといってよいでしょう。
 これにたいし、この時代には日本の状況を別なふうにとらえる動きもでてきます。つまり、平成になってから日本の経済は停滞し、その国際的地位さえ周辺諸国によって脅かされようとしているとみる考え方です。そこから戦後体制を見直し、国家経済を強化し、国力を高めようとするイデオロギーが生まれてきます。それはどこか「大日本帝国をもう一度」という発想に結びついていきます。戦前を反省する立場は自虐史観とレッテルを貼られ、それに代わって、居丈高で国家主義的な史観が再登場してきます。
客観的にみて、平成になってから、日本経済が停滞し、GDPでみるかぎり、その国際的地位が相対的に低下したのは事実です。しかし、だからといって「大日本帝国をもう一度」という妄想は、しょせん妄想でしかありません。こうした発想は、かえって社会の雰囲気をより息苦しくしていくのではないでしょうか。日本は中国や韓国・北朝鮮とまた戦うつもりなのでしょうか。そうでなくとも、争うことはたしかなようです。
 ルオフ先生は象徴皇室の最大の役割を、国民国家の統合と永続性を維持することととらえています。
人口問題をかかえる日本はこれから海外から人を迎え、ますます多様化せざるを得ないというのがルオフ先生の見方です。労働力不足などもあって、実質的な移民が増えてくるのはまちがいありません。そのとき国籍、言い換えれば市民権を付与するのは、従来のように基本的に血統によるという考え方でいいのかと問題提起もされています。
 日本には女性差別も根強く残っています。正規・非正規の差別や経済格差の広がりも深刻です。いまや日本は新しい階級社会になっていると指摘する人もいます。
 こうして多様化し分裂しがちな社会を、どう統合していくのか。さらに国際協調主義にもとづきながら、日本の誇りとなる理念を世界にどう打ちだしていけばよいのか。それがこれからの皇室の課題だろう、とルオフ先生は問題提起されています。それはおのずから「大日本帝国の夢」とは異なるものになるのではないでしょうか。
 しかし、最後につけ加えるなら、いま皇室にとって最大の問題は、皇室が存続の危機をかかえているということです。現在の政府は男子による皇位継承しか認めないという立場です。これは悠仁親王が無事成長し、皇位を継ぐ前に結婚して、何人か男子をもうけるという都合のいい考え方に立っています。奇跡はおこるかもしれません。しかし、これは奇跡に近いことです。
 そんな奇跡をおろおろして待つよりも、いま現に存在する女性を天皇として認めるほうがよほど簡単だし、国際的な趨勢にもかなっている、とルオフ先生はいいます。わたしも、これには賛成です。日本には過去8人の女性天皇がいました。男系の万世一系というイデオロギーにこだわる必要はまったくありません。もし新たな女性天皇が誕生するなら、日本社会の雰囲気もずいぶん変わり、いまよりもずっと開けてくるのではないでしょうか。
 いまの右派が主張しているように、男子による皇位継承にこだわりつづけるなら、そのうち皇位を継ぐ者はだれもいなくなって、天皇もいなくなります。すると共和制を推進しているのは、まさに右派だということになります。それは悲劇です。皇室の存続が可能ならば、皇室は存続したほうがいいに決まっています。大統領制になって、トランプやプーチンような人がでてくるのは困ります。そのためには女性天皇を認めるというのが、現在の皇室の危機に対処する、もっともすっきりした解決策ではないでしょうか。
 最後に日本国憲法をもう一度ながめてみましょう。
「天皇は、日本国の象徴であり国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
 国民が天皇をつくるということも忘れてはなりません。

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