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日本統治下朝鮮の戦時動員──中村稔『私の日韓歴史認識』(増補新版)断想(3) [本]

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 1939年(昭和14年)に朝鮮で公布され、翌年から実施された「創氏改名」とは、どのようなものだったろうか。
 朝鮮人がもともと持っている姓名にたいして、新たに「氏」を創設させ、「名」の変更を認めるのが、この制度の眼目である。大日本帝国は、これによって朝鮮人の皇民化を促進しようとした。
 日本では姓と氏とが混同されているが、姓と氏がちがうというのは、知らなかった。中国や朝鮮では名前に姓をもちいる。したがって、氏を用いる日本では、一般に結婚したり養子にはいったりすると姓が変わるが、中国や朝鮮では姓は変わらない。
 朝鮮(韓国)の人の名前は、

 本貫と姓と名

から成り立っている。本貫とは氏族集団の発祥地を指す。
 韓国・朝鮮で、広い意味での姓は、この本貫プラス姓をさす。同じ金でも本貫(金海、慶州、安東などなど)がちがえば結婚できるが、本貫が同じであれば結婚できない。
 日本帝国時代の創氏改名は、公には姓を使用せず、新たに氏をつくらねばならないとする政策だった(しかし姓がなくなるわけではない)。
 これによって、8割の家族が新たに氏をつくり、残りの2割は従来の姓を氏としたとされる。そのため、山本七平の『洪思翊(こうしよく)中将の処刑』で知られる洪思翊は、姓である洪をそのまま氏にしたことになる。
 名前を変えるかどうかは自由だった。しかし、氏の創設は強制的だった。
 朝鮮総督府は、創氏改名の理由を(1)内地人との一体を求める半島人の希望が多いこと(2)婿養子を迎える道を開いてもらいたいという要望があること(3)家の観念を確立するため、などと説明した。そして創氏しない者(姓をそのまま氏としてもよいが)にたいしては、厳正に対処するとした。
 著者はこう書いている。

〈これにより朝鮮人社会に「氏」が導入されたことは間違いない。創氏の結果、朝鮮人社会における親族制度の基本をなす文化である「姓」は有名無実となった。このような伝統・文化の基本を破壊するような政策は、植民地統治の方策として愚劣きわまるものであり、朝鮮人の反感を招いても致し方ないものであった。〉

 日本人との協力体制を推し進めるため、朝鮮人(韓国人)が創氏を喜んで受けいれたというのは、あまりにも厚顔な言い草だろう。

 第5章を読んでいる。
 ここで取りあげられているのは、ブランドン・パーマーの『日本統治下朝鮮の戦時動員』である。民族主義史観ではなく、修正主義史観にもとづく歴史書だという。
 著者は「[パーマーの]修正主義史観もまた、民族主義史観と同様、ある種の偏向があるように感じ、かなりの記述に同意できなかった」と率直な感想を述べている。この感想からも著者の立場をうかがうことができるだろう。
 とはいえ、そのパーマーですら「日本の植民地当局は日本軍の兵士あるいは軍属として少なくとも36万人の朝鮮人を召集し、さらに75万人を動員して日本国内の炭鉱や軍需産業で就労させた」ことを認めている。
 パーマーによると、「動員に対する朝鮮人側の対応は、積極的な協力から断固たる抵抗まで、幅広いものだった」が、「圧倒的多数の朝鮮人は、当局の強要と、無用の監視の目を避けるため、動員政策を既成事実とみなし、これに黙って従ったのだった」。
 いっぽう、植民地当局は朝鮮人の蜂起を恐れ、徴兵や労働力の動員には細心の注意を払わねばならなかった。
 朝鮮人が日本軍に召集されたのは1938年以降である。儒教社会の伝統、日本語の読み書き能力、教育課程の壁が、それまで徴兵の障害になっていた。
 朝鮮人特別志願兵制度ができたのは1938年である。これにより、日本陸軍は1943年までに1万7664名の朝鮮人志願兵を受けいれ、1943年に学徒特別志願兵として4385名、また海軍特別志願兵として2000名の入隊を許可した。
 志願兵は強制ではなかった。しかし、朝鮮人の応募の動機はさまざまであり、かならずしも自発的とは言いがたかった、と著者はいう。
 そして1943年8月1日には、朝鮮にもついに徴兵制が敷かれた。問題は日本語の理解力と戸籍の不備だった。27万3139通の召集令状のうち15%が戸籍不備、ないし徴兵忌避によって、宛先不明となった。
 徴兵検査が実施されたのは、翌1944年4月から8月にかけてである。現役兵になるのを避けるため、故意に不合格になろうとした者が多かったという。
 朝鮮では、推定合計28万6000名から36万7000名が陸海軍兵士や軍属となったとされる。その大半は、朝鮮半島ないし日本本土で、戦闘支援部隊の役割をはたした。とはいえ、特攻隊員になった者もいる。
 日本の公式文書によると、朝鮮兵の戦死者は2万2182名。かれらは靖国神社に祀られたが、遺族にたいし、戦後になってからの恩給は支払われなかった。
 戦時中、朝鮮では労働動員がなされた。朝鮮総督府は推定410万人から700万人を動員し、朝鮮各地で働かせた。さらに日本と南太平洋地域に100万人以上の朝鮮人労働者を徴用している。
 国家総動員法のもと、朝鮮労働者は戦時の労働力に組みこまれていった。日本企業によって直接雇用される場合もあった。当局によって徴用されることもあった。しかし、企業の人集めなどでも、総督府の官僚組織末端は積極的に協力し、割り当てられた人数ノルマを実現するため、「強制連行」に近い行動をとることもあったという。
 1939年から1945年にかけ、日本に送られた朝鮮人労働者は、企業によって直接雇用された者を含め、約67万人と推定される。そのほか約7万人が内地の軍要員・兵士となっていた。
 炭鉱ではたらく朝鮮人労働者は、1944年段階で13万4477名(全炭鉱労働者の33%)だった。かれらは主に切羽(きりは)と呼ばれる危険な地下の石炭採掘現場で仕事をさせられていた。
 いちおう2年間の労働契約書が結ばれていた。だが、その契約は企業の都合によって、自動的に延長された。
 炭鉱においても民族差別は歴然としていた。労働時間は12時間で、しかもノルマを達成しなければ地上に上がれなかった。
 賃金が支払われなかったわけではない。しかし、そこから「愛国貯金」が控除され、さらに「強制貯金」を強要され、加えて自発的な「普通貯金」が推奨された。「愛国貯金」と「強制貯金」は会社が管理し、「普通貯金」も会社が認めないかぎり、引き出しができなかった。
 しかも、最終的に、これらの貯金を半数以上の朝鮮人労働者が受け取れなかった。
 したがって、契約にもとづき朝鮮人がはたらいて報酬を得ていたと主張するのは、あくまでも形式である。その実態は給料不払いの強制労働に近いものだった、と著者は指摘している。
 その背景には植民地支配の力の論理がある。

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