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「純粋な幸福」をめぐる妄想 [本]

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 詩や文学はわからない。想像力に欠けるため、どうも苦手なのだ。
 それでも、辺見庸の詩集『純粋な幸福』のなかから、長詩「純粋な幸福」を読んでみる。理会にはほど遠いから、以下はただの思い込み、ないし妄想である。
 この長詩はちいさな映画館で、ひとり映画に魅入るようにして読むのがいい。そんなふうに、自分の頭のなかにもスクリーンを広げて、次々くり広げられるスペクタクルを、大笑いしたり、唖然としたり、あきれたりしながら、楽しむべきではないか。そんなふうに思ったりする。
 出演者は生きている死者たちである。死者たちは死んでいない。むしろ、作者のなかで、生きていた昔より溌剌、奔放になっている。
 かれらは松林のなかでつがい、バスに乗って町にでかけ、燃えさかる町に突入し、古い映画館で無声映画を見て、草原で凧になって散華する人たちを眺める。
 ほんとうは、そんなふうに要約することに何の意味もない。ことばは根のように広がり、からまり、爆発し、つながっているからだ。その混沌が楽しい。音が美しい。笑える。ことば遊び、エロス、歌と踊り、バイオレンスにあふれている。
 ハッピーな詩集である。
 肝心なことを書き忘れていた。
 純粋な幸福とは何のことか。
 味も素っ気もなくいってしまえば、それは「天皇の国にいる喜び」にほかならない。思い込みかもしれないが、ぼくは勝手にそう感じている。もちろん反語である。
 たとえば正月の一般参賀で、天皇は「年頭に当たり我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」との「おことば」を発するのが恒例になっている。
 なぜ、われら国民や世界の人びとが天皇に「安寧と幸せ」を祈られなければならないのか。その「おことば」だけでなく、パレードや行幸、被災地訪問に、われわれが「純粋な幸福」を感じるのは、どうしてなのか。
 皇居前広場の祝典で「嵐」もこんなふうに歌った。

  ごらんよ僕らは君のそばにいる
  君が笑えば世界は輝く
  誰かの幸せが今を照らす
  僕らのよろこびよ君に届け

 これが皇室から発せられる「純粋な幸福」のメッセージでなくて何だろう。奉祝はそんな皇室がいつまでもつづくことを願う祭典にほかならない。
 そんなときに縁起でもないかもしれないが、なぜかぼくは1970年11月25日に自裁した三島由紀夫のことを思いおこす。
 ミシマは見えざる日本の神に、鍛え上げた最高の知性と肉体を人身御供として捧げることに人生の価値を見いだしたのだった。その目的は日本文化の永遠と安寧を祈ることにあった。
 皇室にとっては、さぞ迷惑なことだったろう。腹を切ったとき、ミシマは「純粋な幸福」を感じていたのだろうか。
 長詩の一節。

……たくさんの、あおむいたひとの筏。無数の人の艀。足─海側。あたま─山側。河口の造船所ほうこうにながれてゆく。上流からくだってくる、ぼうぼうと発光する幾千の、目をみひらき、あおむいたにんげんたち。あおむいてながれて、戦争をうたふ、純粋な幸福の(無)意識たち。……

 臠という漢字があるそうだ。一片の肉。「れん」と読むのだそうだ。
 この字にはもうひとつの読み方がある。すなわち「みそなわす」。つまり、神なる存在が、ごらんになる。
 われらはかんかんのうを踊らされる臠にすぎない。それを賢きあたりが「みそなわす」のが、永くつづくこの国の風俗である。
 そんなことは、もうやめにしないか。
 エロスと卑俗と哄笑の大爆発が、18禁のスクリーンいっぱいに広がる。

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