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『マルクスと商品語』を読みながら思うこと(2) [商品世界論ノート]

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『資本論』では、マルクスは版を改めるごとに書き直しをおこなっている。
 本書はその変更部分について、厳密なテキスト批判を試みているが、それを詳しく紹介するのはやめておく。以下は、ぼく自身が興味をもった部分をまとめたにすぎない。
 われわれの社会は商品にあふれ、商品に取り込まれている。
 しかし、商品はそれ自体単独で存在しているわけではない。商品が登場するのは交換関係においてのみである。
 貨幣もまた商品であるというとらえ方はさておき、ここで大胆に貨幣を捨象して考えれば、商品は別の商品とかかわることによって、はじめて商品となる。
 財としてみるなら、商品はそれ自体、さまざまな有用物にほかならない。、なぜその有用物が交換可能な商品となるのだろう。
 ここで持ちだされている光景が、いわゆる物々交換という特殊な関係でないことを頭にいれておこう。
これは商品世界の根底にみられる経済モデルだといってよい。われわれは何らかの商品を売り、何らかの商品を買うことによって、くらしを営んでいる。そこでは商品と商品が行き来する関係が存在するのだ。
 ここでマルクスは、使用価値、交換価値、価値という概念を持ちだしている。これはアダム・スミス以来の古典派の伝統を踏まえた展開である。
 商品は何らかの有用物という意味では使用価値だが、同時に商品は価格のかたちで示される交換価値をもっている。そして、交換価値の根底には、感覚的にはとらえられない(いわば超感覚的な)価値がある、とマルクスはとらえる。
 価値は交換価値(価格)の背後に隠れている。交換価値と価値が区別されていることに注目すべきだろう。
 商品は交換されてこそ商品である。
 商品が交換されるには、「共通なもの」である価値の等値がなされねばならない。すると、そこでは価値の大きさが問われることになる。つまり、価値の大きさをはかる「第三のもの」が必要になってくる。
マルクスによれば、この「第三のもの」、すなわち価値の実体が「抽象的人間労働」である。
 具体的労働というのはわかる。機械や道具を利用するにせよ、ものをつくるには(頭をはたらかせ手を動かすことを含めて)労働が必要になってくる。その意味で、人の手が加わっていない有用物は存在しないだろう。
 だが、商品は単なる有用物ではない。それは交換の場に投げ込まれた有用物なのである。そして、商品が交換可能となるのは、それが価値を有するからだ、とマルクスはいう。
 価値には体積や重量などの自然的属性、学歴や身分といった社会的属性は含まれていない。そのかぎりにおいて、商品は万人にたいし、平等に開かれている。言い換えれば、商品の価値を決めるのは、その実体である抽象的人間労働のみである、とマルクスは考えている。
 これはどういうことだろう。
 商品は労働が対象化されているかぎりにおいて価値をもつ。しかし、価値が交換価値として現象するためには、商品の価値が社会関係=交換関係において評価されなければならない。その過程で、商品として等値される相異なる労働生産物は、抽象的人間労働の凝固した同一の価値を有するものと判断される。
 マルクス自身はこう述べている。

〈諸商品の交換関係そのもののなかでは、商品の交換価値は、その使用価値にまったくかかわりのないものとしてわれわれの前に現われた。そこで、じっさいに労働生産物の使用価値を捨象してみれば、ちょうどいま規定されたとおりの労働生産物の価値が得られる。だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現れる共通なものは、商品の価値なのである。〉
 
 この部分について、著者は「商品から使用価値を捨象すると、まずは価値ではなく抽象的人間労働が導かれ、その上で価値が導出される」と解読する。
 労働生産物が直接、価値として認められるのではない。「交換関係において、交換を通じて、つまり交換価値として現われることを通じて、はじめて価値として認められるのである」
 こうして『資本論』冒頭における商品の価値について、著者は次のようにまとめる。

〈価値はどこまでも抽象的な規定性であり、量の契機を含まない。価値の大きさはあくまでも価値の実体である商品に表される抽象的人間労働の量によるのであり、そしてその量の〈尺度〉は社会的に必要な労働時間なのである。〉

 こんなふうに価値を規定したうえで、マルクスは商品と商品が登場し、商品語が交わされる場へと歩みを進める。それが「価値形態論」ということになる。
 正直言って、わかったようなわからないような気にさせられる。
 商品とは価格をもつ労働生産物であるというのが、いちばんすっきりした言い方だろう。
だが、商品が登場する交換の場においては、労働生産物という性格はむしろ背後に隠れて(だれも、それがつくられる工程を詳しく知らない)、商品はもっぱら価格をもつ利便性グッズ(財やサービス)として登場する。
 ここでマルクスは、価格とは価値の現象形態にほかならず、価値の実体は抽象的人間労働だという言い方をする。
 抽象的人間労働とはいったい何か。それは具体的労働ではない。はっきり言ってしまえば、価格によって表される労働の価値のことである。商品の価値は、市場において評価された労働の価値に還元される。国民総生産が国民総所得に一致するゆえんである。
 商品世界は、商品−貨幣−資本の三位一体構造によって動いている。そして、その根底をなすのは、膨大な商品のめまぐるしい流れであり、それを支えているのは、抽象化された人間労働の交換なのである。
『資本論』の冒頭で商品とは何かを規定したあと、マルクスは商品と商品がことばを交わす場に耳を傾けることによって、商品がなぜ価格をもつようになるかを解読しようとする。それが次のテーマとなる。

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