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日中蜜月時代──ヴォーゲル『日中関係史』を読む(2) [本]

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【日中国交正常化】
 1972年9月の日中国交正常化は画期的なできごとだった。
 本書によれば、国交正常化に向けた土台づくりは、以前から入念におこなわれていたという。
 72年4月には日本経済研究センター理事長の大来佐武郎が訪中し、周恩来首相と会って、国交正常化の可能性を探っている。
 7月に田中が首相に就任すると、大平正芳外相が日中国交正常化の担当になった。
 同月、中日友好協会の孫平化が来日し、周恩来のメッセージを伝えた。中国側は3つの原則を提示していた。中国は一つであること、中国政府の代表は中華人民共和国であること、台湾との日華平和条約は破棄されねばならないということ。
 7月25日には、公明党の竹入義勝委員長が北京を訪れ、周恩来と会見した。8月10日、自民党が田中の中国訪問を了承する。
 8月31日から9月1日にかけ、田中はハワイでニクソン米大統領と会見し、日本がアメリカから約7億1000万ドルの物品を購入するとともに、繊維製品の輸出を削減することを申し入れた。そのさい、ニクソンは日本がアメリカより先に中国との国交正常化を実現することに異議を唱えなかった。
 9月中旬には小坂善太郎が国会議員代表団を率いて、北京にはいり、周恩来と会見した。
 いっぽう、椎名悦三郎元外相は9月17日から台湾を訪れ、日本は中華人民共和国と外交関係を結ぶが、台湾との貿易や文化交流は続けると伝えた。これに怒った蒋介石は椎名と面会せず、椎名は息子の蒋経国と会って、日本の立場を説明した。
 田中と大平は9月25日から30日まで北京を訪問する。晩餐会での田中の「ご迷惑」発言をめぐって、中国側は不快感を示したものの、4回の首脳会談をへて、両国が日中国交正常化の共同声明に調印した。尖閣諸島の帰属問題は棚上げとなった。田中は毛沢東とも会見した。
 この共同声明には重要な文言が盛りこまれている。
「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」
 この文言について、双方はじゅうぶんに理解したはずだった。

【日中平和友好条約まで】
 1972年の国交正常化後、日中協力プロジェクトが実施されることになった。しかし、78年の日中平和条約調印まで、大胆な改革開放に向けた合意は形成されなかった。
 そのころ外国人が自由に中国国内を旅行することはできなかったが、それでも日本人の中国旅行者は少しずつ増えていった。
 日中関係が一気に進展しなかったのは、1976年に毛沢東が死去するまで、江青ら「四人組」が大きな力を保っていたからだ、と著者はいう。
 それでも日中間貿易は、かなりのスピードで拡大し、1972年の年間11億ドルが75年には40億ドル近くまで増大する。日本は化学肥料や工作機械を輸出し、化学繊維工場の建設を援助した。これにたいし、中国が日本に輸出したのは主に石油であって、輸出できるだけの工業製品はつくられていなかった。
 1971年に沖縄返還協定が調印された時点で、アメリカは尖閣諸島の管轄権を日本に移譲することを決定した。中国は1971年12月にはじめて尖閣諸島の領有権を主張するが、日本の専門家はその主張を認めなかった。1978年に日中平和友好条約が調印されたさいに来日した鄧小平は、記者会見で、島の領有権問題は棚上げにして、未来の世代にゆだねようと述べた。
 実際に日中関係が進展するのは、1978年の平和友好条約締結以降である。それまでに、貿易協定、ビザの発給、通関手数料、領事館の設置、航空路線の確立など、こまごまとした実際問題がひとつひとつ調整、処理されねばならなかった。

【鄧小平の来日】
 1978年8月に、それまで難航していた平和条約が締結された背景には、77年夏に復権を果たした鄧小平の決断があった、と著者はいう。
 条約の締結を受けて、鄧小平は78年10月に来日する。到着後、来日の目的を問われるて、鄧小平はひとつは日中平和条約の批准書交換、もうひとつは日本の友人たちへの謝意、さらに徐福が求めた秘薬を探すためと答えた。
 中国にとって不老不死の秘薬、それはまさしく近代化実現のための秘策にほかならなかった。
 鄧小平は各地で歓迎を受けた。新日鉄の君津製作所、日産の座間工場、大阪の松下電器の工場などを訪れ、新幹線にも乗っている。これらの体験はすべて中国の近代化を導くモデルとなった。
 日本滞在中、鄧小平は、日本が戦争中の政府主導の経済体制から戦後のより開放的な市場経済体制にどのように移行したのかをさかんに聞いて回ったという。
 昭和天皇とも会見し、ロッキード事件で保釈中の田中角栄とも会っている。
 福田赳夫首相と懇談したときには、こう述べている。
「友好関係と協力は、中国と日本の10億の人々が共有する願いです。……両国の国民の代表として、何世代にもわたって友好関係を続けましょう」
 鄧小平来日からまもなく実施された世論調査では、日本人の約78%が中国に親しみを感じると答えていた。
 その後、日中の経済関係者の交流が盛んになった。
 中国の工場では「日本の品質管理から学ぼう」という標語が掲げられた。いっぽう、著者によれば「日本の実業家の多くは、日本の侵略による中国の被害に対し、自分たちの世代が取り得る最善の方法は謝罪の継続ではなく、むしろ中国の産業と生活水準の向上を支援することだと考えていた」という。
 実際、国際協力事業団(JIKA)も中国の技術支援の要望に応えて、さまざまな分野の専門家を中国に送りこんだ。中国からも多くの留学生が日本の大学や研究機関にはいり、先端技術を学んだ。

【改革開放への模索】
 1976年9月に毛沢東が死去したあと党主席に就任した華国鋒は、積極的に海外からの新技術を導入した。地方政府や省庁はこぞって機械を輸入し、模範工場をつくりはじめた。
 石油採掘などの巨大事業を運営する官僚たちは「石油派」と呼ばれ、大慶油田などの大プロジェクトを完成させた。1978年12月には、さまざまな日本企業が参加して、宝山製鉄所の起工式がおこなわれた。
 地方官僚は新工場建設に貪欲で、じゅうぶんな準備が整う前に、きそって外国企業と工場誘致契約を結ぼうとした。しかし、外貨が不足していた。
 中越戦争が勃発したこともあって、1979年2月には日本企業との約26億ドルの契約が凍結された。だが、日本の企業や銀行が支払いの繰り延べや貸し付けをまとめることで、一部事業が再開された。
 1980年後半には、いくつかのプロジェクトが中止される。そのなかには宝山製鉄所のプロジェクトも含まれていた。
 中国側の当初のもくろみは、石油の増産によって外貨を稼ぎ、その外貨で多くのプラントを建設するというものだった。しかし、その計画は挫折する。
 鄧小平は訪中した大来佐武郎や土光敏夫(経団連会長)と会い、資金が足りず、契約を結んだ工場の代金が払えないことを率直に認めた。
 大来は外貨不足を軽減するために、日本の経済援助を活用しては、と中国側に提案した。こうして1979年から2001年にかけ、日本は中国に総額159億ドルの経済援助をおこなうことになった。
 宝山製鉄所プロジェクトが再開できたのは、日本の援助によるところが大きかったという。
1981年にはまたもプラント契約のキャンセル問題が発生する。このときも大来は訪中して、中国政府が契約をキャンセルすれば、国際的に中国の信用は失墜すると警告した。同時に、日本の財界にも中国への理解を求めた。
 1981年からは日中経済知識交流会が発足し、経済問題に関する日中の話し合いがおこなわれるようになった。また世界銀行も中国に経済アドバイザーを送り、中国の発展に大きな役割を果たした。
日本からの借款により、中国では宝山製鉄所を含め、停滞していたプロジェクトがふたたび動きはじめた。宝山製鉄所で鉄鋼生産がはじまったのは1985年からである。その後、宝山をモデルとして、中国では多くの製鉄所がつくられ、2015年までに年間8億トンの粗鋼を生産できるようになった。
 1978年から84年にかけ、中国は外国と約117億ドルにおよぶプラント・技術供与契約を結んだが、そのうち60億ドルが日本との契約だったという。

【1980年代の日中関係】
 平和友好条約締結後、日中間の文化交流も進んだ。多くの日本語書籍が中国語に翻訳された。日本映画も中国で広く上映され、テレビでは連続ドラマ『おしん』が放送され、抜群の人気を博した。
 1984年、胡耀邦は日本の青年約3000人を中国に招待した。この年にはまた「日中友好21世紀委員会」の初会合も開かれている。
 このように1978年から92年にかけては日中間の蜜月時代だったが、そのかん政治的摩擦がなかったわけではない。
 1982年以降、日本の文部省は青少年に愛国心をもたせるよう学習指導要領を変更するようになる。日本で軍国主義への批判が弱まるのをみて、中国メディアは反発し、日中戦争中の日本軍による南京大虐殺や三光作戦、細菌兵器実験を大きく取りあげるようになった。
 1985年8月15日に中曽根康弘首相が靖国神社を公式参拝すると、中国はそれを激しく批判した。
 1987年には京都の光華寮問題をめぐって、大阪高裁が光華寮は台湾のものという判断を示したことから、中国の学生による大規模な反日デモがおきた。
 とはいえ、1980年代を通じて、中国はほかのどの国より日本と密接な関係にあった、と著者はいう。
 1989年6月4日には天安門事件が発生した。北京市街で多くのデモ参加者が殺されたことに日本人はショックを受け、世論調査では中国に親しみを感じる日本人の割合が大きく減少し、52%となった。
 当初、日本政府は欧米諸国と一緒になって中国に制裁を加えたが、いち早く制裁を解除する。1991年、欧米諸国に先んじて、日本は中国への円借款を再開した。この年8月、海部俊樹首相は中国を訪れ、翌年の国交正常化20周年にちなんで、天皇訪中を提案した。

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