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『毛沢東の私生活』を読む(4) [われらの時代]

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「林彪が権力の絶頂にちかづくにつれて、全中国は軍事国家化していった」と著者は記している。
 1969年3月に中国とソ連は国境の珍宝島(ダマンスキー島)で軍事衝突し、中国は戦時体制にはいった。
 そのころ、毛沢東は著者にこう問いかけたという。
「わが国は北と西にソ連、南にインド、東には日本がひかえておる。もしわれわれの敵が一致団結して東西南北から攻めてきたら、どうすればいいと思う?」
 答えられないでいると、毛沢東はこう話した。
「日本の向こうにはアメリカがおる。われわれの先祖は遠交近攻の策をとらなかったかね?」
 著者は仰天する。アメリカは中国にとって最大の敵ではなかったのか。文化大革命の目的は国内の資本主義傾向と闘うことではなかったのか。
 だれもが毛沢東の話は冗談だろうと思っていた。だが、米中両国の関係改善に向けての工作はひそかにはじまっていたのだ。
 第9回党大会が無事に終わったあと、69年5月に毛沢東は南部の武漢、杭州、南昌を巡行する。取っかえ引っかえ、若い女たちとベッドをともにする生活は相変わらずで、周辺の警備兵の数はますます増えていた。
 9月下旬に南方の旅から戻った毛沢東は、10月半ばにふたたび武漢におもむいた。急激に寒波がやってきたので、警備担当者が暖房をいれようとすると、毛沢東は急に怒りだす。
 何でもかんでも林彪に見張られているみたいだというのだ。暖房を拒否したことで、毛沢東は風邪をひき、江青はそれを主治医である著者のせいにした。
 そのころから毛沢東と林彪の関係はぎくしゃくしはじめていた。
 1970年のはじめ、著者はある女性スタッフの問題にかかわったことで毛沢東の勘気をこうむり、中南海から追い出されることになる。医療班をつくって、黒竜江省の村におもむくよう命じられた。貧しい農民から社会主義教育を受けるべきだというのが、その名目だった。
 そのころ著者は、自分の後ろ盾である汪東興(党中央弁公庁主任、いわば秘書室長)が、江青への敵意が高じたばかり林彪の側に傾斜しすぎていることに懸念を感じはじめていた。
 黒竜江省で、著者は「はだしの医者」となり、農民たちの家々を回った。
農民たちは非常に貧しく、結核とサナダムシに苦しんでいた。しかし、僻地での生活は平穏そのもので、「普通の人々のありふれた病気の治療をたのしんだ」と記している。
 4カ月後の1970年11月6日、著者は突然、北京の党中央弁公庁から呼びだされる。首都にすぐ戻れという。そこで牡丹江の空港で待機する専用機に乗り込み、午前2時すぎ、北京の飛行場から車で中南海の主席邸に向かった。
 毛沢東は長椅子にすわって苦しげに息をしており、「重い病気にかかったらしいんで、君を呼びもどすしか手がなかった」という。
 レントゲンの写真を見ると、あきらかに肺炎だった。しかし、そうは言えず、いつもの気管支炎だと伝えた。
 毛沢東は政治抗争の時期に、かならず体調を崩した。
 著者が黒竜江省に送られていた時期、8月から9月にかけ、廬山では第9期中央委員会第2回全体会議(9期2中全会)が開かれていた。
 この会議で、林彪は劉少奇なきあと空席になっていた国家主席のポストを復活すべきだと主張した。毛沢東がことわれば、自分が国家主席になるという算段だった。
 毛沢東は中国にふたりの主席は必要ないと主張し、結論は持ち越しとなった。
 毛沢東と林彪の関係があやしくなっていた。林彪を支持した汪東興は、毛から疑いの目を向けられる。林彪の勢力がおとろえると、こんどは江青グループの勢力が強くなった。
 毛沢東のパラノイアは頂点に達し、「林彪のやつ、おれの肺が腐ればいいと思っているのだ」と怒りの声を発した。
 林彪はおれが早く死ねばいいと思っているというのだ。しかし、気管支炎だと聞くと安心し、きみは命の恩人だと著者に感謝するほどだったという。
 年末には毛沢東の健康はじゅうぶんに回復した。
 1971年8月、林彪にたいする毛沢東の不安感は頂点に達していた。林彪はみずから権力を手中に収めようとしているのではないかと疑っていた。
 8月中旬、毛沢東は南方に向かい、武漢、長沙、南昌、杭州、上海に立ち寄り、党や軍の指導者と会見し、みずからの体制を固めた。北京に戻ってきたのは9月中旬だった。
 周恩来が毛沢東のもとに駆け込んできた。林彪が逃亡をはかり、山海関から飛行機で飛び立とうとしているという。周恩来は搭乗機にミサイル攻撃をくわえるよう進言するが、毛沢東は拒否し、撃ってはいかん、逃げさせてやれ、と答えた。
 林彪を乗せた飛行機は外モンゴル(モンゴル共和国)の領空でレーダーから消え、墜落した。
 林彪は南方視察中の毛沢東を暗殺し、権力を奪う計画を立てていたといわれる。だが、はたしてほんとうにクーデター計画があったのか、その真相はわからない。
 林彪事件のあと、毛沢東の衰えがめだつようになる。動作はのろく、足を引きずるように歩く。夜は眠れず、慢性的な風邪と咳にとりつかれていた。心臓も弱っていた。すでに78歳になっていた。
 林彪の死後、1972年のはじめ、毛沢東は文革の行き過ぎを是正して、自分の手で失脚させた幹部の名誉回復をはかろうとする。
党と軍を立てなおそうとしたのだ。
 だが、毛沢東の健康は悪化しつづけていた。肺の感染症がぶりかえしていた。心臓も弱っている。
 1月21日、毛沢東は周恩来に「私が死んだあとは、君がすべてを取り仕切ってくれ」と遺言めいたことばを口にした。その場にいた江青がぎょっとした表情をして、怒りのあまり、両の手を握りしめた光景を著者は目撃している。
 そのあと開かれた政治局会議で、著者を含む医師団は、江青派の姚文元(ようぶんげん)から主席の病状についての説明を求められた。問詰の構えである。葉剣英元帥(政治局常務委員)が医師団を擁護した。
 翌日の会議では、江青が周恩来に向かって怒りをあらわにし、「なぜあなたは権力の移譲を主席に強要したのですか」と、ありもしないことを問いただした。
 葉剣英は「そんなに興奮するな」と江青をたしなめ、その場を収めた。
 ここで、毛沢東は奇跡の回復をみせる。嫌がっていた治療に同意するのだ。2月21日のニクソン訪中が目前に迫っていた。
 ニクソンが到着した日、毛沢東はかつて見たことがないほど興奮していた。ひげをそり、散髪もして、髪にヘアトニックを塗りこんだ。周恩来に電話をかけ、早くニクソンをつれてくるようにせっつくほどだったという。
 医師団は万一に備えて、万全の態勢をとっていた。書斎でのニクソンとの会談は、15分の予定が65分にもおよんだ。
 毛沢東はニクソンにこう話した。
 今後、両国の関係は改善されるだろうが、中国の新聞は相変わらずアメリカ攻撃をつづけるだろうし、アメリカの新聞も中国への批判をつづけてもらいたいものだ。
 いかにも超然とした発言である。
 毛沢東はもってまわった言い方をしないニクソンが気に入った。
「ホンネとタテマエを使いわける左派の連中とはわけがちがうな」と著者に感想をもらした。
 こうして、米中関係改善に向けての扉が開かれることになる。
 この年、9月にはもうひとつ外交面での大きな進展があった。
 田中角栄が訪中し、日中国交回復が実現したのである。
 毛沢東はニクソンのときよりもずっと気さくに田中と話しあった。
 毛沢東が田中を高く評価したのは、田中が自民党内の強い反対を押し切って、中国との外交関係樹立を推進したからである。
 両者の会談で、田中が日本の中国侵略を謝罪しようとしたのを遮って、毛沢東はこういった。
日本の侵略の「助け」があったからこそ、中国では共産党が勝利することができ、こうして中国と日本の両首脳があいまみえるようになったのだ、と。
 このとき、毛沢東は田中にたいし、自分の健康状態はあまり良好とはいえないと告白し、そう長くは生きられないだろうとも語った。
 だが、その後の4年間を毛沢東は生き抜き、文革の権力闘争もまたつづくのである。

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