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従軍慰安婦問題をめぐって──中村稔『私の日韓歴史認識』(増補新版)断想(2) [本]

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[写真はウィキペディアから]

 従軍慰安婦問題はすでに政治問題ではないというのが著者の見解とみてよいだろう。それは(遺憾ながら)政治的には日韓基本条約とそれにともなう日韓請求権協定によって決着されているのだ。
 だからといって、あたかも従軍慰安婦など存在しなかったとみるのは、まちがいである。歴史をなかったことにはできない。
 韓国(朝鮮)に関して、日本人に欠けているのは歴史的反省である。植民地化があやまりだったということを認めたうえで、従軍慰安婦問題をとらえなければならない、と著者は考えている。
 1993年の「河野洋平官房長官が発表した、いわゆる河野談話は、従軍慰安婦の問題に関する限りにおいて、私たち日本人の責任を認めるのにほぼ充分な表現であった」と、著者はいう。
 河野談話は「長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したこと」を認め、「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」というメッセージで締めくくられる。
 河野談話の歴史認識は次のようなものだ。もう一度、思い起こしてみよう。

〈慰安所は、当時の軍当局の要請により設置されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。〉

 きわめてまっとうな認識といわねばならない。
 だが、日本ではこの談話への反発が根強い。安倍政権は、表向きこの談話を引き継ぐとはしているものの、事実上、上からふたをして、無視するかたちになっているとみてよい。。
 本書において、著者は『日本軍「慰安婦」関係資料集成』(すべて公文書)にもとづいて、歴史としての従軍慰安婦の像をできるだけ正確にたぐろうとしている。
 最初に中国大陸の戦線で、日本軍兵士による強姦事件が頻発し、軍はその対策に苦慮したものの、案件のほとんどが情状酌量されていたことが紹介されている。
 そうしたなか、軍は慰安所の設置を決める。従軍慰安婦を集める際、軍は直接関与を避け、あくまでも斡旋業者(いわゆる女衒)を利用した。とはいえ、「慰安所設置は日本政府の全面的了解にもとづいて行われた」ことはまちがいない、と著者はいう。
 慰安婦は日本国内からも集められた。その実態について、著者はこう解説する。
 日本内地では、営業許可を受けた周旋人が従軍慰安婦を募集し、抱え主が慰安婦を前借金で拘束する形式をとっていた。慰安所を経営したのは、こうした抱え主であり、前借金の額は500円ないし1000円(現在の感覚では100万円ないし200万円)、慰安婦の年齢は満16歳から30歳までとされていた。
 契約期間は通常2年だが、借金が完済されないまま延長される場合が多かったという。稼ぎ高の9割は抱え主がとり、本人の所得は1割で、そこから衣装代、食事代などを引かれて毎月清算がなされた。
 売春の代金は、将校が5円、下士官が3円、兵士が2円とランクによって分かれていた。一般兵士の場合、中国人慰安婦は1円、朝鮮人慰安婦は1円50銭だったという。
 しかし、「資料集成」には、朝鮮人慰安婦の記録がない。そこで著者は当時の雑誌や新聞から、朝鮮の公娼や従軍慰安婦の実態をさぐろうとしている。
 朝鮮でも、斡旋業者が窮乏した農民に数百円の前借金を払ったり、あるいは甘言でだましたりして、その娘を遊郭の抱え主に売ることが昔からおこなわれていたという。従軍慰安婦もこんなふうにして、斡旋業者によって集められた、と著者はみる。
 いわゆる強制連行はなかった。「ただ、業者が軍属の服装をすることが許されていたように、募集にさいして、内地と同様、軍の威信を利用したり、誘拐同然の方法を用いたこともありえたと私は考える」と、著者はコメントする。
 慰安所は軍が直営したわけではない。軍専用の慰安所を業者が経営するか、軍が民間の遊郭などを一時的に慰安所として指定するケースが一般的だったという。
 慰安所の営業については、それぞれ現地部隊の内務規定によって、営業時間や階級ごとの利用時間、遊興費は一切現金といった細かい規則が定められていた。
「業婦」は月3回、検黴(梅毒検査)を受けること、「使用者」は必ず衛生サックを着用すること、「営業婦」はみだりに柵外をうろついてはならぬこと、「営業主」は「誠意をもって明朗なる営業を営む」ことなどが規定されていた。
 なかには、こんな規定もあった(原文は漢字とカタカナ、読点を加えた。[]内は注である)。

〈業婦[慰安婦]はよく使用者[兵士]の立場を理解し、何人にも公平を第一とし、使用者をして最大の御奉公[軍事活動]を為さしむることを念願し、如何なる事情に依るも身を誤らしめ、御奉公を欠かしめるが如き[厭戦気分をいだかせるような]こと絶体なき様、万事細心の注意を以て取扱ふものとす〉

 まるで「おもてなしの心得」のような、こういう「丁寧な説明」を何といえばいいのだろう。ブラックユーモアの域をはるかに超えている。
 従軍慰安婦の労働は苛酷だった。休日は月1回しかないし、月3回、憲兵立ち会いのもと梅毒検査を受けなければならなかった。労働時間は1日12時間である。しかも前借金でしばられ、この泥沼から抜けだすことはほとんど不可能だった。現在の人権感覚からすれば、「性奴隷」と呼んでもおかしくない、と著者も認めている。

 ここで著者は朝鮮人勤労挺身隊に焦点を当てている。これは従軍慰安婦とはまったくことなる存在である。
 日本政府は1944年8月23日に「女子勤労挺身勤労令」なるものを発令した。これにもとづいて、日本内地だけではなく、朝鮮でも女子勤労挺身隊が組織されることになった。だが、この勅令が発令される前の1943年3月末段階で、内地だけで隊員数はすでに29万2000人あまりいたとされる。
 朝鮮の女子勤労挺身隊員がどれくらいいたか、はっきりした数はわかっていない。しかし、長崎では原爆により300人あまりの朝鮮人女学生が爆死したといわれる。和歌山県の軍需工場や相模原海軍工廠、満洲の南満紡績工場、仁川の帝国繊維工場、京城や光州の鐘淵紡績工場でも、朝鮮人の女子勤労挺身隊員が苛酷な労働条件のもとで働いていた。ほかにも沼津の東京麻糸、富山の不二越鋼材工業、三菱重工業名古屋航空機製作所などで朝鮮の少女たちが働いていることが確認されている。その労働は苛酷で、食事は劣悪、少なくともあとの3社は給料を支払っていない。
 女子勤労挺身隊員の年齢は14歳以上の未婚女子と決められていたが、実際には満13歳から15歳がほとんどだったという。
 応募者は貧しい家庭の少女が多く、日本の工場に行けば女学校にはいれるということばにつられて応募した者もいた。警官や里長などに強迫されて応募した例もあった。愛国心から応募した少女もいなかったわけではない。たしかに、挺身隊への応募は強制ではなかった。
 ここで著者は、重要なことを書いている。

〈韓国挺身隊問題協議会を中心とする韓国の人々は従軍慰安婦と女子勤労挺身隊とを混同していると思われる。ソウルに2011年冬にブロンズの少女像の記念碑を建てたのも、2014年にアメリカに同様のブロンズ像を建てたのも、挺身隊の名の下に募集した韓国・朝鮮の少女たちを従軍慰安婦として性奴隷化したという誤解にもとづいているとしか思われない。しかし、従軍慰安婦は挺身隊に動員された少女たちとはまったく関係ない。〉

 真相はたしてどうなのか。
 ぼくも著者の見方が正しいと思う。
 だからといって、著者はブロンズ像設置を糾弾するわけではない。
 まずあやまるべきは日本だからだ。
 著者はいう。

〈日本政府が日韓基本条約の法的効力をあくまでその建前通り押し通すとしても、私たち日本人が植民地支配の責任を認めてならないことにはならない。これは統監府、総督府の失敗、私たちが朝鮮半島の人々に抱いてきた差別的意識と待遇、たとえば関東大震災にさいしての在日朝鮮人虐殺等から強制徴用、従軍慰安婦問題等に至るまでの責任を、市民としての私たちが認め、その償いをするのが、私たちの良心の命じるところだからである。〉

 対立の応酬は不毛である。何とか解決の糸口を見いださなければならない。

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