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ミシマについて──橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を読む(1) [われらの時代]

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 ぼくらの世代は、共通体験として三島事件をかかえている。
 1970年11月25日、三島由紀夫が「楯の会」メンバーとともに、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の東部方面総監室を占拠し、自衛隊員に決起を呼びかけたあと、割腹自殺を遂げた事件である。
 そのとき、ぼくは早稲田大学第一学生会館のサークル部室にいて、飛びこんできた部員から事件があったことを知らされた。1階に据えつけられたテレビで、バルコニーに立って演説する三島の様子が何度も流されていたように記憶しているが、それは後づけされた記憶かもしれない。
 あれから、はや50年。そのかん、のうのうと生きてきた。
 あのとき、三島は自衛隊駐屯地のバルコニーで、こう叫んでいたという。

〈沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと2年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 ……われわれは4年待った。最後の1年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと30分、最後の30分待とう。共に起って義のために死ぬのだ。〉

 あとになって知った檄の内容である。
 あのころは、ただ唖然とするだけで、まったく訳がわからなかった。三島は何を叫んでいるかわからず、狂った右翼のようにしか思えなかった。
 自決から4カ月ほど前、三島は「サンケイ新聞」にこんなエッセイを寄せている。

〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。〉

 無思想のぼくも、かえっていまのほうが、三島の言わんとすることが理解できるような気がする。
 三島は日本が買弁の経済的繁栄を認められているものの、政治的、軍事的、文化的にはアメリカの属国に成り下がった、と嘆いているのだ。天皇も、いまや日本の天皇ではなくアメリカの天皇になってしまった。
 三島の幻のクーデター計画はそうした憤りから発している。実際は茶番で終わることを自覚していたにちがいないが……。
 作家は行動する。いや、作家だって行動する。とはいえ、成功するはずもないお笑いぐさのクーデターに、実際に命を賭けるのはばかげている。
 三島がほんとうにやりたかったことは割腹自殺そのもので、決起はつけたしにすぎなかったのではないか。自死によって、三島は天空に輝く月のような存在になりたかったのかもしれない。そんなふうに思ったりもする。
 4部からなる最後の長編小説『豊饒の海』は、そもそも月にある盆地のひとつを指している。それは虚無の舞台だが、同時に永遠に照らされる世界でもあった。
 それにしても、鍛えあげた肉体を人身御供のようにして、自決するのはあまりにも狂気じみていないか。三島はまだ45歳だった。
 これからも作家として活躍できるはずだ。死に急ぐ必要はない。それなのに、こんな事件を引き起こすなんて、まるで全共闘のばか騒ぎにうながされたとしか思えない。世間のほとんどがそうみていた。
 あれから50年、三島のとらえた状況は変わっていない。日本はますます喜んでアメリカの属国の道を歩んでいる。そう思われても仕方がないできごとが相次ぐ。

 ここまで書いてきて、いまさらながら、ぼく自身が三島由紀夫の小説をさほど読んでいないことに気づく。ふり返ってみれば、よくわからないまま、いくつかの作品を流し読みしただけだ。そもそも歴史小説やミステリーを除いて、純文学は苦手。読んでもさっぱりわからなかったというのがホンネである。
 たまたま本棚を眺めていたら、文庫本のなかに橋本治の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を発見した。2005年に新潮社から発行された文庫本(単行本は2002年)である。これもツンドク本になっていた。
 東大駒場祭のポスターや「桃尻娘」シリーズで知られる橋本治は、三島由紀夫とは対極的な存在である。三島のことを「へんな人」と思っていた。16歳のとき、はじめて『仮面の告白』を読んで、その主人公に「こんなやつが同じ教室にいたら、絶対近くになんか寄ってやんない」と嫌悪を覚えた、と述懐しているくらいである。
 それでも、当時から三島は日本を代表する偉大な作家にちがいなかった。橋本も「三島由紀夫は、手の届かない高級ブランドの作家で、高嶺に輝ける存在だった」と認めている。
 その三島がじつにつまらない死に方をした。
 政治などに興味がない橋本は、「その事件」になにも関心をいだかなかった。三島が最期に『豊饒の海』という小説を書いたことも、かれが死んでから、はじめて知ったのだという。
『豊饒の海』を読んでみると、「すごくおもしろかった」。
しかし、こうも書いている。

〈『豊饒の海』には、それを読んだ人間を死に向かわせるような力はないと思う──私はそのように思った。だから私には、「どうしてこれで三島由紀夫は死ななければならないのか?」が分からなかった。しかし三島由紀夫は。それを書いて死んだ。だとしたら答は明らかである。三島由紀夫は、「こういうものを書くと死ななければならない作家」なのである。〉

 そこから橋本による三島探究がはじまる。そして、ぼくも三島と橋本を追悼するために、この本をめくりはじめている。

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