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『毛沢東の私生活』 を読む(1) [われらの時代]

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 著者の李志綏(りしすい、リチスイ)は、1976年に毛沢東が死去するまで22年間にわたって、かれの主治医を務めた。著者は1988年にアメリカに亡命、その6年後に本書を刊行し、それからわずか3カ月後の1995年の2月14日にシカゴの自宅浴室で亡くなっているのを発見された。享年75歳。心臓発作だったとされる。
 本書の意義を、訳者の新庄哲夫は簡潔にこうまとめている。

〈中国内で神格視されつづける毛主席の秘められた皇帝ぶりを初めて白日のもとにさらしたこと、それも死人の山を築こうと動じない権力闘争、原始的な経済政策、あるいは原爆戦を辞さぬ対外戦略などを通じてのぞかせた独裁者の途方もない人間性を、その息遣いが行間から聞こえてくるまで語り尽くした回想録〉

 本書をめぐっては、吉本隆明と辺見庸とのあいだで愉快な対談が交わされている。『夜と女と毛沢東』(1997) に収録された対談がそれだ。
 そのとっかかりを、ちょっと引用しておく。

吉本 僕はこれ読んでみて、こんなにおもしろい本は近頃なかったなあという感想です。想像もつかなかった毛沢東の姿が、いくつも出てきました。
 たとえば毛沢東はいつも寝っころがっていて、孤独に本ばかり読んでいて、それで何か大切なことを思いつくと、ノソノソと起き出して皆の中に出て演説する。日常生活についてはまるっきり怠け者で、勝手放題[無類の色好み]。共産党幹部がある政策を決めても、それで終わりかというとそうじゃなくて、彼が二言三言呟くとガラガラ変わってしまう。つまり毛沢東は、中国共産党の上に君臨する皇帝なんですね。僕はその皇帝生活ぶりがとても興味深かった。僕は今まで中国共産党と毛沢東は、もっと一体化した存在だとばかり思ってきましたが、どうもそうではないらしい。今までの見方は間違っていました。
辺見 毛沢東のライフスタイルは、私もちょっとショックでしたね。実に自由というか、気儘というか……。いつもバスローブをまとって、未明の三時、四時に平気で人を呼びつけて、お喋りをしたり、英語のレッスンを始めたりする。
 中国では[特派員時代]毛沢東について、いろいろな噂を耳にしましたが、正直なところ、これほどとは思わなかった。どちらかというと老荘系の哲学者か、あるいは相当デカダンな文学者といった暮らしぶりで、スターリンともレーニンとも違いまうね。厭人的でもあり、虚無的でもあり、私、こういう人物像は嫌いじゃないですね。不思議な魅力さえ感じます。〉
 つまるところ、毛沢東は共産党王朝の初代皇帝なのである。その生活ぶりは、女出入りも含めて、じつに自由気ままで、そのくせ中国の政治をがらがらと揺り動かしていた。だれも皇帝の意向には逆らえなかったのだ。

 ぼくらの大学時代は、まだ毛沢東が中国に君臨していた。本書に沿って、そのころ、つまり文化大革命の時期をふり返ってみることにした。例によって昔話である。
 1958年からの大躍進政策が惨憺たる結果を招いたあと、毛沢東に代わって1959年に国家主席の座に就いたのは劉少奇だった。
 しかし、毛沢東は引きつづき党主席の地位を保ち、国内で隠然たる力を保っていた。党が国家を領導する中国では、国家よりも党が上にあり、党主席こそが国家元首だったのである。
 1964年には、赤いビニール表紙の小冊子『毛沢東語録』が大量に発行されていた。そのころから、大躍進の失敗を覆い隠すように、中国全土で毛沢東崇拝のキャンペーンがくり広げられるようになる。その運動の先頭に立ったのが、国防相の林彪である。
 1965年末、中国共産党では党内の反毛沢東派をいぶりだす動きがはじまった。
 最初に目をつけられたのは北京市長の彭真(ほうしん)や総参謀長の羅瑞卿(らずいけい)、党中央弁公庁主任[いわば秘書室長]の楊尚昆(ようしょうこん)、党中央宣伝部長の陸定一。
 しかし、著者が「主席のやり口はいつもまず中間層を打つこと」からはじまるというように、最初からその狙いは劉少奇や鄧小平に向けられていたとみてよい。
 このころ72歳になった毛沢東は、いまだかくしゃくとしており、大躍進政策の誤りを内心ではけっして認めていなかった。いかに多くの犠牲を払おうとも、大躍進は共産主義に向けての必要欠くべからざる政策だったと考えていた。
 大躍進の政策を公然と批判し、市場経済を部分的に導入しようとする輩は、自分への反逆をくわだてているのも同然とみていたのだ。
 驚くべきは、そのころも毛沢東がじつにあちこち旅行していることである。
 1966年初めには中国南東部、江西省の南昌にいた。回りを囲んでいたのは身辺警護官をはじめ、看護婦、お気に入りの愛人の張玉鳳、それに若い女たちである。
 このころ21歳の張玉鳳は、もともと主席専用列車の客室係をしていたが、毛沢東に気にいられて、愛人兼個人秘書のような役割を果たすようになっていた。彼女は黒竜江省生まれで、父親は日本人医師だったといわれる。
 南昌で風邪をひいた毛沢東は、社会主義教育のため近辺の農村に滞在していた著者の李志綏を呼び寄せて、治療をしてもらう。抗生剤で気管支炎はすぐに治ったが、著者は毛沢東がとてつもない量の睡眠薬を飲んでいることに気づく。バルビツールの服用量が通常の10倍で、ふつうの人なら死んでもおかしくないほどだが、長年、睡眠薬を飲みつけている毛沢東には耐性ができていた。
「主席が服用していた睡眠薬の量は、昨今の政治的緊張と直結していた」と、著者は書いている。すでに反対派を追い落とす戦いがはじまっていたのだ。とはいえ、医師としては、毛沢東を薬物依存症から切り離す仕事が第一だった。
 プロレタリア文化大革命は、歴史劇『海瑞罷官(かいずいひかん)』を批判するキャンペーンからはじまったといえる。
 海瑞は明時代の高官で、皇帝を諫止したため、獄につながれる。しかし、国家のためなら一身を顧みない高潔な人物だった。
 毛沢東は当初、海瑞を激賞していた。そのため、海瑞を主人公とする歴史劇がつくられ、中国でも評判になっていた。
 それが呉晗(ごかん、本来は目ヘン)の『海瑞罷官』である。
 ところが、この『海瑞罷官』を批判する人物があらわれた。上海の理論家、姚文元(ようぶんげん)である。その背後には、毛沢東の妻、江青の姿があった。
 姚文元は『海瑞罷官』を、暗に毛沢東風刺の劇とにおわせて、批判の論陣を張る。
 当初、北京のメディアは、姚文元の論文を無視する。ところが、それは反対派をあぶりだすためのわなだった。
 1965年末からはじまった『海瑞罷官』批判キャンペーンは、文字どおり「文化」大革命のはじまりとなった。それは文化の名を借りてはいるが、じつは反毛沢東グループを殲滅するための号砲にほかならなかった。
 共産党王朝の皇帝、毛沢東は、南昌からこの戦いのゆくえを見守っていた。睡眠薬中毒に陥ったのは、大きな不安と緊張を抱えていたためである。

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