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もうひとつの1968年──イアン・カーショー『分断と統合の試練』を読む(2) [われらの時代]

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[1968年8月、プラハ。ウィキペディアより]
 ヨーロッパの1968年はパリの5月革命だけに代表されるわけではない。
もうひとつの1968年、それが「プラハの春」だった。
 当時の社会主義圏、すなわち東側ブロックで、抗議の声を発するには相当の勇気が必要だった。抗議の場に加われば、国家による厳しい報復を覚悟しなければならなかった。
 1960年代末、チェコスロヴァキアとハンガリー、ユーゴスラヴィアでは、部分的に自由化が認められようとしていた。わずかとはいえ、西側のポピュラー音楽を聞いたり、映画も見たりもできるようになっていた。東ドイツでも、こっそり西側のラジオやテレビを受信できたという。
 チェコスロヴァキアでは、1967年に学生寮の改善を要求して学生が立ちあがったが、たちまち警察によって鎮圧された。それでも民主化と自由化を求める声はやむことがなかった。
 共産党のアレクサンデル・ドプチェクも改革の必要性を感じていた。党による支配を維持するには、ある程度の民主化と自由化が必要だと考えていたのだ。
 1968年1月に党第一書記に就任したドプチェクは、事実上検閲を廃止する。新聞にも党に批判的な記事が出てくる。これをみたソ連はじめ衛星諸国の共産党指導者は狼狽する。
 68年4月には「人間の顔をした社会主義」をめざすという党の行動綱領が採択された。そこには国民の「権利、自由、利益」を保証することが謳われていた。その年のメーデーは、まさに「プラハの春」を祝うものとなった。
 だが、ソ連と周辺諸国はチェコスロヴァキアの動きに懸念をつのらせる。8月20日夜から21日にかけ、「プロレタリアートの国際的連帯」をかかげて、ワルシャワ条約軍がチェコスロヴァキアへの侵攻を開始する。50万人の兵士、7500両の戦車と1000機の航空機が投入されていた。
 ラジオでは武力抵抗をしないよう呼びかけられていた。ドプチェクら党幹部はモスクワに連行され、「プラハの春」の改革は白紙に戻された。
 そのあとは「正常化」の圧力が強まり、党員の粛清がつづく。検閲と旅行制限、共産党による揺るぎない支配がふたたび確立された。監視国家の閉鎖空間がまた戻ってきたのだ。
「プラハの春」の鎮圧は、共産圏ではいかなる自由化も認められないというメッセージにほかならなかった。その後は、一定の経済改革は別として、ブロック内では全般に体制の締めつけが強化された。
 ブルガリアは徹底した警察国家だった。
 だが、ハンガリーでは、カダル政権のもと、中央経済計画を維持しながらも企業による経済活動が認められるようになった。
 ポーランドのゴムウカ政権は、「異論を厳しく管理し、学生の抗議活動を容赦なくつぶし、チェコスロヴァキア侵攻を熱心に支持した」。しかし、ポーランドでは、1970年のクリスマス直前、食料価格を12〜30%値上げすると発表したことから、大規模な抗議運動が巻き起こり、多くの死傷者が出た。後任のギエレク政権は、ソ連からの借款で事態収拾にあたらなければならなかった。
 東ドイツは1963年に「新経済システム」を導入し、一定の非中央集権化と増産対策に取り組もうとしていた。高等教育を受ける割合も増えてくる。テレビや洗濯機、冷蔵庫も普及しはじめていた。
 しかし、それにも限界がある。中央集権を基本とする経済は、電子工業と化学工業、エンジニアリングに偏重し、消費財産業には資源が回らない。いっぽう軍と治安警察(シュタージ)は増強されていた。
71年5月には、ウルブリヒトに代わりドイツ社会主義統一党の書記長にホーネッカーが就任する。
 バルカン半島では、アルバニアが中国寄りの独自路線を歩み、孤立した赤貧状態を堅持していた。ルーマニアはチャウシェスクのもと、独自の民族共産主義の道を歩むようになる。
 ティトー大統領の率いるユーゴスラヴィアはソ連と一線を画していた。西側との接触もさかんで、分権化による経済運営が実施されていた。
 しかし、経済生産性は伸びず、60年代末にはインフレが昂進する。そんななか、ユーゴのなかではもっとも豊かなクロアチアが自治権拡大を求めるようになる。ザグレブでは1971年に学生が大学を占拠、ゼネストが呼びかけられがが、ティトーはこれを抑え、党幹部を粛清した。

 西欧でも東欧でも68年の混乱は、短期間で収まったかのようにみえる。
 共産圏の「現存社会主義」体制は永久につづくと思われた。西欧では一部の国を除いて、民主的な統治体制が保たれ、急進派は排除されていた。
 だが、時代は動いていく。
 西欧の70年代前半は基本的に社会民主主義の時代だった。著者によれば「大きな政府の下で、巨額の政府支出(それに高い税率)で社会福祉をまかない、社会の貧困層の生活水準を改善する」ことが社会民主主義の目標だった。
 イギリスでは、1964年に総選挙で辛勝したハロルド・ウィルソンの労働党が66年に大幅に議席数を伸ばし、引きつづき政権を維持していた。しかし、1970年にはエドワード・ヒースの保守党が政権を奪還する。
 西ドイツでは1969年にヴィリー・ブラント率いる社会民主党が連立政権を発足させた。ブラントは70年に「東方政策」を掲げ、東ドイツやチェコスロヴァキア、ポーランドとの関係正常化に乗りだすことになる。
 オーストリアでも1970年の総選挙で、社会党のブルーノ・クライスキーが安定した社会民主主義政府を樹立した。オランダも72年の選挙で労働党が第一党になった。
スカンディナヴィア諸国でも、社会民主主義政権が、政治的安定と福祉制度をもたらしていた。
 従来、保守が政権を維持してきたイタリアやフランスでも、左派が勢力を伸ばした。
フランスでは1969年にドゴールが退場したあと、ポンピドゥーの保守政権が後を継いだが、むしろ改革志向だったポンピドゥーは74年に死去。共産党とともに72年に「共同政府綱領」を掲げたミッテランの社会党が、主要左派政党として勢いを増しつつあった(ミッテランは1981年に大統領に就任)。
 東西の緊張は緩和し、政治体制は安定したかにみえた。
 だが、そこに思わぬ方向から危機がもたらされる。1973年の石油危機が訪れるのである。

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