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1968年──イアン・カーショー『分断と統合の試練』を読む [われらの時代]

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 本書は1950年から2017年までの戦後ヨーロッパ史である。戦前を扱った前著『地獄の淵から』の続編だが、ぼくにとってはほとんど同時代史といってもよい。
 その第6章「異議申し立て」をつまみ食いで読んでみた。

〈1960年代後半、ヨーロッパは東西ともに第2次世界大戦の終結直後のどの時期にも増して、大きな政治的動揺期を経験する。……その動揺は70年代初めごろには再び沈静化に向かっていたが、その遺産は多面的で、長く尾を引いた。〉

 つまり、ヨーロッパも1960年代後半に若者たちの反乱を経験したのだ。
 戦後第一世代の若者は権力や服従、義務などを旧弊なものと感じるようになり、それらにたいする反抗や反乱も辞さなかった、と著者は書いている。
 それが爆発したのは1968年である。若者たちの直接行動はアメリカ(米国)、日本、フランス、西ドイツ、イタリア、さらにはポーランドやチェコスロヴァキアまで広がった。
 ヨーロッパで不満が爆発したのは大学内である。「多くの学生の目には、大学の管理運営は、反動的、束縛的に映った」
 抗議活動は国境を越えて広がった。それは、資本主義に異議を唱え、ソ連型社会主義を否定する新左翼の運動となって爆発した。かれら若者の偶像はマルクスをはじめ、チェ・ゲバラ、トロツキーやローザ・ルクセンブルク、あるいはグラムシだった。
 サルトル、アルチュセール、フーコー、マルクーゼらが新左翼の若者たちをを支持した。そこには政治革命を超えて、社会全体の変革をめざそうとする動きがあった、と著者はいう。
 学生たちの活動を支えたもうひとつの源がベトナム反戦運動である。1965年にアメリカはベトナムに48万5000人の兵士を投入していた。
 これにたいし、カリフォルニア州バークレーでもニューヨークでも、大規模な抗議運動が巻き起こった。そして、その運動はアメリカにとどまらず、西ドイツ、フランス、イタリア、日本にも広がった。
「ベトナムは不満を抱いた学生たちを──ともかくも彼らの一部を──革命家志望に変えたのである」と、著者はいう。
 1968年5月、パリは爆発する。学生たちの抗議活動に1000万人の労働者がストライキと工場占拠で呼応した。だが、それはごく短期間で収束する。革命を標榜する新左翼はごく少数にすぎず、広範な社会層を持続的に動員する能力を欠いていた。
 それでも学生運動は盛り上がっていた。
 イタリアでは1967年を通じ、大学のストが広がった。68年2月に警察がローマ大学の建物を占拠する学生たちを強制排除したことをきっかけに、3月には警察と学生集団の全面衝突がおこり、学生数百人が負傷した。
 そのあと学生運動はエスカレートする。「自然発生的な抗議活動が、組織化された革命的扇動に変わったのだ」
 1968年後半から69年秋にかけ、イタリアでは750万人の労働者が「山猫スト」に加わり、賃上げや職場環境の改善を勝ちとった。
 1969年から70年にかけ、政府は労働者の要求にこたえ、さまざまな改革に取り組むようになる。これにより、革命への期待は消滅していった。
 だが、逆に左右の急進派は「極端な暴力形態」に走るようになる。
 1969年4月から12月にかけ、ミラノでは3度の爆弾事件が発生、16人が死亡、百数十人が負傷した。これらの事件にはネオ・ファシストのグループがかかわっていた。
 左翼からは「赤い旅団」が生まれる。この武装組織はまもなく爆破や暗殺、誘拐を実行するようになる。最悪の事件が1978年のモロ前首相の誘拐と暗殺だった。
 イタリアやフランスとちがい、西ドイツの学生運動は広範な労働運動と結びつかなかったが、よりイデオロギー的なものとなった。
 1967年、警官によるある射殺事件がきっかけになって、学生たちは巨大新聞グループ、アクセル・シュプリンガー社に攻撃を加える。その先頭にたったのが、ルディ・ドゥチュケである。哲学者のハーバーマスはかれらの過激な行動を「左翼ファシズム」と批判した。
 1968年4月、ドゥチュケはネオナチの青年に頭部を撃たれて重傷を負った。その前から西ドイツの学生運動はさらに過激となっており、フランクフルトでは消費主義の象徴として、ふたつのデパートが焼き討ちにあっている。
「赤軍派」(バーダーマインホフ)も生まれた。68年5月には、首都ボンに向けた大規模な行進も計画された。だが、労働組合はこれに同調しなかった。
 1969年3月には、社会民主党のヴィリー・ブラントによる穏健なリベラル派連立政権が発足する。72年にはいると、赤軍派は多くの逮捕者を出した。
 77年にはパレスチナ解放人民戦線(PFLP)によるルフトハンザ航空機ハイジャック事件が起きた。西ドイツでは産業連盟会長のシュライヤーが殺害された。シュライヤーは元ナチス親衛隊員だった。
 そして、赤軍派(バーダーマインホフ)の指導者も獄中で劇的な最後を遂げる。自殺の申し合わせがあったといわれる。
 このあたり、日本の連合赤軍の軌跡と似かよっているのは、けっして偶然ではないだろう。
 しかし、フランスの1968年は明るく元気だった。ほかの国とちがい、テロにはつながらない。
 5月革命の引き金となったのは、パリ・ナンテール大学での改善要求である。パリ郊外のナンテールにつくられた大学の環境は劣悪だった。工場のような建物とすし詰めの講義室、家父長的な管理体制、そして学生数の急増が、急進化をもたらす土台となった。
 そのきっかけは、学生寮での男女区別の廃止を要求したダニエル・コーンバンディを大学当局が放校処分にしようとしたことである。そのことが学生たちの反発を招き、キャンパス閉鎖をきっかけに、騒乱は郊外のナンテールから中心部のソルボンヌに広がった。
 68年5月、学生と警官隊が衝突し、カルチェ・ラタンにバリケードが築かれる。大衆の共感は学生側に集まり、労働組合は24時間の連帯全国ゼネストに突入した。
 デモと暴動、ストライキ、職場占拠の盛り上がりで、ドゴール政権は一時ぐらつく。だが、ドゴールはすぐに態勢を立て直し、ラジオ放送で秩序を回復しようと国民に呼びかけ、総選挙を実施することを表明した。
 警察は大学の建物を占拠する学生を排除、大方の労働者は職場に戻った。6月の総選挙はドゴール圧勝で終わる。
 だが、ドゴールの時代も1969年4月までだった。大統領権限の強化を求める法案は国民投票で拒否され、ドゴールは辞任する。国民はドゴール体制の強化を望まなかった。
 いっぽうイギリスやオランダでは、1968年に大規模な学生運動はおこらなかった。入学者の少ないイギリスの大学では、学生と教員の接触が緊密で、しかも頻繁だった。オランダでは政府が若者文化に寛容だったことが大きい。
 とはいえ、イギリスでもベトナム反戦運動がなかったわけではない。ロンドン中心部でも、ベトナム戦争に反対する集会は何度も開かれ、68年10月には25万人が集会に参加している。しかし、それは深刻な暴力にはつながらなかった。
 最後に、はたして1968年にはどんな意味があったのだろう、と著者は問うている。
 たしかに、講義室や図書館の過密状態を緩和するなど、大学環境の改善がなされた面はある。ほかにもさまざまな改革がなされた。そのいっぽうで、大学の管理強化も進んだ。
 しかし、そもそも反乱の季節を導いたのは、「世界を、あるいは少なくとも自分たちの社会を変える」という「大志」だったと著者はいう。
 68年世代はせいぜい夢想家で、うぶなロマンチストであり、そのユートピア的希望は単なる幻想にすぎなかったという見方を、著者はかならずしも否定しない。
 それでも68年のうねりは、ベトナム戦争終結に向けての動きをつくりだしたし、労働者の賃金や労働条件の改善をもたらすきっかけともなった。
 68年世代の「反権威主義的、平等主義的、自由主義的な考え方」は消えることがなかった。それは男女同権や、人種的マイノリティ、LGBTの権利を求める動きとなって広がっていく。
「戦争ではなく愛を」というスローガンは、アメリカのヒッピーだけのものではなかった。「緑の運動」もまた68年世代からはじまっている。
 結論として、著者はこう書いている。

〈1968年の若き抗議参加者と自称革命家たちは、年齢を重ねるにつけ、自らの価値観を日常生活と、おおむね平凡な職業に持ち込んだ。あの年、若者の反乱を形づくっていた考え方は、長く続く消しがたい影響力を有したのだ。……彼らは、価値観の変化が抗議運動そのものとともに死滅しはしないことを保証する「増幅器」なのであった。〉

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