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『龍彦親王航海記』(礒崎純一著)から [われらの時代]

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 著者の礒崎純一によると、澁澤龍彦(1928〜1987)は三十数年にわたる作家活動のなかで3万6000枚の原稿を残したという。そのすべてが、死後刊行された40巻の全集に収録されており、うち24巻がエッセイを含む創作、16巻が翻訳である。平均して、年に1000枚以上執筆していたことになる。
 堂々たる作家人生である。代表的な作品としては『サド侯爵の生涯』、『黒魔術の手帖』『世界悪女物語』『夢の宇宙史』『偏愛的作家論』『胡桃の中の世界』『うつろ舟』『高丘親王航海記』などがある。1959年に翻訳出版したサドの『悪徳の栄え』がわいせつ文書に当たるとされて、起訴され、9年にわたる裁判で、最終的に有罪が確定した。
 澁澤龍彦が、いまも広がりつづける文学宇宙のなかに、ひとつの華麗な星雲をつくりあげたことはまちがいない。しかし、文学にうといぼくは、澁澤の作品をまともに読んでいないから、かれの世界について語るのは無理である。興味は下世話なところに向かってしまう。
 本書によると、澁澤龍彦という人は、生涯にわたって、まるで少年のように文学に耽溺することができた幸運児だが、それは、とりわけふたりの伴侶に恵まれたからでもある。
 つれあいがいなければ、なにもできない無能な人だった。
 最初の妻は矢川澄子。龍彦より2歳年下で、学習院大学を卒業後、岩波書店で外校正の仕事をしながら、「未定」という同人誌をつくっていたころ龍彦と知り合った。1959年、28歳のとき、龍彦と結婚する。
 その後、1967年まで、澁澤が外出するときには、かならず澄子が同行した。龍彦の原稿はほとんど澄子が浄書して、編集者に渡している。
 その澄子と龍彦は1968年3月末に協議離婚する。
 著者によれば、「澁澤との離婚の裏に巣食う要因としては、子供を持つことを拒否する澁澤が避妊には自分でなんの責任も取ることなく四度も堕胎させたことや、反俗を志向して始まった関係が変質していつしか母子関係のようになったことなど」を矢川澄子は挙げているという。
「まるでもう母親のあとにつきまとう子供でした」というのが、矢川のとらえた澁澤の実像である。さぞかし手の焼ける子どもだったにちがいない。
 とはいえ、澄子にとって、そんな龍彦は、同時にいわば「神」でもあった。
 彼女はこう書いている。

〈十年間、その男はわたしにとって神の代りをつとめてくれた。男がほかの女を見ておまえよりすてきだといえば、ほんとうにその女はわたしよりすぐれて映った。男が親たることの愚劣を拒めば、わたしはいそいそと、身籠ったものを片っぱしから闇に葬った。〉

 四度の堕胎に加え、龍彦が平気で浮気を重ねていたこともわかる。
 そのなかには、高橋和巳の妻、高橋たか子との関係も含まれている。
 このことも驚きだが、矢川澄子が不意打ちのように北鎌倉の家を出奔する事件が起きていたことがさらに驚きである。
 その経過を著者はこう記している。

〈一九六五年(昭和四十)二月に、澁澤と矢川は石井恭二[現代思潮社社長]の誘いで谷川雁と一緒に旅行をしているが、谷川雁は矢川に思いを寄せた。矢川もいつしか谷川に惹かれていき、関係ができた。その事実が澁澤の知るところとなり、この年[1968年]の二月、三月にさまざまにごたついた結果、澁澤と矢川は別れることになった。〉

 谷川雁(1923〜95)といえば、全共闘世代憧れの人物。1960年、九州の大正炭鉱をめぐる争議では、大正行動隊をつくって闘った。『原点が存在する』、『工作者宣言』などの著書がある。
 東大全共闘が籠もった安田講堂の壁にも「連帯を求めて孤立を恐れず」という谷川雁の詩が書かれていた。
 澁澤は矢川澄子にいっさい財産分与をしなかった。「だって澄子はそれでいいって言ってんだろ」というのが、澁澤側の言い分である。
 しかし、その陰で、龍彦は「澄子がいなくなった」と言って泣きじゃくっていた。
 その後、矢川澄子は谷川雁と結婚することもなく、文筆活動の道を歩む。2002年に信州黒姫山の自宅で自死した。享年71。
 澁澤にとって、澄子がいなくなったことは心の痛手だった。だが、それ以上に生活の困難が突如、押し寄せてきた。
 著者はこう書いている。

〈なにしろ毎日の実生活にまつわる諸事には、澁澤はまったく無能なのである。同居していた実母はまだ六十歳代前半だったから、食事や洗濯という最低限の世話はこの母がやってくれたのだろうが、仕事のサポートをはじめ、ちょっとした外出やら何やらにもつねに矢川がついていってなにくれとなく面倒を見るという、中井英夫いうところの「乳母日傘」の世界が、突如として崩壊した。〉

 そんな澁澤が前川龍子(りゅうこ)と再婚したのは1969年11月である。この年10月には10年におよぶ「サド裁判」が結審し、澁澤は有罪となり、罰金7万円を払っていた。
 そして、再婚後は17年にわたる龍彦=龍子時代がはじまるのである。このとき、龍彦は41歳、龍子は29歳だった。
 龍子は早稲田大学文学部を卒業して、新潮社に入社し、「藝術新潮」の編集者をしていた。ふたりは新婚旅行で、2カ月にわたり、チェコ、オーストリア、西ドイツ、フランス、スペイン、イタリアなどを回った。その後、澁澤が国内だけでなく、しばしばヨーロッパ旅行に出かけたのは、龍子の影響が大きい。取材を兼ねることも多かった旅行には、ほとんどすべて龍子が同行している。
 澁澤は本の宇宙のなかで生きていた。大きな旅行やふたりで近所を散歩するとき以外、あまり外出することはなく、ほとんど書斎にこもっている。
 原稿は2Bの鉛筆で手書きし、パーカーの万年筆で手をいれる。その原稿を清書するのは龍子の仕事である。昼夜の生活は逆転し、生活は質素だった。
 龍子自身、澁澤との日々を「幻想のなかに生きているような、夢のなかにいるような生活だった」と回顧している。
 澁澤が一人旅に出ることはない。本人が、女房抜きでは「とても旅行なんぞ出てゆく気はしないのである」と書いている。チケットを買うのも、金を払うのも、女房まかせで、時刻表さえ見なかったという。
 ちょっと出かけるときに、車を運転するのも龍子の役割である。
 澁澤の妹、幸子は、兄には「実生活ではほとんどバカと言っていい部分」があったと書いている。
 銀行の自動支払機からお金が出てくるのがおもしろくて、何度もやって預金を全部引き出してしまったとか、カッターナイフやラジカセも知らなかったとか、駅の自動販売機で切符がうまく買えたときには、それを自慢したとか、ひどい方向音痴だったとか、車を買い換えてボディーの色が変わったのに、それに気づかなかったとか、澁澤をめぐっては、そんな浮世離れしたエピソードがごまんとある。
 亡くなったのは、1987年8月5日。前年、下咽頭癌摘出の手術を受けていた。享年五十九歳。
 入院中には前妻の矢沢澄子も二度見舞いに訪れたという。別れたあとも、ずっと澁澤が好きだったという。
 最後は起き上がることもできないほど、からだが弱っているのに、机にかじりつくように『高丘親王航海記』の最終章を書いた。その様子について妻の龍子は「なにか、鶴が身を細っても自分の羽で織るみたい」に書いていた、と語っている。

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