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第2波のウイルス襲来──『グレート・インフルエンザ』を読む(2) [本]

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 第1次世界大戦末期、1918年1月にアメリカのカンザス州で発生したインフルエンザ・ウイルスは、その後、兵士とともにヨーロッパにわたり、3月から7月にかけ大流行を引き起こすが、それほど悪性ではなく、死者もさほど多くださなかった。
 8月10日、それまで前線でのインフルエンザ感染に悩まされてきたイギリス軍司令部は、インフルエンザの終息を宣言する。フランスに駐留するアメリカ海外派遣軍も、7月下旬に大流行はほぼ終息したと発表した。
 だが、ウイルスは消えたわけではなかった。著者の表現を引用すれば、「山火事は木の根本で燃え続け、寄り集まって姿を変え、適応し、爪をとぎ、虎視眈々(こしたんたん)と、炎となって燃え上がる機会を待ちに待っていた」。
 継代と変異ということがいわれる。宿主を変え、代替わりするにつれ、ウイルスは感染力を高め、致死性をもつものへと変化していく。また、その逆もある。
 1918年6月30日、イギリスの貨物船シティ・オブ・エクセター号がアメリカのフィラデルフィアに入港した。船内ではインフルエンザが蔓延していた。感染した船員はペンシルベニア病院に搬送され、病棟は封鎖されたたが、船員は次から次へ肺炎で死亡していった。
 当局は士気をそこねかねないとして、この事件の報道を禁じた。
 7月第2週には、イギリスのロンドンで287人がインフルエンザ肺炎で死亡していた。じつはヨーロッパではウイルスが徐々に致死性を高めていたのだ。
 大流行は終息しつつあるとの宣言は、希望的観測でしかなかった。第2波の大爆発に向けて、ウイルスはじわじわと死の触手を伸ばしていたのである。
 8月初旬には、フランスからニューヨークに向かう汽船の乗員がひどくインフルエンザにやられた。8月12日、ブルックリンに入港したノルウェーの貨物船からは、200人の感染者が出た。だが、ニューヨーク市は感染拡大の防止策をとらなかった。
 フランスに派遣された200万のアメリカ軍兵士の40%はブルターニュ半島のブレストに入港した。8月10日、ブレストに駐留するフランス軍水兵から多くのインフルエンザ感染者が発生し、海軍病院に搬送される。肺炎による死亡者は少なくなかった。
「その後数週間のうちにブレスト周辺地域全体が炎に包まれた」と、著者は記している。アメリカ兵とフランス兵の交流によって、ウイルスが大量にまき散らされたのだ。
 8月中旬から下旬にかけては、西アフリカのシエラレオネでもヨーロッパの船舶からの感染がひろがり、死者がでた。
 8月末、アメリカのボストンでは、海軍の水兵2人がインフルエンザを申請したのを皮切りに59人が入院。9月にはいると市民のあいだにも感染者がではじめる。
 次はボストン北方約50キロにあるキャンプ・ディベンズだった。ここには数万人の兵士が集まっていたが、9月にはいってからインフルエンザ感染が次々報告されるようになった。
 そして、それはとつぜん爆発する。9月22日にはキャンプ全体の約20%が病気にかかり、そのうち75%が入院、肺炎による死亡者も増えていた。重い肺炎になってから死ぬまではあっというまだった。
 キャンプの病院はまさに戦場になっていた。2500しか病床がないのに、収容者は6000人を超え、500人以上が死亡した。200人の看護婦のうち70人が病気で倒れた。

 兵士がウイルスを運んでいた。兵士の移動とともにウイルスは合衆国の海岸沿いを南に、また中西部に、そして太平洋にまで達した。
 このころ、ヒトからヒトに感染するうちに、ウイルスは世界中で致死性をもつウイルスに変異しつつあった。
 アメリカだけではなかった。世界をめぐったウイルスはインドのボンベイ(ムンバイ)でも、猛威を振るいはじめていた。
 フィラデルフィアの海軍工廠にボストンの水兵300人がやってきたのは9月7日のこと。
 フィラデルフィアはアメリカの東海岸にある。地図で海岸線をたどれば、北からボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモア、ワシントンといった日本でもおなじみの市名が目にはいるだろう。
 フィラデルフィアには戦時中、世界最大の造船所がつくられ、大きな機関車工場や製鋼所もあった。もともと過密状態のところに、さらに大勢の労働者が吸い寄せられ、街は人であふれかえっていた。
 だが、賄賂が横行し、市政は腐敗しきっていた。そのいっぽう、病院や学校はお粗末なまま、ほとんどかえりみられなかった。
 ボストンからやってきた水兵のうち19人にインフルエンザの症状がでた。到着から4日後のことである。海軍の軍医は兵舎を封鎖し、念入りな消毒をおこなった。
 にもかかわらず、インフルエンザは水兵のあいだに、たちまちひろがり、600人以上の病状が悪化する。海軍病院だけでは感染者を収容しきれず、一部は民間病院に搬送された。9月17日、その民間病院の医師5人と看護婦14人が倒れた。市民にも病状がではじめていた。
 ボストンの水兵はフィラデルフィアだけでなく、太平洋岸のピュージェット湾(ワシントン州)や、五大湖の海軍訓練所にも送られていた。やがて、インフルエンザは西海岸や中部でも猛威を振るうことになる。
 フィラデルフィア市当局は、公衆衛生局や衛生委員会を含め、インフルエンザに何の対応もとっていなかった。
 早急に市民の集会の禁止、会社や学校の閉鎖、感染者の隔離といった措置を実施すべきだった。
だが、当局は市民に多少のしばらく成り行きを見守るということ以外、何も決めなかった。新聞もインフルエンザは何ら危険なものではないと伝え、海軍の医官も病気はすぐにおさまるだろうと断言した。
 だが、そのころフィラデルフィアでは、すでに水兵だけではなく、看護婦や市民のなかからも死者がではじめていたのだ。
「当時は異常な時代だった。第1次大戦のせいだ。この事情を理解せずにインフルエンザの世界的流行を考えることはできない」と著者は記す。
 アメリカはすでに200万の米兵をヨーロッパに派遣していた。加えて少なくとも200万の増派が必要と見込まれていた。情報統制は重要であり、士気を損ねる報道は禁止され、反戦を唱える者は容赦なく投獄された。
 フィラデルフィアでは9月28日に自由国債パレードが予定されていた。だれもが国債を買って、戦争遂行に協力しようというわけである。
 医師たちは人の大勢集まるパレードを中止すべきだと忠告したが、市当局も新聞編集者もまったく聞く耳をもたなかった。
パレードは強行され、3キロにわたる行列に何十万もの見物人が声援を送った。
 パレードから2日後、市の公衆衛生局は、海軍基地と同様のインフルエンザが、一般市民のあいだでも発生していると発表した。

 9月はじめ、アメリカ中部イリノイ州ロックフォード近郊のキャンプ・グラントには4万人の兵士が集結していた。兵舎は過密状態になっていた。160キロ離れた五大湖の海軍訓練所ではすでにインフルエンザ患者がでていたことを、このキャンプを指揮するハガドーン大佐も知っていた。
 しかし、大佐はむしろ兵士を密集させるよう命じた。インフルエンザ患者がではじめると、感染の爆発に歯止めがかからなくなった。
 病床が足りなくなり、簡易ベッドがあちこちつくられ、何百人もの兵士が死亡した。医療関係者にも死亡者がでた。
 ところが、キャンプは封鎖されなかった。それどころか、3000人以上の兵士が列車に乗せられて、ここから1500キロ先にあるジョージア州オーガスタ近郊の別のキャンプに送られていた。
 兵士を詰め込んだ列車内の換気は劣悪で、途中、大勢の兵士はバタバタと倒れた。そして、目的地到着後、2000人がインフルエンザで入院し、143人が死亡することになる。
 10月にはいると、キャンプ・グラントでは5000人近くがインフルエンザに感染していた。死亡者は500人を突破する。責任を感じたハガドーン大佐がピストル自殺。
 だが、「自らの犠牲をもってしても、インフルエンザの大流行はおさまらなかった」。

 いっぽう、フィラデルフィアでは9月28日の自由国債パレードから72時間もたたないうちに、市内31病院のベッドは一つ残らずふさがっていた。死者もではじめた。
 パレードから5日後、市当局は集会を禁止し、教会、学校、劇場、酒場を閉鎖した。巨大なポスターがはられ、市民には人混みを避け、くしゃみや咳をするときはハンカチを使うよう警告が出された。
 しかし、すでに手遅れだった。パレードから10日たつと、患者は毎日数十万人、死者は数百人の割合で増え、いっこうに収まる気配はなかった。
 棺桶が足りなくなり、遺体を置く場所さえなくなった。葬儀屋も墓掘り人も病気になり、積み上げられた遺体が埋葬を待っていた。
 フィラデルフィアの街は恐怖で凍りついた。
「凍りついて、まさに文字どおり沈黙した」と著者は記している。
 そのころ、ウイルスはすでにアメリカ全土にひろがり、大西洋岸、メキシコ湾岸、太平洋岸、そして五大湖周辺にどっかと腰を据えていた。
 はたして、この先どうなるのか。
 話はつづく。もう少し読んでみよう。

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