1967年──中野翠『あのころ、早稲田で』を読みながら(3) [われらの時代]
時代の流行というものがある。
ご多分にもれず、著者もあのころ吉本隆明を読んでいる。早稲田奉仕園での吉本講演会にも出かけたという。
早稲田祭では埴谷雄高の姿をちらっとみかけ、かっこいいと思った。
1967年には、3年生になった。すでに早大闘争は終わっている。
授業にはいちおう顔を出した。しかし、いりびたったのはサークルの「社研」のほうで、みんなでマルクスやレーニンを読んで議論する毎日がつづく。
春休みや夏休みの合宿にも参加している。雑談タイムでは大島渚の新作『日本春歌考』や吉本隆明の新刊(『高村光太郎』か)、「ガロ」のマンガ(つげ義春)などが共通の話題となったという。
早稲田小劇場で白石加代子の快演に「ブッ飛び」、ひとり歌舞伎座にいって、中村歌右衛門に魅了されたとも書いている。
アートシアター新宿文化(ATG)でみたゴダールの『気違いピエロ』も忘れられなかったという。
このころ手塚治虫は「ガロ」に対抗して、雑誌「COM」を創刊、超大作『火の鳥』の連載をはじめていた。著者は一時、マンガ家になりたいと思ったこともあるという。
でも、「決定的に根気というものが欠けている」ことがわかり、すぐに断念。
「新宿は見る見るうちに『若者の街』というイメージになっていった」。東口広場にはフーテン族の若者たちがたむろし、ジャズ喫茶がはやり、駅ビルには世界各地の民芸雑貨を売る店があって、新宿三越近くには森英恵のブティックがあった。
クラスメートと詩集をつくったり、初めてのひとり旅をしたりして、まさに青春といった感じ。
社研では『フォイエルバッハ論』や『ドイツ・イデオロギー』の読書会に参加していたが、そろそろ社研をやめようかなと思うようになっていた。マルクス主義がどうも感覚に合わなくなっていたのだ。
部を離れて「全く宙ぶらりんになってみたい」。「自分はイデオロギッシュな人間ではなく感覚的な人間だ」と考えるようになっていた。
そのころ早稲田界隈には多くの古書店があったが、著者のお気に入りは「文献堂」だったという。ここには左翼系の文献からシュールレアリスム系の美術書、文学書などが置かれていた。そこで買いこんだ本をナップザックにいれて、喫茶店でパラパラとページをめくってみるのが至福のひととき。
この年、東京都では革新系の美濃部亮吉が圧勝し、都知事に就任する。ベトナム戦争はますますエスカレートし、チェ・ゲバラがボリビアで死んだ。
10月8日は佐藤訪米を阻止するため、学生たちが警官隊と衝突。激しいもみあいのなかで、京大生の山崎博昭が死亡する。
さらに11月12日にも、ふたたび衝突があった(第2次羽田事件)。
著者もじっとしていられず、学生を応援するため羽田近くまででかけている。
〈羽田事件は、活動家たちのいでたちを変えた事件としても知られている。学生たちはヘルメットに角材(ゲバ棒)、機動隊は大楯を使うというスタイルが定着していった。〉
この年、早稲田に入学したぼくは、いったいどうしていたのだろう。
政治と無縁だったのはたしかである。ウェイトリフティング部にはいり、挫折し、冬にはやめていた。アメリカの大学にあこがれたものの、それはただの夢で終わる。授業にはほとんど出ていなかった。試験を受ける地震がなく、進級をふいにする。この先、なにをすればいいのかわからず、ひとり伊豆を旅していた。
1年を棒に振った。でも、それは良くも悪くも自分で歩くことを学ぶための1年だった。
2020-02-28 11:19
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