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4月でなく10月がピークだった──『グレート・インフルエンザ』を読む(3) [本]

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「これはインフルエンザだった。ただのインフルエンザだった。圧倒的多数の患者は快方に向かった。患者は持ちこたえ、軽度な者も重篤な者もいたが回復していった」
 著者はそう書いている。
 にもかかわらず、1918年にただのインフルエンザ・ウイルスがなぜパンデミックを引き起こし、何千万もの人を死にいたらしめたのだろうか。
 頭痛、発熱、悪寒、筋肉のしびれ、関節の痛み、呼吸不全、下痢、嘔吐、耳や目の痛み、嗅覚異常、鼻や気管支からの出血、精神障害、ありとあらゆる症状が重症感染者を襲った。死が訪れるのも急激だった。
 人びとは手をこまぬいてインフルエンザの流行をみていたわけではない。医学者はこのインフルエンザ病原体を発見するとともに、その治療法やワクチンの開発に向け、懸命の努力をつづけていた。だが、インフルエンザ病原体が細菌ではなくウイルスであることがわかるのは、1930年代になってからだ。
 ニューヨーク市では1918年9月15日に、はじめてインフルエンザによる死者がでた。当初、市は何の対策もとろうとしなかった。いたるところで感染がひろがるようになって、ようやく患者の隔離に踏み切った。しかし、病気はすぐにおさまるとの見方を示した。
 だが、それは甘かった。感染者は何十万と増えていった。最終的にニューヨーク市の死者数は、市当局の発表で3万3000人に達する。だが、実際の死者数はもっと多かった、と著者はいう。市が途中で感染による死亡者数を数えるのをやめてしまったからである。

 そのころ、アメリカ政府はどう動いていたのだろう。
 著者によれば、「1918年の夏には、ウィルソン[大統領]は国民生活のあらゆる面に国策を徹底させ、国民の関心と意思をすべて戦争に集中させるための大きな官僚機構をつくりあげていた」。
 経済は軍事管理下におかれていた。民主主義もまた制限されている。言論は統制され、政府に反対する者は容赦なく逮捕される状況だった。
 参戦とともに、徴兵対象者は18歳から45歳までの男子にひろげられていた。基幹産業ではたらいていない者は全員招集の対象になった。
 戦争末期になっても、ウィルソンは攻撃の手を緩めなかった。それどころか国を挙げて、完全な勝利に向けてさらに圧力を加えていた。インフルエンザ対策など見向きもされなかったわけである。
 とはいえ、陸海軍でインフルエンザが蔓延しているのを無視するわけにはいかなかった。そのため、9月末に徴兵は一時中止された。
 停戦まではまだ2カ月あった。ヨーロッパ戦線はまだ米兵の投入を求めていた。
 そのころ兵員輸送船リバイアサン号が、多くの兵を乗せてバージニア州の港を出港していた。狭苦しいところに何百人もの男たちが詰め込まれ、船内は過密なうえ、換気が行き届かなかった。
 港をでて48時間すると、医務室はインフルエンザで倒れた兵士や水兵でいっぱいになった。やがて地獄がはじまる。
 海上での埋葬がはじまった。デッキに並べられた遺体は、名前を呼ばれ、つぎつぎ海に投げこまれていった。輸送船は浮かぶ棺桶と化した。
 それでも参謀総長のマーチ大将は、ヨーロッパへ兵士を輸送するよう主張し、軍はこのあとも兵員輸送船をだしつづけた。
 ウィルソン大統領は兵士のことを気にかけてはいたが、民間人にたいしてはそれ以上に何もしなかった。インフルエンザに関しては公衆衛生局長のルパート・ブルーに対策をゆだねただけで、そのルパートはさらに何もしなかったどころか、関連研究を妨害するほどだった。
 9月17日には、西海岸のピュージェット湾でもインフルエンザが発生し、21日には首都ワシントンでインフルエンザによる初の死者がでた。それでも公衆衛生局長は何の対策もとらなかった。
 唯一おこなったのは、むやみに人混みには行かない、咳やくしゃみをするときは手で口をおおう、食事の前は手を洗う、口、肌、衣服を清潔に、きれいな空気を深呼吸して思い切り吸い込む、といったアドバイスを新聞を通じて発表しただけである。
 だが、こんなとってつけたようなアドバイスだけで、市民が安心できるわけはなかった。病気は軍のキャンプからキャンプへと飛び火し、すでに多くの兵士が死んでいたからである。
 徴兵は一時中止された。9月末、マサチューセッツ州では、すでに数千人の死者がでていた。海岸部だけではない。内陸地でも爆発的に感染がひろがっていた。
「一番残酷な月は4月でなく10月だった」と、著者は記している。
 インフルエンザの嵐は止められなかった。遮断と隔離によってインフルエンザの進行を妨げ、一時的な抑止帯をつくるくらいしか打つ手はなかった。
 このウイルスに感染した場合、効く薬はなかった。人の免疫システムがはたらくのを期待するほかない。
 とはいえ、適切な医療がほどこされるなら、細菌による2次感染で肺炎をおこすのを防ぐことは可能だった。それにはは医師による措置と医薬品が必要だった。それにX線装置や酸素吸入器があるに越したことはない。だが、医師も医薬品も酸素吸入器もベッドも足りなかった。
 さらに重要なのは看護婦だった、と著者は指摘する。

〈医師よりも看護婦のほうが役に立った。看護によって患者は緊張をやわらげ、潤いや安らぎ、平穏を保ち、最良の栄養を与えられ、高熱のときは冷やしてもらえた。看護はこの病気の患者に生き残る最大のチャンスを与えることができた。命を救うことができた。〉

 だが、その看護婦の数も決定的に不足していた。フランスでの戦闘激化にともない、赤十字社が予備の看護婦を残らず集めて、前線へ送りこんでいたためである。
 一般にウイルスは時間がたてば弱まっていく。インフルエンザの流行がピークを迎えて下火になるまでは6週間から8週間を要する。だが、1918年のパンデミックでは、その期間が持ちこたえられなかった。

 東部の港湾都市、フィラデルフィアは孤立していた。大流行がはじまったころに汚職で逮捕され、自身も感染した市長は、まったく何もしなかった。市の衛生当局はまったく信用されていなかった。
 市当局に代わって主導権をとったのは、フィラデルフィアの名家だった。その指示のもと女性たちのグループが立ちあがり、地区ごとに医療活動や物資供給をはじめた。
その動きをみて、市の衛生当局がようやく重い腰を上げる。医師の派遣や街路の清掃、死体の片づけをはじめたのだ。
 死体は町中にあふれ、その片づけ大幅に遅れていた。遺体の回収にトラックや荷馬車が用いられた。掘削機を使って、大量の墓穴が掘られ、遺体仮置場に積まれた死体が次々と埋められていった。
 50万人以上のフィラデルフィア市民が感染していた。10月10日のたった1日だけで、759人の死亡者がでた。
 混乱と恐怖で町は内部崩壊しはじめていた。どこからも援助は得られなかった。病気が病気だけに、ボランティアに応募する人は少なかった。
 市内では物が買えなくなった。日用品店も石炭業者も雑貨屋も店を閉じていた。工場はほとんど機能を停止していた。
 そんななか、医師や看護婦、警察官は英雄的に任務を遂行していた。
 10月16日からの1週間だけで、4597人ものフィラデルフィア市民が死亡した。
 インフルエンザの流行は永遠につづくかのように思えた。
 しかし、それは終わる。次回はそれがどのようにして終わったかをみていく。

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