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ロバート・ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』 (まとめ、その1) [商品世界論ノート]


   1 はじめに

『アメリカ経済──成長の終焉』という日本語タイトルは誤解を生みやすい。時務的な本とみられるかもしれないが、原題はこうだ。
 The Rise and Fall of American Growth: The U.S. standard of living since the Civil War by Robert J. Gordon
 ロバート・ゴードン著『アメリカの発展の盛衰──南北戦争以降の合衆国の生活水準』というのがより正確である。単なる産業やGDPではなく、生活水準によって、アメリカの発展の実態をとらえようとしているところが気にいった。
 ロバート・ゴードンはアメリカの経済学者で1940年生まれ。ハーバード、オックスフォード大学を卒業、マサチューセッツ工科大学で博士号をとり、いまもノースウェスト大学の教授をしているという。経済史と成長理論の専門家である。
 本書は3部に分かれている。

第1部 1870−1940年
大発明が家庭の内外に革命を起こす
第2部 1940−2015年
黄金時代と成長鈍化の気配
第3部 成長の加速要因と減速要因

 1部と2部が歴史編で、3部が理論編とみてよいだろう。
 これは単にアメリカの経済発展の歴史ではない。20世紀はいわばアメリカの時代で、日本やその他の国々もアメリカを追いかけてきたのだ。日本人にとって、アメリカのライフスタイルは、最近まであこがれの的だったといってよい。本を読む側としては、そのアメリカをモデルとして取り入れることで、日本がどう発展してきたかという問題意識も、とうぜん湧いてくる。
 1870年から2015年といえば、日本では明治のはじめから、大正、昭和、平成の終わりごろまでをカバーする。ぼくには日米経済史を詳細に比較する力量はないが、多少なりとも日本の経済発展を意識しながら、本書を読んでみたい。

 まずは序文である。
 いきなり気づくのは、本書が単に生活史なのではなく、生活水準と成長理論の関連の追求によって成り立っていることである。
 20世紀は「経済成長が加速し、現代社会が生まれた時代」だが、「1970年以降、今日に至るまで成長が鈍化している」のはなぜか。それを、いわば生活水準の変遷から追ってみようとしているところが、本書のユニークさといえるだろう。
 最初にその概要をとらえておく。
 南北戦争(1861〜65)から100年で、アメリカ人の生活は一変した、と著者は書いている。これは日本人でも同じことだ。明治維新以降100年で、日本人の生活が多岐にわたって、どれほど変化したかをふり返ってみればよい。
 曲がり角になったのは1970年代である。ITの発展は、娯楽、コミュニケーション、情報収集・処理に画期的な成果をもたらした。とはいえ、衣食住など生活基盤の進歩は鈍化している。経済格差の拡大という逆風さえ吹きはじめた。
 1870年から1970年までの1世紀は特別だ、と著者はいう。1820年ごろの暮らしは、中世とほとんど変わらなかった。ところが、鉄道、蒸気船、電信の3大発明によって、生活が変わりはじめる。1870年以降は社会全体に電気、ガス、水道が普及する。都市が発展し、馬に代わって鉄道や自動車が主な交通手段となる。一般の人が飛行機に乗れるようになったのは、1950年代後半からだ。
 19世紀後半には、家計の半分が食費にあてられていた。そのころ加工食品が登場する。冷凍技術が開発されたのは20世紀初め、しかし、一般家庭が冷蔵庫を利用するようになったのは1950年代からだ。
 1870年でも男性用の服や靴は店で購入されていたが、女性用の衣服は母や娘が家でつくるものとされていた。その作業を助けたのがミシンである。ところが、1920年になると、女性用の衣服も、小売店やデパート、あるいはカタログ販売で買われることが多くなる。
 病院の改善や医薬品の開発、公衆衛生の発達が、乳幼児死亡率の低下と平均余命の延びをもたらした。
とりわけ特筆すべきは、日常生活の改善が驚くべきスピードで進んだことだ、と著者はいう。
 家事労働は短時間ですむようになり、家事から解放された女性は、労働市場に進出する。男性の労働時間も改善され、週休2日も可能となった。
 農業社会から都市社会への移行が進んだ。1970年にアメリカでは73.7%の人が都市に住むようになっていた。
 1970年代に「特別な世紀」は終わる。技術進歩にかげりが見え、経済格差が広がるようになった。70年代以降の技術進歩は、娯楽、通信、情報技術の分野にかぎられる、と著者はいう。
 パソコンやインターネット、携帯電話などは猛烈な勢いで普及したが、それらがGDPに占める割合は7%にすぎない。
 食品や衣料品、電化製品、自動車などは多様化する。だが、衣料品は輸入の増加によって、国内のアパレル産業がほぼ壊滅する。70年代以降の新しい電化製品は電子レンジくらいで、ほかはかわりばえしない。だが、その電化製品も輸入されることが多くなってきた。医療技術についても、70年代以降、進歩のペースはにぶっている。
 ここで、著者は若干の注意をうながす。生活水準の指標として便利なのは、1人あたりGDPだが、この指標には生活の質が反映されていない(たとえば労働環境が改善されるなど)。さらに、市場の動きが過小評価されがちである(たとえばエアコンやテレビの値段が安くなるなど)。
 物価指数は新製品のもたらす改善や、価格下落による効果を把捉できない。「物価指数は価格に対する性能向上を反映しない」。安売りがもたらす消費者のメリットも無視されてしまう。
 イノベーションによる生活の向上は、かならずしも所得の上昇と結びつくわけではない。所得が上昇していなくても、イノベーションによる生活の向上はおこりうる。なかでもGDPに反映されていないメリットのひとつが、余命の延びだ、と著者は論じる。
 生活水準の向上は、労働生産性の伸びと連関している。1870年以降でみると、とりわけ1870年から1970年までの「特別の世紀」の後半、すなわち1920年から1970年までの労働生産性の伸びが高い。
その時代に「電機革命」が起きた、と著者はいう。電気技術が誕生するのは1880年代だが、それが普及段階に達するまでに40年の時間を要した。
 だが、電機革命だけで、労働生産性の上昇は説明できない。アメリカの場合は、ニューディール政策と第2次世界大戦が重要である。ニューディール政策は労働組合の力を強め、労働時間を減少させ、1日8時間労働を実現させた。それによって、余暇が増え、消費が増えた。さらに、労働時間の減少がイノベーションをもたらしただけでなく、労働者の疲労を軽減し、それによってむしろ労働生産性を高めたというのである。
 1970年以降の労働生産性上昇は、主にコンピューター革命によるものだが、その期間は8年ほどしかつづかず、数十年つづいた「電機革命」時代にはとておよばない、というのが著者の見立てである。しかも、1920−70年には1人あたり労働時間が大幅に減少しているのにたいし、1970年以降は1人あたり労働時間はむしろ増えているという。
 アメリカでは1870年から1970年にかけてが「特別の世紀」で、とりわけその後半は経済成長率がピークを迎えた黄金時代となった。タイムラグはあるにせよ、それは日本もほぼ同じだろう。
 本書が取り扱っているのは、1870年から2015年にかけてのアメリカの生活水準である。アメリカ人の暮らし向きがテーマだといってよい。しかし、日本人とは無縁ともいえないだろう。
 考察の中心となるのは1870年から1970年にかけての「特別な世紀」である。この時期、衣食住をはじめ、交通、情報、娯楽、公衆衛生、労働環境にいたるまで、GDPだけではとらえられない生活水準の上昇が生じた。
 生活水準の上昇は1940年から70年までがとりわけ顕著で、その後は鈍化している。経済格差や教育問題、高齢化と人口減少、政府債務などが大きな足かせになっている。もはや「現在の若年層の生活水準が親世代の倍になるとは思えない」。
 人工知能(AI)が人類に飛躍的な向上をもたらすという見方に反して、著者は「持続的な成長を阻む壁は、1世紀か2世紀前の先祖が直面したものよりも堅固になっている」との見解を示している。
 著者は、AIがこれからの経済成長を担い、人びとの生活水準向上に寄与するとは考えていない。

  2 1870年の生活水準

 第2章「出発点」を読んでみる。1870年が出発点である。
 1870年のアメリカの1人あたり所得は、イギリスの74%に達していた(2010年ベースで約3700ドル)。アメリカはすでに中世風の農業社会ではなく、産業革命の成果がとりいれられている。人口もイギリスを上回っていた(約4000万人)。
 ちなみに、日本はこのころ人口はアメリカとほぼ同じだが、1人あたり所得はアメリカの4分の1ほどで、ずっと貧しい。もちろんGDPだけで、社会の水準がはかれるわけではない。とはいえ、日本がアメリカとくらべて、労働生産性が低く、商品の生産・消費もより少なかったことはまちがいない。
 当時の観察では、イギリスやフランスにくらべ、アメリカの労働者階級の生活はましだったという記録がある。しかし、それは東部の大都市での話だった。人口の75%を占める農民の生活ぶりがどうだったかはわからない。むしろ、1870年以降は、労働者の生活水準は低下している。それは移民の増大や、農村から都市への人口の流入と関係がある。
 1870年にはすでに大陸横断鉄道がつくられようとしていた。電信が導入され、海底通信ケーブルも開通し、全米の一体化が進む。
 とはいえ、動力の中心は、まだ蒸気、水車、馬である。電気や石油はない。明かりはロウソクや鯨油に頼っていた。
 ヨーロッパにくらべ、アメリカの人口増加率は高かった。その背景には農地の安さがある。人口は87%が白人、13%弱が黒人だった。人口の60%が25歳以下で、65歳以上は3%にすぎない。大人も子どもも農作業や家事労働などに従事し、よくはたらいていた。年金や保険などがないから、人は死ぬまではたらくしかなかった。
 当時の消費はほとんどが食料、衣服、住居に費やされた。ある研究によると、平均5人世帯家族の年間消費額は1000ドル弱で、その45%が食料、7%がタバコ、薬、燃料、新聞など、16%が衣服や靴、布、玩具などの半耐久財、9%が家具や調理器具、時計、その他の耐久財、残り24%が家賃などのサービス財にあてられていたという。
 消費の金額と内訳は、その後、150年で大きな変貌をとげることになる。とりわけめだつのは、食料支出割合の低下と、サービス支出割合の増大である。半耐久財や耐久財にしても、その内容はがらりと変わった。
 食料に関していえば、農村部では自家栽培が中心で、トウモロコシと豚肉が主食だった。野菜の種類は地域によってことなる。北部はジャガイモ、南部はサツマイモが中心。果物はりんご。ほかに飲み物はチョコレート飲料や紅茶、コーヒーが一般的だった。
 当時は人口の75%が農村に住んでいた。アメリカの典型的な開拓農民は、肉食用の家畜を飼い、ジャガイモなどの野菜をつくり、適地であれば小麦を栽培し、自家消費していた。着る服も自宅でつくっていた。しかし、砂糖やコーヒー、香辛料、たばこ、医薬品、農機具、調理器具、布地などは最寄りの雑貨店で購入しなければならず、それには現金が必要だった。ほとんどの商品はツケで販売されていたという。作物ができると、その一部を売って、ツケを払うやり方だった。
 男性用の服は雑貨屋で購入されていたが、女性用の服は上流家庭をのぞき手づくりで、布を裁断し、針と糸でつくるものとされていた。
 住環境は都市と農村ではまったくちがうが、農村にかぎらず都市でも一軒家が多く、集合住宅は少なかった。電気もガスもないから、家は寒く暗かった。薪や石炭を燃やして暖を取り、夜はランプの裸火を明かりにしていた。水道や浴室、トイレもない。とりわけ都市の労働者の住環境は劣悪だった。
 そのいっぽう、経営者や地主などの上流階級は、都市や村に大邸宅を構えていた。しかし、多くの使用人をかかえるその大邸宅でも、まだ快適な設備は整っていない。
 鉄道はできたが、交通手段は都市でも農村でも馬車が主流であり、農村の生活は孤立していた。だが、1870年ごろから、列車による郵便配達システムが普及し、急ぎの場合は電報が便利な通信手段として用いられるようになる。
 娯楽は、酒場や公園、マーケットに行くぐらいのものだが、ニューヨークではすでに遊園地などができている。
 当時の平均寿命は45歳。とりわけ乳児死亡率が高かった。さまざまな感染症が蔓延し、結核が不治の病であり、工場での事故も多発していた。病院も少なく、医療も発達していない。地域でも家庭でも、公衆衛生上の措置はほとんどとられていなかった。
 労働力人口でみれば、農民と農業労働者が46%、職人や工員、人夫などのブルーカラーが33%、事務員、販売員、使用人などのサービス業が13%、経営者、専門職、管理職・役人が8%という統計がでている。この割合は次第に様変わりしていくが、当時は都市の労働者より、農家のほうが圧倒的に暮らし向きがよかった。
 男女の役割は明確に分けられていた。都市では、外で給料を稼ぐのは男であり、女は家で家事を切り盛りするものとされていた。ホワイトカラーとブルーカラーは区別され、階級間の移動はほとんどなかった。地主や農民が同じ場所にとどまるのにたいし、労働者は都市のあいだを移住しがちだった。都市の職業は多様だった。
 1870年では、25歳以下の若年人口が総人口の60%を占めている。学校教育は12歳までの小学校にほぼかぎられていた。男は15歳、早ければ12歳から働きはじめる。女は母親の手伝いをし、若くして結婚し、家庭にはいった。
 南部では黒人への教育はほとんどなされなかった。「奴隷制度のもとでは黒人の学校はなく、プランテーションの経営者は、教育を受けさせず、文盲のままにしておくことで奴隷支配を維持しようとした」のだという。奴隷解放宣言以降も、こうした差別はつづく。
 65歳以上の高齢者の割合は、わずか3%だ。しかし、社会保障制度がなかったため、高齢者の生活はかなり悲惨なものだったという。
 1870年の生活は現在とはまったくちがう。商品世界が全面的に浸透していないためGDPという指標もあまりあてにできない。とはいえ、ごく一部の上流階級を除いて、全般的に人びとの生活は厳しく貧しかったといえるだろう。
 消費財はかぎられていた。それなのにその財を得るための労働はきつかった。消費の場である家庭においても、主婦は家事労働に追われていた。
 売られている食品の種類も少ない。保存技術が限られているため生の肉は危険だった。住環境も厳しかった。どの家もハエや虫に悩まされていた。鉄道や汽船、一部の工場は蒸気で動いたが、交通面で基本的な動力源となっていたのは馬である。
 だが、そこに第2次産業革命がおこるのだ。
 著者はいう

〈1870年という年は、現代アメリカの夜明けと位置づけられる。その後の60年間、生活のあらゆる面で革命が起きた。1929年には、アメリカの都市部は電化され、都市のほぼすべての住宅がネットワーク化され、電気、天然ガス、電話、水道水、下水道で外の世界とつながっていた。1929年には、馬は都市の通りからほぼ姿を消し、自動車の世帯保有率は90パーセントに達していた。また1870年には想像もできなかった娯楽を楽しめるようにもなっていた。レコード、ラジオ、豪華な映画館での映画上映。さらに乳児の死亡はほぼ克服され、病院や薬の処方は、現行の認可制度や専門性が確立された。労働時間は短くなり、肉体労働に従事する労働者の割合は低下し、家電が日々の家事労働を明るいものにし始めた。〉

 第2次産業革命によって、1870年から1930年のあいだに一大生活革命がおきるのだ。日本では明治のはじめから昭和のはじめにかけての時期である。ちなみに、その間、日本の1人あたりGDPは1885年の1097ドルから1929年の2305ドルに上昇している(1990年国際ドルベース)。そして、この間、アメリカとの格差は、1人あたりベースで、ほぼ半分近くまで接近している。
 とはいえ、日本はまだまだ貧しい。生活スタイルも日本式である。
 ここで、ひと言だけ余分な感想を加えると、明治維新前後に日本を訪れた外国人観察者は、日本は貧しいけれど、民衆はとても幸せそうで、自然が美しいという感想を一様にもらしている。このことは、日本がまだ近代世界システムに組みこまれていなかったことを示している。近代世界システムは国ごとの商品世界単位によって形成されており、GDPはその商品世界の水準を示す指標にほかならない。そして、忘れてはならないのは、商品世界が自然や伝統、人間を破壊もしくは使役することよって成り立つ幸福追求システムだということである。
 しかし、それでも日本は、アジア諸国に先立って近代世界に仲間入りする道を選んだのである。

3 衣食住の発展

 GDPは年間に生産された商品のフローを集計した数字だが、それ自体が生活水準を示しているわけではないという著者の発想はきわめてまっとうなものである。GDPはあくまでも経済指標にすぎず、社会の成長をみるには、生活水準の移り変わりそのものに焦点をあてなければならない。

 そのような視点から、著者は第3章と第4章において、1870年から1940年にかけ、アメリカの衣食住がどう変わったのかをみていく。
 衣食住のなかで、人がもっとも必要とするのが食であることはまちがいない。アメリカでは、1日の消費カロリーはだいたい3000〜3500キロカロリーが基本で、それは1970年ごろまで、ほとんど変わらなかった。それが増えてくるのは1970年以降で、2000年には4000キロカロリーに達しているという(ちなみに、日本人はほぼ2000〜2500キロカロリーだ)。
 ある調査によると、アメリカの家計に占める食品の支出割合は、1870年から1920年にかけては40数パーセント。それが約35%に低下するのは、1930年代後半からである。しかし、そのかんに食品は多様化し、豊富になった。それが生活水準の向上をもたらした、と著者はいう。
 アメリカ農務省の統計によると、1870年から1930年にかけ、肉の消費は減っている。牛肉は25%減、豚肉は半減。ラムや鶏肉の消費も増えていない。小麦の重要性も低下している。そうしたなかで、消費が増えたのは、脂質・油、果物、乳製品、卵、砂糖、コーヒーだという。加工食品の開発も目立つ。とりわけ、油で揚げたり、いためたりするものが食卓をにぎわせるようになった。
 都市でも多くの家が家庭菜園で野菜をつくっていた。都市と農村のちがいは、都市がほとんどの食料を買わなければならなかったのにたいし、農家は基本的に自給自足で、食料以外の必要なもの(砂糖や靴、農機具など)を得るために余った豚肉や穀物、野菜を売っていたことである。
 とはいえ、1890年代から1920年代にかけ、冷蔵貨物列車と家庭用のアイスボックスが開発されるにつれ、食品の流通は拡大する。果物や野菜も汽車で運ばれるようになった。冷蔵技術の発展によって、保存期間が長くなり、生鮮食料品の価格が下がった。その分、食料の商品化と多様化が促進されたといえる。
 食の多様化が進んだのは移民が増えたせいでもある。上流階級はフランス料理を好み、ドイツ人はソーセージを持ち込み、ホットドックを生み出す。イタリア移民は外食文化を普及させた。ドイツ人はビールを、イタリア人はワインをよく飲んだ。1920年から33年にかけて施行された禁酒法は、かえってGDPに占めるアルコール消費の割合を高めるという皮肉な結果をもたらしたという。
 1870年から1900年にかけて、加工食品が台頭する。缶詰やドライフルーツ、クラッカー、オートミール、パスタ、ソース、ソーセージやハムなどである。パンも市販のものを買う人が多くなってくる。缶詰は西部の開拓地でよく利用されていた。1886年に誕生したコカコーラがよく売れるようになったのは20世紀になってからである。コーンフレークも次第に便利で手間のかからない朝食として重宝されるようになった。ジャンクフードも出回るようになる。1896年にはポップコーンが全米で発売されるようになった。そのほか、お菓子のたぐいは数え切れない。
 こうして、加工食品工業が確立されていく。ブランド食品は大量生産で価格が下がり、労働者も手に入れられるようになって、マーケットが広がる。「1900年にはすでに、加工食品の生産高が製造業生産高の20パーセントを占めるまでになっていた」。
 冷凍食品が生まれるのは1920年以降である。魚や肉、野菜、果物、その他の調理食品が冷凍食品が発売されるが、当初はさほど売れない。それが定着し、よく売れるようになるのは、1950年以降に冷蔵庫に冷凍スペースが設けられるようになってからである。
 1870年の「豚とトウモロコシ」の単調な食卓から、バラエティに富んだ現代の一般的な食卓への移行は、1920年代にはほぼ完了していた、と著者はいう。アメリカでは所得水準の上昇とともに、レストランも増え、各国さまざまな料理を楽しむことができるようになった。すでに1920年代には、主要な高速道路にはドライブインが並び、町にはハンバーガー・チェーンもできていた。
 こうしたアメリカの食事スタイルが日本を席捲するようになるのは、第2次世界大戦後、とりわけ1970年代以降だった。
 日本の食生活はアメリカとは大きく異なっていた。米と雑穀を主食とし、副食物として魚介類、それに野菜という質素なものだ。東京、横浜、大阪など都市を中心に牛肉が食べられるようになったのは1870年ごろからである。豚肉や鶏肉も1880年代から取り入れられるようになった。リンゴやナシ、キャベツ、タマネギ、トマトなども明治以降の産物である。
 うどんやそばなどの加工食品が広く食べられるようになるのは、江戸時代、19世紀はじめからだった。缶詰がつくられるのは明治の1870年代から。イワシやサケの缶詰が多かった。パイナップルの缶詰が流行するのは、日本が台湾を領有してからである。明治になって最初輸入されていたビールは、1880年ごろから国内でも製造されるようになった。
 日本でも、明治になって、食事の様式は、新しい食品とともに、種類がより豊富になり、江戸時代から大きく変わっていった。もちろん、どの国でも、食卓の基本が伝統にもとづいていたことはいうまでもない。とはいえ、商品化された新たな食品が、それに変化を加えていくのである。
 本書に戻ろう。アメリカでは1870年当時、農村と都市の人口比は75対25で、農村のほうが圧倒的に人口が多い。これは日本も変わらない。農村ではほとんどの食料が自家農園で栽培されていた。家族で消費する以外の余った分だけが市場で売られていた。その代金で、農家は地元の雑貨屋で、靴や男性用衣服、女性用の布地、農機具その他を買っていた。
 都市には大規模な市場があり、多くの店が、肉や魚、野菜、果物、乳製品やパンなどの食品を売っていた。ほかに石炭や薪、さらにはハーネス(馬具)や塗料、自転車、銃、書籍、衣料品などを売る店もあった。
 店の形態が変わるのは1920年前後からだ。「現金・持ち帰り」のチェーン・ストアが急成長する。チェーン・ストアは大量仕入れによって、安い値段で商品を提供することができた。その後、各地に広がっていったのはそのためだ。
 食品のマーケティング革命が進行していた。消費者はより安い価格で食品を購入できるようになった。
だが、食品には中毒がつきものだった。水や牛乳、肉には危険がひそんでいた。牛乳が殺菌されるようになったのは1907年からである。ソーセージも不衛生な環境でつくられていた。食品の安全対策には時間がかかった。20世紀にはいって、肉の消費量が減り、流通コストが高くなったのはそのためだ、と著者はいう。食品を安価で安全な商品として売りだすには、さまざまな検査体制が必要だった。

 次に論じられるのは1870年から1940年にかけての衣服商品の展開である。衣食住の衣にあたる。著者によれば、そのいちばんの変化は「衣服が家庭でつくるものから市場で購入するものへと変わったことだ」という。
 1890年以降、東欧からの移民が最初に取り組んだのは、仕立屋の仕事だった。汚い屋根裏部屋で、低賃金で懸命にはたらいたという。
 ファッションが広く取りあげられるようになるのも20世紀になってからである。1910年以降、女性のファッションは確実に進化していった。
 1870年は衣料品販売に革命がおきた変わり目だったという。パリのデパート、ボン・マルシェをまねて、アメリカでもデパートが誕生する。豪華な店構えを誇るデパートは商品の殿堂だった。ありとあらゆる商品が店頭に並べられ、定価で売られていた(ちなみに三越が「デパートメントストア」を宣言するのは1905年のことである)。
 デパートだけではない。日用雑貨チェーンやドラッグストア・チェーンが、店舗を広げ、さまざまな商品を全米に供給し、アメリカ人の生活水準の上昇に寄与するようになる。それによって、小間物や針、ペン、ノートなどの文具、その他多様な商品の大量生産も可能になった。
 直接、デパートに買い物に行けない農村の住民に恩恵をもたらしたのがカタログ販売だった。モンゴメリー・ウォードは1872年、シアーズ・ローバックは1894年に最初のカタログを発行している。そのカタログには、帽子やかつら、コルセットに毛皮のコート、時計、自転車、セントラル・ヒーティングの炉、銃など、食品を除くあらゆる商品が網羅されていた。
 アメリカでカタログ販売の果たした役割は大きい、と著者はいう。それまで田舎の商店や行商人に頼らざるをえなかった農村の世帯が「カタログを見て気に入った商品を買える豊かさを手にしたのだ」。農民にとっては、世界が広がる経験だった。
 日本でも、もちろん衣料の革命は生じている。明治になってからは洋服が導入された。だが、日本なりの特殊な事情もあった。『明治文化史』にはこうある。

〈しかしながら一般家庭における居住様式は、住宅の思いきった改革がないかぎり、服装のように簡単にその様式を変更できなかったことは申すまでもない。そこに坐式の居住様式に適った和装が、激しい西洋化の中にも強固に存続し、その坐式の居住様式の上に、新しいいろいろの服飾相が展開されたと行ってよい。〉

 文化史的にも興味のあるこの問題については、いまは深入りしない。

 1870年から1940年(日本でいえば、明治のはじめから昭和前期)にかけて新たに商品化された食料品や衣料品によって、人びとの生活は大きく変わっていった。しかし、それ以上に人びとの暮らしを変えたのが住宅の進化である。電気、水道、ガスの普及が、その進化を促した、と著者はいう。
 1940年段階で、アメリカの都市人口は全人口の57%を占めるようになった。急速な都市化が進んでいた。
 各家庭が電力ネットワークでつながるようになると、電灯をはじめとする家電製品が増えていった。上水道と下水道のネットワークもできあがり、ガスや電話も普及しつつある。アメリカでは1940年に洗濯機と電気冷蔵庫の世帯保有率が40%に達し、浴室やセントラル・ヒーティングもあたりまえになっていた。
 住宅革命の本質は「ネットワーク化による現代的な利便性の実現」にある、と著者はいう。とりわけ女性が多少なりとも家事から解放されたことが画期的な成果だった。
 1920年ごろまでアメリカは農業社会で、大多数の人は広々とした一軒家で暮らしていた。狭くて暗いアパートに労働者がひしめくように暮らしていたのは、ニューヨークのような大都会だけだったという。
 1870年から1940年にかけ、アメリカの人口は3700万人から1億2700万人へと3倍になった(ちなみに日本の人口は3500万人から7200万人に増えている)。アメリカの世帯数はそのかん5倍になり、1世帯あたりの人数は5人から3.7人へと低下した。
 1940年時点の住宅は、ほとんどが1880年以降につくられていた。しかも、その大半が1920年以降に建てられたもの。「少なくとも都市部では、ほとんどの住宅が、都市に電気が通り、上下水道など衛生面のインフラが整った後に建てられたものだといえる」。
 都市では賃貸用に多くの一戸建て住宅が建てられ、その多くが二世帯住宅だった。1920年以降、ニューヨークやシカゴでは大型の高層アパートがつくられるようになった。
 人びとの生活水準は、世代ごとに着実に向上していた。教育水準の向上にともない、労働者階級の子どもが中流階級となる機会も増えてきた。移民の親は苦労に苦労を重ねたが、1920年代にその子どもは、電気や水道が完備された住宅に住み、自動車に乗る生活があたりまえになっていた。
 都市人口が増えるにつれ、都市の人口密度は高まり、住宅のスペースは狭くなった。それでも、世帯あたりの平均人数が減ったため、一人当たりの部屋数は増えた。住宅は小型化したが、その分、より効率的になった。よけいなスペースが減り、間取りはよりシンプルになっていく。
 1900年代の都市労働者階級の住宅事情はけっしてよくなかった。スラム街にはテネメント(安アパート)が密集し、3部屋に5人が居住するありさまで、周囲には悪臭が立ちこめていた。とりわけひどかったのがニューヨークである。
 シカゴやクリーヴランドのような中西部の都市はまだましだった。都心の中心部から3、4キロ離れたところに郊外住宅をつくることもできたからである。
 かつての広壮な邸宅にかわって、1910年から1930年にかけて、簡素な平屋建てのバンガロー・ハウスが数多くつくられるようになる。それは労働者階級が次第に中流階級になったことと関係しているという。
 技術革新によって、住宅建設のコストも安くなった。
「標準的な間取りと加工建材を活用したバンガローの建設は、19世紀半ばに遡る建築のイノベーションの長いプロセスの頂点と位置づけられ、これにより人口のかなりの割合が一戸建てを所有できるようになった」と、著者はいう。
 シカゴなどでは、かなり計画的に住宅地域がつくられ、マイカー時代の到来に備えて道路が整備され、電柱や電線は道路に埋設され、街路樹が植えられていたという。
 小さな町では中流階級と労働者階級は一戸建てに暮らしていた。貧しいか、豊かかのちがいはあったが、混ざりあって住んでいた。安アパートのひしめく都市にくらべ、スペースには余裕があった。回りは田園地帯で、どの家にも菜園があった。
 200〜300エーカーの土地をもつ農家は、1900年以降に建て替えられた広大な屋敷を構えていた。暖房や家具、水のポンプなどで大きな改善がみられたが、現代的な利便性は農村まで行き渡らなかった。
 1920年ごろ、農民は自分たちが現代の進歩から取り残されているのではないかという気持ちをいだくようになる。「現代的利便性は、都市の生活を均質化する一方、都市と農村の生活に大きな格差をもたらしたのだ」と、著者は論ずる。
 アメリカで住宅革命がおきたのは1910年から1950年にかけてである。水道、ガス、電気のネットワークが、現代的利便性をもたらした。とりわけ、1930年から50年にかけての発展は著しく、ほとんどの家庭が電灯、水道、水洗トイレ、セントラル・ヒーティングの設備を備えるようになった。冷蔵庫と洗濯機が急速に普及するのは1930年以降である。
 つまり、1900年と1940年のあいだに、電気、ガス、水道の奇跡が、家庭に一大変化をもたらしたのだ、と著者はいう。エジソンが電球を発明したのは1879年、ニューヨークに発電所ができるのは1882年である。ガスはイギリスで19世紀初頭に開発され、最初は街灯として用いられ、その後、燃料として広く活用されるようになった。
 1900年時点で、電力サービスはそれほど普及していない。電力消費が大きく伸びた背景には、電力価格の急速な下落がある。それにつれ、電球の性能は向上し、値段も安くなっていく。照明のほか、電気は工場や鉄道などでも利用されるようになった。
 しかし、1940年になっても都市と農村部のあいだには、電化率に大きな差があった。エジソンが電球を発明してから60年たっても、南部の農家では8割がランプを使っていた。
 家電製品はわりあい早く開発されたが、普及には時間がかかった。屋内配線は面倒だったし、プラグや差し込み口の標準化も必要だった。それでも1940年には4割の家庭が電気洗濯機や冷蔵庫を使用するようになっていた。1919年に775ドルした冷蔵庫は、1940年ごろには137ドル〜205ドルと買いやすい値段になっている。1927年にはサーモスタットつきの電気アイロンが発売されている。掃除機も人気があった。「電灯や家電製品によって家庭の電化が進んだことで、多くのアメリカ国民の日常生活ががらりと変わった」と、著者は指摘する。
 1890年代まで、ほとんどの家庭に水道はなかった。上水道と下水道が整備されるようになったのは、利便性より、もっぱら公衆衛生のためだった。水洗トイレが発明されたのは1875年である。公営水道は1870年から1900年にかけ、都市全域に広がる。それ以降、家庭での革命がはじまる。台所の水回り設備が開発され、水洗トイレや浴室が普及する。
 1940年時点で、水洗トイレのある家庭は全米の6割にすぎなかった。しかも、都市部の割合が圧倒的に高い。屋内のバスルームが誕生したのも1940年になってからだという。
 暖房用の蒸気ボイラーはすでに1840年代からできていたが、安全性の問題があり、よく爆発事故をおこした。お湯をわかして暖気を送るセントラル・ヒーティングが普及したのは1880年になってからで、これも都市が中心だった。その燃料には石炭やコークスが使われていたが、灰の始末もたいへんだったし、大気汚染も引き起こした。それが改善するためには、燃料をガスに変えていく必要があった。
 著者はこう述べている。

〈1870年以降の生活の変化、とりわけ都市部での変化は、水や燃料を自分で運ぶ生活から、ネットワークを基にした生活への転換だといえる。電話線、上下水道、電力ケーブルのネットワークは、突如出現したわけではない。都市の中心部から人口のまばらな地域に徐々に拡大していった。必要性は認識されていたが、政府のインフラ開発部門と民間資本の組み合わせで実現した。〉

 だが、こうした革命的な変化が起こるのは1回切りだった。1940年には水道や電気、ガスに関連する発明はほぼ終わっていて「日常生活の劇的な変化をもたらす発明は、1940年以降生まれていない」と、著者は論じている。
 東京市内の主要道路にガス・ランプの街灯がついたのは1875年のことである。1882年にははじめて銀座2丁目に電灯がともされた。1885年には横浜に鉄管の上水道が設けられた。当初、街灯用だったガスは、次第に燃料として用いられるようになる。しかし、日本の一般家庭に電気・ガス・水道が普及するには長い時間がかかった。
 現代世界は多かれ少なかれ、アメリカ流ライフスタイルを追いかけてきた。電気・ガス・水道なくしては、もはや現代の生活は考えられない。それを可能にしたのは、それ自体がネットワークである商品世界の広がりであり、そのことは否定できない。

  4 交通、通信、娯楽

 1870年から1970年にかけては、資本主義の興隆期だった。その前半、1870年から1940年にかけても、あらゆる面で技術革新が生じている。第5章と第6章が焦点をあてるのは、交通と通信、さらに娯楽についてである。すでにマルクスの知らない時代がはじまっていた。
 人は移動する動物である。だが、単なる動物とは異なる。人はみずからの足を使ってだけではなく、自然を用具化して、移動の範囲を広げ、移動に要する時間を短縮してきた。
 その用具をつくりだすには膨大な工夫と労力を要する。それを得るためには、リスクのある略奪によるのではなく、商品化された用具を、対価を払って利用するほうが理にかなっている。
 商品が貨幣によって購入できる財とサービスだとするなら、輸送機関も一種の商品である。
 19世紀まで、人間の移動は、人力に加え、馬や帆によって、そのスピードと範囲が決められていた。それを変えたのは19世紀初めの蒸気エンジンの発明だった。これによって汽車や蒸気船が誕生した。1870年段階で、アメリカはすでに大陸横断鉄道をもち、すべての大陸と蒸気船で結ばれるようになっていた。
 この時点でも、都市内のスピーディな移動は馬車、さらにはそれを改良した鉄道馬車にかぎられていた。しかし、エジソンの発明により、アメリカの都市部では、1890年から1902年にかけ路面電車が走るようになり、1904年にはニューヨークに地下鉄が動きはじめる。
 アメリカで長距離鉄道網が急速に発達するのは、1840年から1900年にかけてのことだ。1860年代は鉄道網は北部が中心で、西部や南部での建設は遅れていた。しかし、1870年には大陸横断鉄道が完成し、1920年にかけて鉄道建設ラッシュがおきる。
 鉄道は都市と都市を直線で結び、それにより、それまでの船や馬の移動にともなう不安定性や危険をとりのぞいた。そして、鉄道がさらに進化すると、輸送貨物の重量も増え、より安くより早く、遠くまで旅客と貨物を運べるようになった。
 交通革命は商品のコストを大幅に下げた。1880年代に冷蔵貨物列車が開発されると、食品の品質が向上し、多様化しはじめる。カリフォルニアの野菜や果物、中西部の肉が東部に運ばれ、都市からは工業製品が小さな町や農村にももたらされた。郵便事業が改善され、カタログ販売も伸びていった。その中心ポイントとなったのがシカゴである。
 鉄道は旅行の楽しみももたらした。1870年から1940年にかけては、鉄道網が広がるだけではなく、鉄道のスピードが速くなり、乗り換えも楽になり、また車内も快適にすごせるようになった。
 19世紀まで都市の広さは、せいぜい歩ける範囲に限られ、雇い主も労働者もごく近くに住んでいた。1850年代に鉄道が開通すると、その状況はかなり変わってくる。
 しかし、初期の蒸気鉄道には不快な煤煙もつきものだった。そのため1890年代まで、市内の交通や物流はまだ馬が主流だった。
 しばしば事故をおこす乗合馬車は、1850年ごろ鉄道馬車に変わり、スピードも速くなり、料金も安くなった。しかし、次第に馬に代わる乗り物が求められるようになる。蒸気で走る汽車は町中には適さない。唯一の例外は坂をのぼるケーブルカーだった(それはいまもサンフランシスコに残っている)。
電気で走る路面電車が実用化されるのは19世紀末から20世紀はじめにかけてである。それでも都市の渋滞は緩和されなかった。同じ道路に馬車と電車がひしめきあって走っていたからである。
 電気による高架鉄道も開発された。ロンドンの地下鉄をまねて、1897年にはボストンでアメリカ初の地下鉄が開通する。ニューヨークの地下鉄開業は、それから7年遅れて1904年になった。そのころ都市間の電気鉄道(インターアーバン)もできあがる。こうして都市圏は次第に広がっていく。
 自動車を発明したのはドイツ人だが、それを安価な乗り物に改良したのは、アメリカ人のヘンリー・フォードである。自動車が登場すると、馬はたちまち駆逐される。馬の時速はせいぜい10キロ、それに1頭の馬が走れる距離は40キロほどに限られていた。馬を飼うのはやっかいで、走っている途中で死ぬこともあったし、馬糞の処理も悩みの種だった。そんな問題を自動車は解決した。
 当初、自動車を購入するのは富裕層にかぎられていた。しかし、ヘンリー・フォードがT型モデルを開発すると、自動車の性能は向上し、価格も安くなった。1910年代から1920年代にかけ、フォード車は爆発的に売れる。その後はゼネラル・モーターズなどとの競争がはじまる。企業競争のなか、アメリカでは1910年から1930年にかけ、自動車が急速に普及していった。
 問題は道路の改良だった。アメリカでは1904年に道路の総延長距離が200万マイルを超えたが、その大半は土の道で舗装されていなかった。連邦政府は1916年から舗装道路の建設に補助金を出しはじめる。アスファルトやコンクリートが開発されたのもこのころで、これによって、高速道路の建設も容易になった。
 市内で路面電車やバスが発達すると、馬は次第に都会から排除されるようになった。大陸横断鉄道に加えて、1920年代後半には東海岸と西海岸を結ぶバスも登場している。ロサンゼルスとニューヨークは、135地点を通過しながら5日と14時間で結ばれるようになった。
 しかし、公共路線以外の移動は困難を要した。馬に代わってこの問題を解決したのが自動車だったことはまちがいない。自動車はいつでも、どこでも、好きなように行くことができた。目的地にでかけるときに荷物をもって駅まで歩いて行く必要もない。こうして自動車は公共交通機関と競合していくようになる。
 とりわけ自動車が威力を発揮したのが農村部だった。農民は自動車に飛びついた。自動車のおかげで、それまでの孤独な生活は幕を閉じた。農民が自由に動けるようになったため、村の雑貨屋や銀行、学校は大きな打撃を受けた。
 自動車が急速に普及したのは、価格の低下によるところが大きい。自動車ローンの普及が自動車の購入を促した。自動車によって人びとの生活はがらりと変わる。通勤や買い物、レジャーなど、その波及効果は大きかった。ガソリンスタンドやレストラン、モーテル、雑貨店などのロードサイドビジネスも誕生する。そのひとつがケンタッキーフライドチキンだった。
その代わり、1920年ごろ、アメリカの通りから徐々に姿を消したものもある。露天商が姿を消し、街角のドラッグストアや地元のカフェ、近所の店もなくなった。散歩をする人もいなくなった。その意味では「人間関係の機微も失われた」ことを著者も認めている。
 しかし、にもかかわらず自動車のもたらした効能は大きかった。

〈自動車の登場がもたらした恩恵は明々白々だった。都市は清潔になり、地方の孤立に終止符が打たれ、道路は改良された。医療が向上し、校区は統合され、娯楽の機会が増えた。企業や住宅の分散が進み、郊外の不動産ブームが起き、標準的なミドルクラスの文化が生まれた。〉

 ここでアメリカと日本を比較したい誘惑に駆られる。明治になって、日本では駕籠に変わって人力車が普及した。馬車は贅沢品で、ごく限られていた。しかし、1880年代に乗合馬車がなかったわけではない。1910年ごろからは急速に自転車が普及する。しかし、自動車が広まるのはまだまだ先だ。新橋・横浜間に汽車が走りはじめるのは1872年のことだが、東海道線が開通するのは1889年になってからである。いろいろ比較したい面はあるが、いまは先に進むことにしよう。

 つづく第6章では、情報、通信、娯楽の革命が論じられる。
 1870年時点で、アメリカではすでに8割の人が読み書きができ、新聞、雑誌、書籍などの印刷物がかなり出回っていた。
 新聞は19世紀はじめから読まれていたが、その総発行部数は1870年の700万部から1900年の3900万部、1940年の9600万部と驚異的に伸びていた。新聞は情報と娯楽を得る最大の手段だった。各紙の競争も激しく、扇情的な記事が氾濫していた。
 1880年から90年にかけて、多くの雑誌が創刊された。新聞の内容をより掘り下げたり、まとめたりするものが主流で、写真が雑誌の魅力になっていた。そして、1920年代からはセックスや告白を扱った下世話な雑誌も増えてくる。
 書籍はフィクションが主流。なかでも人気は恋愛小説で、伝記、歴史物もよく読まれた。
 モース(日本ではモールスと呼ばれた)の開発した電信が普及しはじめるのは19世紀半ばである。1866年には米英間で海底ケーブルが敷設され、大西洋を横断する電信が可能になった。銀行や鉄道会社、新聞社にとって、電信は必要不可欠の通信手段だった。
 電信は企業規模の拡大にも寄与した。
「単一の機能しかない小規模な企業が域内だけで事業を行う経済から、電信が登場したことで、全国を対象にする多機能の大企業主導の経済への移行が速まった」と、著者は指摘する。
 電報は一般家庭が利用するには、値段が高すぎた。一般家庭が重宝したのはむしろ郵便サービスである。アメリカで郵便配達制度が登場するのは1901年のことで、それまで農民は最寄りの町の郵便局に行って手紙を受け取らなければならなかった。郵便配達制度は農民の時間のむだを省き、生活水準の向上に寄与しただけではない。多くの雇用を生みだすことにもなった。
 1876年にグラハム・ベルは電話の実験に成功する。しかし、電話の普及には時間がかかった。ニューヨーク−シカゴ間は1892年、ニューヨーク−サンフランシスコ間は1915年にはじめて電話が通じる。電話料金も次第に安くなっていった。
電話は最初ビジネスに不可欠な道具として用いられ、さらに家庭の日常生活にも取り入れられていった。電話の普及により、手紙を書くというかつての習慣は次第にすたれていく。
 エジソンが蓄音機を発明したのは1877年である。当時はときの政治家の演説を永久保存するのに役立つと考えられていた。レコードということばが定着するのは1890年代半ばである。蓄音機が家庭にはいるのは1900年以降だ。蓄音機によって一般市民ははじめてプロの演奏を家庭でも聴けるようになった。とはいえ、蓄音機とレコードにはまだ大きな欠陥があり、多くの改良が必要だった。レコードで演奏が正確に再現できるようになるのは1925年になってからである。
 さらに画期的なのはラジオの発明だった。「最初の商用ラジオ局が開設されたのは1920年だが、20年たたないうちに、少なくとも1台のラジオを保有している家庭が80%以上に達した」と、著者は書いている。いったん買ってしまえば、音楽であれ、ニュースや情報であれ、放送を無料で楽しむことができるのが、民衆には何よりもありがたかった。
 著者によれば、「自動車とおなじくらい、ラジオは20世紀前半を決定づけた」。受信装置の値段が安くなり、その性能も向上していったことが、ラジオの人気をますます高めていった。
 1926年にはラジオ局のネットワークができあがっていた(アメリカに国営放送はない)。番組内容はクラシック音楽よりポピュラー音楽、教育的なものよりコメディやバラエティが好まれるようになった。ラジオ局を営業面で支えていたのは、コマーシャルである。たばこや歯磨き、コーヒー、便秘薬など、さまざまな商品の名前が全米に流されていた。
 1930年代の不況時にも、ラジオは現実から逃れるひとときの娯楽を提供することができた。「陰鬱な大恐慌時代に抑圧された大衆は、心の拠り所を求めていた」。さらに、1940年代にラジオが戦争遂行に果たした役割も忘れてはならない、と著者は指摘する。
 さらに注目しなければならないのが、映画の発達である。
映画の歴史は静止画にはじまり、5セント劇場の短編から大映画館での長編映画へと移っていった。1915年にはチャーリー・チャップリンが喝采を浴びるようになる。このころは無声映画で、映画の上映に合わせてオルガンやピアノが演奏されていた。むずかしかったのは映像と音声を同期させることだった。トーキー(発声映画)が登場するのは1927年のことである。
 1930年代には無声映画からトーキーへの移行が急速に進み、そのジャンルもギャング映画に西部劇、コメディ、ミュージカル、ファンタジー、ホラー、SF、ホラーなどへと広がっていった。入場料も安かったため、観客数も一挙に増えていく。1939年にはカラー映画の「風と共に去りぬ」、「オズの魔法使い」が誕生している。その後も「市民ケーン」や「カサブランカ」といった名作に観客は魅了された。
 1940年にラジオと映画は全盛時代を迎えていた。人びとはいずれも1870年には考えられなかった娯楽に包まれていたのだ。
 そのころ、日本もアメリカを追いかけていた。日本で電話が普及しはじめるのは1900年ごろからである。東京放送局(現NHK)がラジオ放送を開始するのは1925年である。1898年には日本初の映画が公開された。最初の本格的なトーキー映画は五所平之助の『マダムと女房』(1931年)だが、その前に日本映画界は阪東妻三郎や大河内傳次郎などの大スターを生んでいる。しかし、国産フィルムによるカラー映画の登場は、1951年の『カルメン故郷に帰る』(木下恵介監督)まで待たなければならない。

  5 労働・生活環境

 ここからは、1870年から1940年にかけての生活環境の変化をみていく。
 商品世界の進展は、資本家の搾取をますます強め、労働者の困窮を広げていっただろうか。事態はマルクスの予想と逆に動いた。少なくとも、1870年から1970年までの100年については、そうだったといえる。
 イノベーションにもとづく新商品には、消費者の厚生を高め、余暇活動を広げ、家事労働の負担を軽減する効果があった。自動車や冷蔵庫、掃除機などの家電製品をみてもそのことがわかる。そのことが同時に平均余命(寿命)の伸びをもたらす、ひとつの要因ともなった。
 とりわけ注目すべきは、1900年から1940年にかけ、乳児死亡率が低下したことである。都市の衛生インフラ(たとえば上下水道)が整備され、危険な食品や薬品への規制がなされようになったことも、平均余命の伸びと無関係ではなかった。加えて、より直接的な要因としては、もちろん医療技術の進歩を挙げなければならない。
 1900年時点では、都市部の白人男性の平均余命は39.1歳と、農村部の46歳よりも低かった。これは都市の生活環境が悪く、新鮮な食べ物を得るのが難しかったからである。しかし、1900年と1940年を比較すると、都市部と農村部の差は縮小し、平均余命は白人男性が48歳から63歳に、非白人男性は33歳から52歳に伸びている。白人と非白人の余命のちがいは、とりわけ南部の生活環境の差によるものと思われる。
 平均余命の増加は、前に述べたように、乳児死亡率の低下が大きな要因だが、感染症による死亡率が低くなったことも大きい。1918年から19年にかけてのスペイン風邪(インフルエンザ)は例外的に多くの死者をだしたが、当時はまだウイルス研究がじゅうぶんに進んでいなかった。著者は上水道システムの普及や、パスツールの病原菌理論にもとづくワクチンの開発、住宅環境の整備、公衆衛生の浸透、大気汚染対策、食品の安全管理、疫学予防、病院と薬局の整備などを寿命増加の要因として挙げている。
 さまざまな医療器具が開発され、医師が専門化し、医療行為が市場性をもつようになったことも見逃せない。それまでは、医療は家庭か近隣の協力でなされるものだった。自動車は医師の行動範囲を拡大した。電話で緊急に医師を呼ぶことも可能になった。
 病院数は次第に増えていったが、それでも、まだ病気や怪我は自宅で治すという人が多く、その場合、病人は医師の往診を待つほかなかった。出産も家庭でおこなわれることがまだ一般的で、病院での出産が5割にのぼるのは1920年代になってからである。
 看護学校が誕生するのは1870年代。1920年代には病院の建設ラッシュがはじまる。それにより病院はより快適なものとなり、病室も個室や半個室がつくられるようになった。1930年ごろ、病院を運営するのは、連邦政府ないし地方政府が28%、教会や個人、非営利組織が72%といった割合だった。
 医学は着実に進歩し、麻酔薬が開発され、手術での苦痛も軽減されていく。ワクチンは感染症の脅威を軽減した。公衆衛生面では、清潔と消毒のたいせつさがより認識されるようになった。
 医療費は当初、さほど高くなかった。往診する医者は個人事業主で、患者を診察・治療するたびに料金を請求した。医療費が上がりはじめたのは1910年ごろからである。このころ医学校改革がなされ、医者がより専門家になると、医師の免許制がいわば独占に似た状況を生みだし、診療報酬が押し上げられていった。現代的な医療機器による治療や入院費の増加も医療費を高くする要因となった。
 アメリカでは全国民を網羅する医療保険がなかなかできなかった。労働者の一部は産業の疾病基金でカバーされていたが、失業すると、たちまち所得と健康保険の両方を失った。長期入院を強いられると、年収の3分の1から半分の医療費を請求されることもあった。ニューディール政策では強制失業保険と社会保障法が成立したものの、国民健康保険の導入にはいたらなかった。
 事故についてはどうだろう。エジソンの発明した電球が職場での事故を減らした、と著者は指摘する。作業する手元が明るくなったためである。とはいえ、事故はまだ多かった。馬と人間が衝突することもあった。鉄道や船の事故も少なくなかった。それが一段落すると、今度は自動車事故である。1920年には、自動車事故による死者が鉄道事故の倍になった。だが、それも徐々に改善されていく。
 殺人率は1930年代に10万人あたり10人と上昇するが、1950年にはほぼ半減し、1980年代にふたたび上昇して、10万人あたり11人のピークをつけている。1930年代の殺人による死亡者数は、自動車事故のほぼ3分の1である。殺人には地域格差が大きい。北部が比較的少ないのにたいし、南部はきわめて高い。しかし、南部よりさらに高かったのが西部開拓地だった、と著者は指摘する。
 生活水準上昇の度合いは、1人あたりGDPの伸びよりも大きい、と著者はみる。GDPの増大が、生活の質の変化と消費者余剰をもたらすからだ。とりわけ、その恩恵は死亡率の低下と平均余命の増加となってあらわれる。平均余命の増加は、医療産業の進歩によるだけではなく、もっと総合的なものである。
 次に取りあげられるのは、職場と家庭の労働環境である。
 1870年代から1940年代にかけ、労働環境は多いに改善された。職場の労働時間は着実に短くなり、64時間だった週の労働時間は、1940年以降48時間に減少した。定年退職という概念も一般的になる。児童労働はほぼ消滅した。
 機械の導入により、きつい農作業は緩和された。それは食肉処理などの職場でも同じである。縫製工場の劣悪な労働環境も次第に改善されるようになった。
 女性の労働参加率は徐々に上昇した。1870年には12%だったが、1940年には26%に達し、2000年には72%まで上昇している。いっぽう、男性の労働参加率は1870年から1940年で95%で、その後減ったといっても2000年でも88%を保っている。
 10歳から15歳までの児童労働は1880年には男子が30%、女子が10%あったが、1940年にはほぼ4%に低下している。19世紀後半、少女たちは水くみや洗濯、台所仕事、縫い物、子どもの世話と、めまぐるしく働いていた。
 1910年ごろから若年男子(16〜24歳)の労働参加率が低下するのは、高校への進学率が増えたからである。戦後はさらに大学進学率の増加によって、若年労働者の労働参加率は低下する。いっぽう、若年女子の労働参加率は徐々に高まっていく。そのため2000年ごろにおいては若年の男子と女子の就職率はほとんど変わらなくなった(60数%)。
 かつては死ぬまではたらかねばならなかった高齢男性は、社会保障制度が充実するにつれ、退職し、余生を楽しむことができるようになった。65歳〜74歳の男性の労働参加率は、1870年には90%近かったが、1940年には53%、1990年には24%に低下している。
 労働の質も変わった。機械や道具の導入によって、それまでのつらく退屈で危険な労働が軽減された。農場労働者や作業員の数も減ってくる。人力による運搬や掘削などの仕事はトラックや掘削機に取って代わられた。製造業の組立工も1970年以降はロボットによって代替されるようになる。
いっぽうブルーカラーに代わって増えてくるのが、ホワイトカラーや管理・専門職である。不快な仕事に従事する人の割合は1870年の87.2%から2009年の21.6%へと段階的に低下した。1870年から1970年にかけては苛酷な業務が反復的な業務へと変わり、1970年以降は非定型的な認識業務が増えてくる、と著者はいう。
 労働時間も減った。1870年には労働時間は週6日、1日10時間が一般的だったが、1940年には週5日、1日8時間がふつうになった。労働時間が減少したのは、労働時間の短縮によって労働の質が上がり、かえって労働生産性が上昇すると考えられたからである。時短と労働生産性の上昇は、実質賃金の上昇と結びついていった。
 ここで、農業に目を転じてみよう。その労働環境は、土地の肥沃度や気象の安定性、さらには家畜や農機具による負担軽減にかかっている。1862年のホームステッド法は、開拓を促進したものの、土地の劣化をももたらした。開墾は重労働だった。
 機械化が促進される19世紀後半まで、農業の生産性は低かった。1830年以降は馬が使われるようになったが、その後、内燃エンジンが開発され、余裕のある農家はトラクターや小型コンバインを取り入れるようになる。干魃や害虫に強いトウモロコシのハイブリッド種も開発された。これらにより、農業の労働環境が改善されていく。
 ただし、制度的な問題もある。アメリカでは南部と北部では、農業の制度がことなる。南部では、黒人奴隷解放後も小作人制度が幅をきかせていた。土地を所有する地主は小作人を雇って、作物や綿花を育てさせ、その収穫の半分を受け取っていた。19世紀後半から20世紀はじめにかけて、南部の黒人小作人の生活はみじめなものだったという。
 1870年から1940年のあいだに、アメリカは農村国家から都市国家に移行する。そのかん、都市人口の割合は25%から57%に上昇した。都市人口の割合が増えたのは、移民が都市に住み着いただけではなく、農村から都市への移住が増えたからである。
 労働環境が厳しかったのは農村だけではない。鉱山、とりわけ炭鉱は危険と隣り合わせであり、肺病にかかる確率も高かった。食肉処理場の労働環境も苛酷だった。鉄鋼業では、長時間労働と苛酷な労働環境が労働者の生活をむしばんでいた。企業間の熾烈な競争が人件費の削減に輪をかけていた。高温の蒸気が充満するなかでの作業はまるで生き地獄のようだった。そこに機械化の波が押し寄せる。機械化によって、熟練した職人は排除され、画一的な未熟練労働者に置き換えられていった。
 1919年以降の生産性上昇は電動モーターによるところが大きかった。その副産物として、作業場が明るく清潔になり、労働環境が改善されていったことは否定できない。
 19世紀後半には、炭鉱や鉄鋼業だけでなく、どの産業でも労働災害による死傷事故が多かった。建設現場や縫製工場でも事情は変わらない。低賃金、長時間労働に加え、労働環境も苛酷だった。労働者にたいする保護や補償はないに等しかった。
 しかも不況の波が、多くの労働者の職を奪った。確実なものは何もなく、来年の家計どころか、来週の賃金もどうなるかわからなかった。失業に対する打撃が緩和されたのは、1938年にニューディール法が成立してからである。だが、それ以前の1910年から20年にかけて、労働者災害補償法が各州で成立していた。
 第2次世界大戦前、家庭外での女性の労働は、使用人や事務員、教師、看護婦、縫製の仕事などにかぎられ、働くのはたいてい未婚女性か未亡人だった。その賃金は安く、労働環境は苛酷だった。1920年代から1940年代にかけ、女性の労働参加率が上昇したのは、サービス部門での仕事が増えたことや、女性が家事労働から多少なりとも解放されたためである。女性は次第に「汚く骨の折れる職場ではなく、清潔で快適な現代的オフィスや販売店で働くようになり、週あたり労働時間も短縮された」。
 19世紀後半、労働者階級の女性は家庭内での重労働に追われていた。洗濯、料理、水くみ、掃除、パン焼き、針仕事、どれもが大仕事だった。上下水道が普及し、ガスが敷かれ、家電製品がそろったことで、女性の家事負担は軽減され、家事を楽しいと思う女性も増えてきた。「20世紀には、女性の家事負担の軽減と男性の市場労働の時間減少という二つの異なるトレンドが重なり、男性が子育て、住宅補修、庭仕事などの家庭内生産に積極的に参加できるようになった」と、著者は指摘する。
 全体的にみれば、世帯あたりの家庭内生産(労働)の時間は1900年の週78時間から2005年の週49時間に減っている。子どもの数が平均4人から2人になったことは、家庭内の仕事量に影響していない。手間は変わらないからである。だが、家庭内の仕事は料理にしても何にしても、より基準の高いものになった。料理も掃除も子どもの世話も、より入念におこなわれるようになったのだ。
 1900年ごろ、熟練工と非熟練工のあいだでは、2倍の賃金の開きがあった。高所得労働者はアメリカン・スタンダードを謳歌できたが、底辺労働者は極貧を生きていた。移民労働者は労働条件が少しでもよいと、簡単によそへ移った。フォードが基本給を上げたのは、労働者の離職率の高さを抑えるためである。
 しかし、いずれにせよ、1940年代までは実質賃金が労働生産性を上回るかたちで伸びた。実質賃金が労働生産性を下回るようになるのは1980年代以降である。これは徐々に経済格差が広がったことを示している。
 実質賃金の伸びがもっとも高かったのは1910年から1940年にかけてである。1920年代の移民制限法と、ニューディール法制による労働組合の奨励も、実質賃金の増加に寄与した。自動車工場などでは、技術変化が労働者に特定の反復作業をうながすいっぽう、企業は労働者の離職率を下げるために賃金を上げなければならなかった。
 1870年に児童労働はごく一般的で、14歳、15歳の少年は半数以上が働いていた。炭鉱でも製鉄所でも織物工場でも農家でも、少年たちのはたらく場所があった。その給料は成人男性の半分ほどで、児童労働を禁止する法律が施行されても、児童労働はなかなかなくならなかった。とくに低所得世帯は、義務教育が終わるとすぐに子どもをはたらかせていた。
 1870年時点で、高校に進学する子どもはごくわずかだった。1910年の高卒率は9%にすぎなかったが、1940年には51%、1970年には約77%に達する。第2次世界大戦後は大学進学率も増えた。
1870年から1940年にかけては、急速に生活水準が向上し、人びとを取り巻く環境が一変した時期である。これをもたらしたのは商品世界の広がりである。加えて、この時期、保険や消費者信用が果たした役割、さらに経済開発をうながした政府の役割もけっして無視できない、と著者は指摘する。
 消費者信用は19世紀後半から広く用いられていた。農家は雑貨店や行商人から必要なものをツケで購入し、次の収穫期に支払っていた。北部の農民のなかには、銀行で資金を借りて、土地を購入する者もいた。しかし、当時の金利は高く、農民はその支払いに追われた。
 地主から借り入れをしている南部の小作人の生活はより悲惨で、借金でがんじがらめになっていた。そのころ都市で、質屋が盛んだったのは、都市の雇用が不安定だったことと関係がある。
 割賦販売は1845年のピアノとオルガンが最初だったという。シンガー・ミシンは1850年からミシンの割賦販売をはじめる。富裕層から労働者階級にまでミシンが広がったのは割賦販売のおかげである。すでにサラ金のようなものもはじまっている。
 大型デパートや通信カタログ販売は、現金販売が原則だったが、競争が激しくなるにつれて、割賦販売も認められるようになった。著者によれば、割賦販売が盛んになるのは耐久消費財への需要が増える1920年代からだという。それによって、「労働者階級の大半が消費者信用を利用できる新しい世界が台頭した」。
 消費者金融は急速に拡大する。大恐慌は1929年後半の株式市場の崩壊によって生じるが、「家計が消費者信用に過度に依存し、負債比率を高めていたことも大きかった」。
 その消費者信用がとりわけ効果を発揮したのが自動車販売である。1924年には4台のうち3台がローンで購入されていたという。
 1920年代から消費者信用は利用しやすくなった。耐久消費財の価格が下落したところに、消費者信用の供与が拡大し、電気冷蔵庫や洗濯機など、新製品の購入が促されることになった。それにより「労働者階級は、信用販売のおかげで、一世代前には存在しなかった新製品を入手できるようになった」。
 アメリカでは1890年にすでに住宅ローンが生まれている。1920年代には住宅建設ブームが起き、信用状況が全般に緩和され、住宅金融は急増している。
 生命保険がいまのようなかたちになるのは、19世紀最後の30年だという。20世紀にはいると、生命保険は急速に普及する。それは比較的少額の支払いで、万一の場合に備える貯蓄と考えられていた。1905年の時点で生命保険会社の資産の対GDP比は10%を超え、1933年には37%と急上昇している。いずれにせよ、1940年ごろまで、生命保険は急速に増大し、皆保険に近いものとなっていく。
 火災保険は17世紀後半にイギリスで誕生するが、現代的なかたちになるのは19世紀からである。1906年のサンフランシスコ地震と火災による被害は、約半分程度が火災保険でカバーされた。
 強制自動車保険が導入されたのは1920年代である。自動車事故の死亡率は現在より20倍以上高かった。そのころから、事故によるけがや死亡、車両損害や医療費の支払い、その他に対応する自動車保険が次々と開発されていった。
 1870年から1940年にかけてアメリカ人の生活水準が上昇したのは、主に民間部門による発明と資本蓄積のおかげだが、そのかん政府は何もしなかったわけではない。「連邦政府をはじめ州政府など公的部門が、成長のプロセスを直接支援するとともに、行き過ぎた成長には歯止めをかけた」。
 たとえば、ホームステッド法、鉄道への土地の無償供与、1906年の純正食品医薬品法、特許局の設立、1920〜33年の禁酒法、さらに反トラスト法や一連のニューディール法制などをみても、政府は積極的に経済にかかわっている。その評価は分かれる(とりわけ禁酒法にたいする批判は強い)が、政府の介入は概して近代化を促進するとともに、プラスの外部効果をもたらした。
 製品規格の統一、食品衛生、医療、上下水道の整備、道路の整備、電化などの面で政府の果たした役割は大きい。著者が評価するのはとりわけ1933年から1940年にかけてのニューディール法制である。これにより預金者の預金保護や社会保障制度も確立された。雇用を創出し、失業を減らす対策がとられたのもニューディール政策の特徴だった。
 日本でも政府が経済にかかわらなかったわけではない。しかし、その方向は軍事国家の増強と植民地の拡大に向けられていた。
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