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『佐藤栄作』(村井良太著)を読む(1) [われらの時代]

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 政治とは縁が薄いほうである。というか、どちらかというと、政府を批判する側を応援してきた。いまもそれは変わらない。
 佐藤栄作(1901〜75)については、このブログでも何度か書いてきた。ぼくが大学にいたころを「われらの時代」というなら、1964年から72年まで首相を務めた佐藤栄作はまさに「われらの時代」の総理大臣である。
 この人の政治的業績は大きい。日韓基本条約、沖縄返還、経済大国の実現を3大業績とみてよいだろう。もちろん、その業績には負の部分がつきまとっていて、その後の日本の政治はその影によってかき乱されてきた。いまもそうかもしれない。
 ぼくらは自分らの力だけで佐藤政治を止めようとして、むなしく空中分解する。あまりにもばかだったとしか言いようがない。まるで敵の大きさと強さがわかっていなかったのだ。世の中のことを知らぬまま、やたら突っ走っていた。
 佐藤栄作とは、どのような政治的存在だったのかをふり返ってみよう。
 日本の社会は縁でできている。縁はいろいろ、血縁もあれば地縁もあるし、結縁もある。良縁に悪縁。ともかく、縁が人を結び、人の関係をつくっている。政治もビジネスも家庭も、それは同じ。
 民主主義の基本は、民衆との契約にもとづいて代表者による政治行動がなされることだと思うのだが、日本ではそれはタテマエで、ほんとうは日本の政治は何らかの縁のつながりで動いているのではないかという気がする。もっともさすがに縁のつながりだけではだめで、政治家として大成するには本人の資質や才覚も必要になってくる。
 その点、佐藤栄作はまことに日本的な縁と才覚をいかした政治家だった。
 その縁はまず血縁から生じている。
 山口県田布施村の佐藤家は、もともと長州藩の家臣で、村で造り酒屋を営んでいた。長州の地縁も手伝って、佐藤家は明治になってからも政治とのかかわりが深かった。栄作の父親も以前は山口県庁に勤めていた。
 父の秀助は岸家から婿養子として佐藤家にはいった。そのため1901年生まれの栄作の兄、信介は岸の名を継いで、岸信介と名乗っていた。5歳年上の兄である。
 栄作は山口中学5年生のとき、いとこの寛子と婚約した。高校進学をめざして受験勉強をするさいには、東京帝国大学に進んでいた兄信介の下宿に居候した。
 希望した名古屋の第八高等学校には入れなかった。しかし、名古屋の下宿では、のちに首相となる池田勇人と同宿になった。
 佐藤は第二志望の熊本の第五高等学校(五高)をへて、東京帝国大学法学部に進む。学費の面倒をみてくれたのは、伯父にあたる松岡洋右である。
 東大時代は吉野作造のデモクラシーなど見向きもせず、保守的な上杉慎吉の憲法論などをよく聞いていたという。
 1923年、22歳のときに高等文官試験に合格したが、当初は官界ではなく伯父の勧める日本郵船に入社するつもりでいた。しかし、日本郵船がその年の採用を見送ったため、1924年に鉄道省に入省することになった。
 門司駅で研修を受けたときは、改札や切符売り、運転助役、車掌見習のほか、機関区での投炭までやったという。
 1926年にはいとこの寛子と結婚、福岡県二日市の駅長になった。
 そのころ伯父の松岡洋右は、南満洲鉄道の理事をしていたが、1930年に政友会から出馬し、当選。松岡は1933年2月、ジュネーブの国際連盟総会に全権として出席し、国連脱退演説をおこない、一躍有名となった。
 門司鉄道局時代の1934年6月、佐藤は在外研究員を命じられ、1年8カ月にわたって、アメリカを中心に、イギリス、ドイツ、イタリア、フランスなどを歴遊した。
 帰国してからは本省に移り、1936年7月から監督局業務課で民間業者の行政指導をおこなう仕事についた。翌年6月からは陸運管理官となる。
 1938年8月には監督局鉄道課長となり、私鉄の監督をおこなった。その前後、中国に出張し、中国の鉄道管理や沿線運送業の整備にあたったりしている。
 1940年7月に伯父の松岡は、第2次近衛内閣の外相となるが、1年後、閣外に去った。そのとき、すでに日独伊三国同盟と日ソ中立条約が結ばれていた。
 1941年10月に成立した東条英機内閣で、兄の岸信介が商工大臣に就任する。その前に岸は満州国の国務院で辣腕をふるい、満州の産業開発を推し進めていた。1942年4月の総選挙で、岸は山口二区から立候補して、当選し、代議士になる。
 1941年12月、41歳の佐藤は鉄道省監督局長、更に翌年9月に監理局長に就任する。やがて鉄道省と逓信省は統合され、運輸通信省となる。佐藤は自動車局長として戦時輸送の監督を担った。
 1944年4月、本省から大阪鉄道局長への転出がきまる。佐藤はこれを左遷と感じていた。このころ労働界出身の代議士、西尾末広と懇意になる。
 終戦直前の1945年5月に運輸通信省は運輸省と名前を変えた。大阪でも空襲がつづいていた。佐藤の家族は東京の岸信介の家から、丹波篠山に疎開する。
 終戦の日、篠山にいた佐藤はしばらく前から病気で寝込んでおり、ようやく回復して11月に大阪に帰った。これからは民主政治の時代だと思ったという。
 1946年2月、佐藤は運輸省鉄道総局長官として東京に戻る。もし大阪に「左遷」されていなければ、官界から追放されていただろう。後年、人間何が幸いになり不幸になるかわからないと語っている。
1947年2月には運輸事務次官となる。このころ運輸大臣を打診された。しかし、戦犯容疑者、岸の弟だからだめだとGHQが認めなかったため、この人事は沙汰止みとなった。
 佐藤は片山内閣のときも、官房長官を務めていた西尾末広から官房副長官就任を求められている。そのときは社会党入りを考えたこともあるという。
 1948年2月に片山内閣が倒れ、3月10日に中道連立の芦田均内閣が発足する。3月15日に吉田茂を総裁とする民主自由党(民自党)が結成された。このとき、佐藤は運輸事務次官を辞任し、すぐさま民主自由党に入党し、選挙準備をはじめた。このとき48歳。吉田茂は遠縁にあたる。敗戦がなければ、政治家になることもなかっただろう、と後年、回想している。
 当時野党の民自党は官僚の入党を積極的に進めていた。佐藤とともに、大蔵事務次官の池田勇人、同じく大蔵官僚の橋本龍伍(橋本龍太郎の父)なども民自党に入党した。
 行政事務がわからなくては政治にならない、加えて、学者の意見や専門家の話も尊重する、というのが吉田の姿勢だった。
 芦田内閣が昭和電工事件で倒れると、10月に第2次吉田内閣が発足する。佐藤はまだ議員ではないのに内閣官房長官に抜擢された。本人の弁によると、政界のことなど何も知らないのに、いきなりの官房長官で、ことごとくつまずいて苦労ばかりしたという。GHQにも翻弄された。
東条英機らが絞首刑になった翌日の12月24日、佐藤は官房長官邸で巣鴨拘置所から釈放された兄、信介と会った。
 1949年1月の総選挙で佐藤ははじめて立候補し、当選する。このとき大蔵省出身の池田勇人や新聞記者出身の橋本登美三郎も民自党から初当選している。
 第3次吉田内閣で、佐藤は党の政務会長となる。翌1950年、民自党は民主党の一部と合同して、自由党を結成し、佐藤は幹事長となった。朝鮮戦争がはじまった。
 1951年7月、佐藤は郵政大臣として初入閣を果たす。9月、サンフランシスコで対日講和条約が調印され、日米安保条約が締結される。このとき、奄美諸島、琉球列島、小笠原諸島は依然としてアメリカの支配下にあった。
 1952年4月、対日平和条約と日米安保条約が発効し、日本は独立を回復する。台湾の中華民国政府とのあいだで日華平和条約が結ばれた。
 戦後、保守派内では根深い対立がつづいていた。吉田茂と鳩山一郎の対立である。吉田は抜き打ち解散をはかり、そのことがさらに両派の対立を激化させた。10月の総選挙でも佐藤は当選し、第4次吉田内閣で建設大臣に就任している。
 1953年2月には、大もめのすえふたたび幹事長となる。だが、すぐ吉田の「バカヤロー解散」となった。4月の総選挙で、佐藤は中選挙区5人区でトップ当選、兄の岸信介は3位にはいった。自由党は第1党になったが、過半数にはおよばなかった。保守協力がならないまま第5次吉田内閣が発足する。12月には奄美諸島が返還された。
 1954年3月、アメリカによるキニ環礁での水爆実験で、マグロ漁船福竜丸が被爆し、死者がでた。
政治の混乱がつづいていた。そんななか、自由党幹事長の佐藤、政調会長の池田は、いわゆる造船疑獄で検察の取り調べを受ける。党の裏金づくりが発覚したのである。4月20日に佐藤逮捕の許諾を求められた犬養健法相は指揮権を発動、逮捕は取りやめとなった。
 政治資金規正法違反でも起訴された佐藤は7月に幹事長を辞任する。
 政治の表舞台から一時離れた佐藤は2カ月にわたる長期外遊に出る。タイ、インド、パキスタンをめぐって渡欧し、フランスで吉田茂と合流、西ドイツ、イギリス、アメリカをめぐり、多くの政治家と会った。帰国したときにも、党内の情勢は混乱をきわめていた。12月7日、吉田内閣が倒れると同時に、吉田は自由党総裁をも辞任した。
 首相の座を射止めたのは、民主党の鳩山一郎だった。鳩山は吉田政治を批判し、憲法改正や日ソ国交回復を唱え、日本の独立の完成を目指した。
 鳩山ブームのなか1955年2月の総選挙で、民主党は第一党となった。だが、過半数には届かなかった。造船疑獄の批判を浴びていたとはいえ、佐藤は自由党から出馬して、5人中1位で当選をはたした。
10月13日に社会党が再統一されたのを受けて、11月13日には民主党と自由党が合同し、自由民主党(自民党)が誕生する。これにより鳩山は安定多数を確保する。だが、党内はぎくしゃくしている。このとき、吉田らとともに佐藤は無所属の立場を貫いた。
 1956年7月の参議院選挙で、自民党は3分の2の議席を得られず、憲法改正は先送りとなった。10月19日、鳩山はモスクワで日ソ共同宣言に調印した。これを花道に鳩山は引退。自民党総裁選がおこなわれ、石橋湛山が総裁に選ばれた。12月23日に石橋内閣が発足する。だが、1カ月後に石橋は病気となり、岸信介が臨時首相代理に任命された。
 1957年2月、佐藤は吉田とともに自民党に入党する。岸内閣の時代がはじまっていた。

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U3

だいだらぼっちさん、こんにちは。
 じっくり読ませて頂きました。戦後の政治の歩みを改めて確認させて頂いた気がします。
 これを見ると、安倍晋三が憲法改正は自民党の悲願というプロパガンダは眉唾というのがよく分かります。叔父の岸、大叔父の佐藤は自由党で憲法改正を目指していた訳ではない。ライバルの民主党の鳩山一郎こそが憲法改正を目指していた訳ですから。
 安倍晋三に政治家としての信条も矜恃もない理由がこれで分かりました。周りから洗脳されてそれを鵜呑みにし今に至っているのでしょう。
 次回楽しみにしています。
by U3 (2020-04-05 16:10) 

U3

追記
小生もだいだらぼっちさんと同じ市の在住です。
海神にある〇〇中央病院には二ヶ月に一度通院しています。
新型コロナウィルスに対応する中核病院なのであまり行きたくはないのですけれど(o゚∀゚o)
by U3 (2020-04-05 16:15) 

だいだらぼっち

コメントありがとうございます。こちらこそU3さんのブログをいつも楽しみに読ませていただいております。これからもよろしくお願いします。
by だいだらぼっち (2020-04-09 10:50) 

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