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『佐藤栄作』(村井良太著)を読む(2) [われらの時代]

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 1957年6月に岸首相は訪米してアイゼンハワー大統領と会見し、日米安保条約の再検討を求めた。7月の内閣改造で佐藤は入閣せず、のち12月に党の総務会長に就任する。
 1958年の第2次岸内閣で、佐藤は蔵相として入閣する。日本は高度成長の道を歩みはじめていた。
 佐藤は主要閣僚として安保改定の一翼を担った。アメリカ側とのひそかな交渉がつづくなか、岸内閣は警察官の権限を強化する警察官職務執行法案を国会に提出した。しかし、いかにも政治的反対派の規制をめざしたこの法案は、激しい反発を招いて、廃案となった。
 1960年1月、岸はワシントンに飛び、新日米安保条約と日米地位協定に調印した。旧条約とちがい、新条約では米国の日本防衛義務が明記され、その期限が10年とされ、その後はどちらか一方の政府が終了の意思を通告すれば1年後に終了するという規定が設けられた。日本は集団的自衛権をもつが、憲法上、それを行使できないという立場を示した。条約には日米の経済協力もうたわれていた。
 また条約とは別に事前協議制が定められた。米軍が新たな配備をおこなったり、在日米軍基地から戦闘作戦行動を実施したり、核兵器を持ち込んだりする場合は、日本政府と事前に協議するというものである。だが、現実には多くの抜け道が残されていた。
 保革対立が高まるなか、国会審議は長引いた。5月19日、衆議院議長の清瀬一郎は警官隊を導入し、自民党単独で会期延長と新安保条約の強行採決がおこなわれた。この日を境に、国会外では「議会制民主主義を守れ」という声が高まり、安保反対デモが連日国会を取り囲むようになる。6月15日には全学連が国会に突入し、樺美智子が死亡した。
 6月19日、参議院での承認のないまま、安保条約が自然承認される。22日にアメリカでの承認が済み、翌日、批准書の交換が終わると岸は退陣を表明した。
 7月19日、池田勇人内閣が発足する。池田は政治の焦点を政治から経済に移した。「寛容と忍耐」をスローガンに低姿勢に努めたが、これに佐藤は批判的だった。11月の総選挙で自民党は勝利する。佐藤、岸とも山口2区で当選をはたした。
 池田政権には安保闘争で傷ついた日米関係を修復するという課題もあった。1961年1月にケネディ政権が発足するとともに、駐日大使にライシャワーが就任する。池田は6月に訪米し、7月に内閣改造を実施。佐藤は通産大臣となった。
 62年の総裁選で佐藤は立候補を見送り、池田は再選をはたした。改造内閣では閣外にでて、無役となり、秋に45日にわたる外遊にでた。すでに派閥の長として、隠然たる勢力を誇るようになっている。
イギリスではマクミラン首相、労働党党首(のち首相)のハロルド・ウィルソン、フランスではドゴール大統領、西ドイツではアデナウアー首相、アメリカではケネディ大統領と会っている。
 佐藤はイギリス労働党のウィルソンが、一国の繁栄の裏には一国の安全があり、安全のために最善を尽くすことは社会主義政党であろうが保守政党であろうが、何ら変わらないと述べたことに感銘を受けている。またアメリカ滞在では「自立」ではなく、「日米緊密化、提携のもとにおける日本経済」の繁栄こそがだいじだと、あらためて認識した。日米緊密化のもとでの経済繁栄が、師、吉田茂以来の佐藤の基本的政治路線といってよい。その点は、池田勇人とも何ら変わるところはなかった。
 このころ、かならずしも自民党は圧倒的な優位を占めていたわけではなかった。ライシャワーも社会、民社、共産の革新政党が今後伸びてくるだろうと予測していた。
 1963年4月の統一地方選挙では、大阪市と横浜市に革新市長が誕生していた。
 7月の第2次池田内閣で、佐藤はオリンピック担当国務相となり、北海道開発庁長官と科学技術庁長官を兼務した。この人事を仲介したのは吉田茂だった。
 佐藤は秋にパリで開催されるOECD科学閣僚会議に出席するため欧州各国を再訪問し、ドゴールやポンピドゥーとも会見している。
 11月にはケネディ大統領が暗殺され、ジョンソン副大統領が大統領に昇格した。
 1964年7月には自民党総裁選が予定されていた。佐藤は政権奪取に向けて準備をはじめる。政策通の愛知揆一、元通産官僚の山下英明、産経新聞の楠田實、共同通信の麓邦明らをブレーンとして、政策ビジョンを練りあげていった。もちろん派閥のさらなる結束もはかっている。
 6月27日に佐藤は閣僚を辞任する。すでに政策ビジョンはまとまっていた。内政の柱としては、人間尊重、歩行者優先、経済開発とバランスのとれた社会開発がうたわれていた。中道よりやや左寄りの政策である。
 岸の弟ということもあって、佐藤は往々にして池田より右寄りの政治家と見られていた。この政策ビジョンは、そのイメージを払拭するためでもある。ともあれ、池田とのちがいを鮮明に打ちだす必要があった。
 佐藤の経済政策は高度成長論ではなく、安定成長論であり、高度成長のひずみを改善することがうたわれていた。住宅政策も大きな課題だった。外交面では、ソ連に対し南千島の返還を、アメリカに対し沖縄の返還を求めるという姿勢が打ちだされた。憲法については、むやみに改正をめざさず、憲法の精神を「静思」するという立場だった
 だが7月の総裁選では池田が3選され、佐藤は敗れ去る。
 8月には、幻のいわゆるトンキン湾事件が発生し、ベトナム戦争はいよいよエスカレートしていく。
 9月、IMF総会が日本ではじめて開かれた。だが、その最中に池田首相は入院する。10月10日からは東京オリンピックが開催された。
 東京オリンピックが無事終了した翌日の10月25日、池田首相は辞意を表明する。後継新総裁については、話し合いによる選出を求めた。
 11月9日、党内の意向を受けて、池田は佐藤を後継総裁に指名した。こうして佐藤政権が発足することになる。
 佐藤政権が発足したとき、新たに官房長官となった橋本登美三郎は「日米安保条約が自動継続となる(昭和)45年6月まではやりたい」と述べて、記者団の失笑を買ったという。しかし、実際には佐藤政権は70年安保どころか72年7月7日まで、約7年8カ月におよぶ長期政権となった。

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