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吉野作造の朝鮮論(1)──中村稔『私の日韓歴史認識』(増補新版)断想(4) [本]

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 ぼくの読書はゆっくりとしか進まない。それに最近は毎日が茫々とすぎていく。2、3日前のこともあまり覚えていない。最近の政治には腹が立つが、それもすぐに忘れてプライムビデオやゲームに興じている。本を読むのは、1日1時間ほどだ。それも、いつしかうとうと、夢のなか。
 そんな情けない状況ながら、きょうは中村稔の本を1章だけ読んだ。メモをとるのは、何もかもすぐ忘れてしまうからだ。
 吉野作造の朝鮮論について記しておきたい。
 ここで紹介されている論考は次の3つである。

(1)「満韓を視察して」(「中央公論」1916年6月号)
(2)「朝鮮暴動前後策」「対外的良心の発揮」(「中央公論」1919年4月号)
(3)「朝鮮人虐殺事件に就いて」(「中央公論」1923年11月号)

(1)が1910年の日韓併合から5年後の現地ルポであり、(2)が1919年3月の三・一独立運動を受けての所感であり、(3)が1923年9月の関東大震災発生に伴う朝鮮人虐殺についての抗議であることは容易に想像がつくだろう。
 吉野作造(1878〜1933)は、常に時代と向きあいつづけた気鋭の政治学者だった。いつの時代も世の中を動かしているのは力の論理である。そんな力の論理に、かれは絶えざる良心の声(愛や正義、道義といってもよい)を対置し、政治のあり方を変えたいと願っていた。それが民本主義の思想だ、とぼくは理解している。
 けっして権力闘争の人ではない。いつしか左右の政治の力が、かれを排除の方向に追いこんでいったが、かれは最後まで屈しなかった。
 まず1916年3月末から4月末にかけての朝鮮視察をみておこう。当時東大教授の吉野は、何を感じていたのだろう。
 視察の目的は、朝鮮人の識者と会い、日本の統治にたいする意見を聞くことにあったという。
 吉野が朝鮮にはいってまず感じたことは、朝鮮総督府を通じて、日本の「威力」がみなぎっていることだった。植民地政府の近代化政策により、朝鮮では鉄道や道路、病院がつくられ、殖産興業も盛んになり、公共の秩序も維持されていた。
 ところが、朝鮮人と話してみると、いまなお「日本の統治に対していろいろの不平を言う者が案外に少く無い」。
 たとえば、総督府は道路を建設するさいに、強制的に立ち退きを命じ、地元住民をただでこきつかっている。道路建設はなるほど将来役に立つかもしれない。しかし、やり方に注意しなければ、とかく不平の種になる。日本のやり方は最初に計画ありきで、とかく強引なのである。
 こう書いている。

〈無論朝鮮人は所謂(いわゆる)亡国の民である。表向は彼等の希望によって我国に併合したのであるけれども、事実上は日本から併呑されたのである。従って日本人が何かにつけて一段朝鮮人の上に居るといふことは事実已(や)むを得ない。然しながら日本人が一段上に居るといふことは、朝鮮人を軽蔑してもいい、圧迫してもいいということではない。〉

 植民地の権力感覚は露骨だった。
たとえ政府の官吏になっても、朝鮮人は差別され、いくら能力があってもけっして高等官にはなれなかった。
 そのほか、日常においても、朝鮮人にたいする日本人の横暴虐待ぶりは目にあまるものがあった。これでは、日本の統治への不満が募るはずである。
 暴虐はいましめるべきだ、と吉野はいう。言論に圧迫を加えるのもやめるべきだ。憲兵による治安維持強化は、人びとの不平や怨みをつのらせるばかりである。
 総督が日本に帰国したり、また日本から帰任するときに、官吏ばかりか小学校の生徒にまで停車場で送迎させたりするのは、権威主義の現れそのものにほかならない。
 何につけ官吏万能主義、民間より官吏が偉いという考え方が横行している。その結果は、行き過ぎた干渉である。
 日本の内地以上に、朝鮮では言論の自由が極端に拘束され、内地からの新聞雑誌にも厳重な検閲がおこなわれている。
 さらに朝鮮では内地よりも関税が高く課せられ、地租の評価もはなはだ不当だった。これにたいし、朝鮮の民衆はいささかの文句もつけることができなかった。
 吉野は暗に、総督府が朝鮮民衆に支持されていないことを示唆している。
 差別意識が強いなかでの同化政策がうまくいくはずもなかった。何につけ、同化よりも差別が優先されたからである。

〈異民族に接触せる経験も浅く、殊(こと)に動(やや)もすれば他の民族を劣等視して徒(いたず)らに彼等の反抗心を挑発するのみを能とする狭量なる民族が、短日月の間に他の民族を同化するなどと言ふことは、殆(ほとん)ど言ふべくして行ふべからざる事である。〉

 もちろん、吉野は日本人を「狭量なる民族」とみているのである。
 皇民化教育は、朝鮮の人びとをますます反日的にしていた。
 吉野の紀行は、次のような文章で結ばれている。

〈凡(およ)そ植民的経営に成功するものは、一視同仁殆(ほとん)ど国籍の差別を忘れて懸るの心掛がなければならない。我に於て誰彼の差別を忘れれば、相手方も亦我の外人たることを忘れてかかる。……此点に於て我同胞は余りに自己を他と区別するの意識が強烈である。此事自身のいいか悪いかは別問題である。然(しか)し苟(いやしく)も海外発展に成功するを以て、帝国将来の必要の国是なりとする以上、彼我の区別を忘るるまでに公正に出るといふことは極めて必要であると信ずる。〉

 吉野が1916年の朝鮮視察で感じたのは、日本人の朝鮮人差別意識があまりに強烈であるのに加えて、武断政治が横行していたことである。
 その反発が1919年3月の三・一独立運動となって爆発するのは、とうぜんの流れだった。

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