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『佐藤栄作』(村井良太著)を読む(4) [われらの時代]

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 おうおうにして「待ちの政治」と評されたが、佐藤は政治家にとってだいじなのはリーダーシップであって、決定のチャンス、タイミングをつかむことだと考えていた。
 1967年2月、第2次佐藤政権が発足するが、閣僚は前回の改造からすべて留任。政策ブレーンの楠田實は首相の政務担当秘書官(主席秘書官)となった。
 黒い霧解散を乗り越えた佐藤は、3月の施政方針演説で「心を新たにして議会民主政治の確立に努める」と述べた。いっぽうの社会党は政府への対決姿勢を強めていた。
 4月の統一地方選挙では、東京都知事に美濃部亮吉が当選し、佐藤はショックを受ける。
 佐藤が当初かかげた社会開発論は、一時の華やかさを失っていたが、次第に総合的な都市政策、地域開発へと進んでいった。「人間尊重」という観点では、8月に公害対策基本法が成立したのが見逃せない。
 佐藤は6月30日に韓国を訪問し、朴正熙大統領と会見した。
 1963年にゴ・ディン・ジェム政権がクーデターで倒されて以来、南ベトナムの政局が不安定になっているのが気がかりだった。
 8月16日には首相の諮問機関となった沖縄問題等懇談会の初会合がもたれた。ここで佐藤は、秋の訪米時に沖縄と小笠原諸島の施政権返還について米側首脳部と率直に話し合うことを表明した。佐藤の立場は沖縄の核抜き一括返還論だった。
 アメリカが心配していたのは1970年の日米安保条約自動延長である。もしこの時点でアメリカが沖縄の本土復帰を約束していなかったら、日米関係が大きな危機を迎えることになるとの懸念があった。しかし、米国防省はあくまでもアメリカの安全保障上の利益にこだわりつづけていた。
 9月7日から9日まで、佐藤は台湾を訪問し、総統の蒋介石と首脳会談をおこなう。蒋介石は文化大革命で混乱する中国大陸に反攻すると意欲満々だった。
 9月20日から30日までは、ビルマ、マレーシア、シンガポール、タイ、ラオスの5カ国を訪問。
さらに10月8日からはインドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、南ベトナムの歴訪に出発する。
 このとき、これを阻止しようとする学生たちの闘争により、学生が一人死亡した。だが、佐藤は旅程をつづける。フィリピンを訪れたとき、佐藤は恩師吉田茂の訃報に接し、南ベトナム滞在を短縮して、急遽、日本に帰国した。
 吉田の国葬は10月31日におこなわれ、佐藤は葬儀委員長をつとめた。
 吉田の死が、沖縄返還に賭ける佐藤の思いを強くしていた。極東の安全保障を保ちながら沖縄返還を実現させるというのが、佐藤の引いた路線である。
 佐藤は11月12日から20日まで渡米する。その前に、首脳会議の詰めの作業をおこなうため、国際政治学者の若泉敬を何度もアメリカに派遣し、米政府の高官と接触させていた。若泉は佐藤のいわば密使だった。
 佐藤訪米にあたっては、またも羽田付近で反対闘争が巻き起こった。
 ジョンソン大統領との会談では、いきなりポンド危機の問題がでたが、そのあと佐藤は歴訪した東南アジアの情勢について説明し、さらに沖縄、小笠原問題がいまや国民的願望になっていることを伝えた。
 佐藤はジョンソンに、中国が核武装している最中に沖縄の基地をなくすことは考えられないにしても、この2、3年のうちに沖縄が返せるめどだけでもつけられないかと迫った。
 午後のマクナマラ国防長官との会談で、佐藤はマクナマラから自由世界の防衛に日本が参加するよう求められた。これにたいし、佐藤は日本は経済的財政的援助ならともかく、軍事的援助はいっさいできないと言い切った。また日本は中国に対抗して核をもつことなく、あくまでも「米国の核の傘の下で安全を確保する」と述べている。
 マクナマラは沖縄返還に理解を示し、問題は返還ではなく基地にあると発言した。これにたいし、佐藤は即時返還とはいわないが、日米友好親善のためにも、基地の維持のためにも、返還のめどを示すべきだと主張した。
 翌日、佐藤はラスク国務長官とも会って、沖縄返還を訴えている。
 二度目の首脳会談で、ジョンソンは「米国に戦争を今後2、3年間継続してほしいなら、5億ドルくらいの援助はしてほしい」と述べた。これにたいし、佐藤は最善を尽くすと返答した。
 11月15日の日米共同声明では「沖縄の施政権を日本に返還するとの方針」が確認され、佐藤首相が「ここ両三年内」に双方が返還時期について合意すべきことを強調し、ジョンソン大統領も日本国民の要望を理解していることが明記された。小笠原諸島については早期返還が合意された。
 帰国後の11月21日、佐藤は昭和天皇に内奏し、訪米の成果を説明した。
11月25日には内閣改造がおこなわれた。厚相に天草出身の園田直を任命したのは、水俣病など公害問題に取り組む姿勢を示したかったからである。
 12月の所信表明演説後の質問で、社会党の成田委員長や公明党の竹入委員長にたいし、佐藤は小笠原の復帰に関連して、日本は核兵器の保有はしない、核の持ち込みを認めないとの非核三原則につながる答弁をおこなっている。
 とはいえ、米政府はひそかな抜け道をさぐっていた。

 1968年は激動の年となった。
 1月19日、アメリカの原子力空母エンタープライズが佐世保に入港。三派系全学連学生との大規模な衝突事件が発生していた。市民のあいだでも学生を支援する声が強かった。
 1月27日、佐藤は核時代に生きる人類をテーマに施政方針演説をおこない、「われわれは、核兵器の絶滅を念願し、自らもあえてこれを保有せず、その持ち込みも許さない決意であります」と述べた。
 この演説は核を製造せず、保有せず、持ち込ましめずの、いわゆる「非核三原則」へと発展する。だが同時に佐藤は、非核三原則が日米安保条約と不可分であることを強調していた。
 だが、核を持ち込まずには、核兵器を掲載した艦船、航空機の一時立ち寄りは認めるという日米間の「暗黙の合意」が隠されていた。無論、非常事態における事前協議による核持ち込みという項目も生きている。
 1月30日、南ベトナムでは南ベトナム民族解放戦線によるテト攻勢があり、米軍は苦境に立たされた。
 3月31日、ジョンソン大統領はベトナムでの緊張緩和措置として北爆の停止を発表し、さらに11月の大統領選挙に再出馬しないことを表明した。
 この発表がなされた日本時間の4月1日には王子野戦病院をめぐるデモで群衆に死者が出た。
 成田闘争も激化していた。学生や農民の抗議活動に共感する市民の声は、けっして少なくなかった。
 4月5日、日米間で小笠原返還協定が結ばれ、6月26日に小笠原は日本に返還された。
 このころアメリカ、フランス、イタリアを含む世界各地で、学生を主力とする学生運動が勢いを増していた。日本では、東大闘争、日大闘争が盛り上がり、いわゆる全共闘が結成されていく。
 4月28日のいわゆる「沖縄デー」でも、沖縄と本土で大規模なデモがくり広げられていた。
 1960年に結ばれた日米安保条約の10年期限が近づいていた。政府と自民党は6月11日に連絡会議を開き、70年には日米安保を自動延長する方針を確認した。
 7月7日の参議院選挙で、自民党は国民の信任を得た。社会党は大きく議席を失っていた。
 8月20日にはチェコスロバキアに20万のワルシャワ条約機構軍が侵入し、「プラハの春」以来の自由化の期待をつぶした。
 9月13日に岐阜県で開かれた「一日内閣」で、佐藤はチェコスロバキア事件を取りあげ、国を守る気概と非核三原則、日米安保条約の重要性を強調した。
「国際反戦デー」の10月21日、新宿では大規模な騒乱が発生し、騒乱罪が適用される事態となった。
 10月23日には明治100年記念式典が開かれた。佐藤は過去百年の経験を省み、新しい百年に向かって新しい歩みを進めようと呼びかけた。だが、式典には批判も強く、社会党、共産党は式典に参加しなかった。
 11月6日、米大統領選挙でリチャード・ニクソンが僅差で勝利を収め、次期大統領に決まった。
 11月10日、沖縄では琉球政府初の行政主席選挙がおこなわれ、基地の即時無条件全面返還を打ちだした革新共闘候補の屋良朝苗が当選した。佐藤は、復帰問題はちょっとむつかしくなるかと感じた。
 11月27日の自民党総裁選挙で、佐藤は圧勝し、3選を勝ちとる。佐藤の政治綱領は、非核三原則を堅持し、自主防衛を充実すること、沖縄の祖国復帰を実現することだった。総裁選の得票2位は、外相を辞任した三木武夫で、これ以降、三木は党内で存在感を増していく。
 11月30日には内閣改造があり、保利茂が官房長官、木村俊夫が官房副長官になった。保利は大学問題を沈静化させつつ、首相を米国に送り、沖縄問題について大統領との会談に持ち込むことをみずからの使命と考えていた。

 1969年1月19日、学生運動家たちによって封鎖されていた東大の安田講堂は、機動隊によって1月19日に強行解除された。その翌日、佐藤は坂田道太文相とともに東大を視察し、「本来教育の場であり研究の場であるべき学園が、反体制的活動、政治闘争の場になっている」ことを嘆いた。
 2月、沖縄ではゼネストが計画されていた。前年11月に嘉手納基地でB52が離陸に失敗して大爆発する事故がおきていた。最終的にゼネストは回避されるが、B52の撤去をはじめとして基地問題にたいする沖縄の関心はますます高まっていた。
 沖縄や大学をめぐって、国会審議も荒れた。3月8日、佐藤は参議院予算委員会で、沖縄返還については「核抜き本土並み」で交渉する姿勢を表明した。
 4月28日の「沖縄デー」も大荒れとなり、学生と機動隊が衝突した。私邸にも学生たちが押し寄せ、危険を感じるようになった佐藤は住まいを首相公邸に移す。
 中央教育審議会の答申を踏まえて、大学臨時措置法案が国会に提出された。紛争の早期収拾と閉校・廃校措置を盛りこんだ5年間の時限付き法案は、大学の自治を損ないかねないと強い反発を受けたが、8月に強行採決の末、可決された。それ以降、大学紛争は目に見えて下火になっていく。大学当局が管理を強化し、機動隊の導入を躊躇しなくなったためである。
 いっぽう、アメリカのニクソン政権は対日政策の見直しを始めていた。ニクソンは、沖縄返還の合意がなされれば、日米安保条約の破棄や修正を求める日本人の感情を抑制できるのではないか、と考えるようになっていた。
 5月28日の国家安全保障会議で、ニクソン政権は1970年以降も日米安保条約を現行のまま継続することを条件としながら、沖縄の施政権返還に踏み切ることを決定した。
 7月25日、ニクソンは訪問先のグアムで、アジア諸国の一層の自助と米国の負担軽減を求めるいわゆるグアム・ドクトリンを発表した。
 佐藤も沖縄返還に向けて、アメリカに積極的にはたらきかけていた。6月には愛知外相を訪米させ、7月にも若泉敬を特使として送りこんだ。
 あくまでも核抜き返還で、秘密協定は結びたくないという佐藤にたいして、若泉は沖縄の核抜き返還を実現するためには秘密協定もやむをえないと考えていた。
 7月末にはロジャーズ国務長官が来日し、愛知外相、佐藤首相と沖縄問題について語りあった。
 国会閉会後の8月6日、佐藤は沖縄返還については明るい希望がもてると話し、大学臨時措置法については、大学自治を守るための最小限度必要な措置だという認識を示した。
 8月26日、佐藤は外国人記者団に「核を保有しない日本は米国の核の傘の下にあり、今後も集団安全保障体制によって安全を確保して行きたい」と語った。さらに2日後のテレビ番組では、沖縄返還の意義は「戦争で失った領土を平和裡に話し合いで復帰させる」ことにあると述べた。
 沖縄返還交渉は詰めの段階にはいった。
 残された問題のひとつは、沖縄での核兵器の撤去と再持ち込みをどうするかということである。核兵器の撤去はいうまでもない。再持ち込みについては、あくまでも事前協議を前提に、非常事態で必要なら再持ち込みを認めるというのが佐藤の考え方だった。
 返還をめぐる費用の問題もあった。沖縄返還にともなう財政措置として、アメリカは資産の買い取りや基地移転費用の負担を求め、日本側はこれをほぼ認め、費用を支払うことになった。
 交渉の過程で、突然、繊維問題が浮上してくる。アメリカは日本に繊維製品の対米輸出を自主規制するよう求めており、ニクソン政権はこれを沖縄返還問題と強引に絡めてきた。
 11月17日から26日まで、佐藤は訪米する。出発の前日と当日、佐藤訪米を阻止しようとする大規模な反対運動がくり広げられ、多くの逮捕者がでた。
 若泉とキッシンジャーのあいだでは、繊維問題をめぐるやりとりがつづいていた。沖縄返還がぶち壊しになることを恐れた佐藤は、若泉にアメリカとの妥協を指示した。善処することを伝えたのだ。
 佐藤・ニクソン会談は19日から21日までの3日間にわたっておこなわれた。
 初日の会談で、佐藤は日米安保条約を堅持すると約束し、沖縄が返還されたうえは日本の自衛力を強化しなければならないと述べた。これにたいし、ニクソンは日本が軍事的により大きな責任を果たすべきだと主張した。佐藤は日本が純軍事的に世界の平和維持に加わることは無理だが、経済協力等で努力すると答えた。
 返還にあたっての日本の負担について確認したあとは、核をめぐる共同声明の文言についてのやりとりがあった。
 文言は最終的に次のようにまとまる。

〈総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情及びこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し、大統領は、深い理解を示し、(日米安保条約の事前協議制度に関する米国の立場を害することなく)沖縄の返還を、右の日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を総理大臣に確約した。〉

( )内はアメリカの要求によって、日本側が書き加えた部分である。そこが、抜け道で核持ち込みを可能にするミソの部分だった。
 文言の合意がなされたあと、ニクソンは佐藤を隣接する小部屋に誘い、握手したあと、秘密合意議事録にサインするよう求めた。
 いわゆる「核密約」と呼ばれる文書である。
 アメリカは極めて重大な緊急事態が生じた場合は、日本政府と事前協議したうえで、核兵器をふたたび沖縄に持ち込み、もしくは通過することができるし、日本側は遅滞なく事前協議において、それらの要件を満たす。これが密約の内容である。
 こうして、この「核密約」含みつつも、佐藤によれば、ともかくも「本土なみ核抜き」の沖縄返還が決まった。
 2日目は沖縄返還とからんで繊維問題がもちだされたが、佐藤からみれば、ごくあっさり片づいたように思えた。佐藤が善処すると伝えていたためである。だが、これがあとで問題になってくる。
 3日目、無事に日米共同声明が発表された。日本の安全にとっては、韓国、台湾の安全も重要であることが強調され、沖縄返還までにベトナム戦争が終結していない場合も、日本が米国の努力を阻害しないようじゅうぶん協議することが約束されていた。
 これにより、日米安保条約の堅持と、沖縄の「核抜き本土並み、72年返還」が決まった。
 そのあと、佐藤はナショナル・プレス・クラブで演説、さらに移動先のニューヨークで「沖縄同胞に贈ることば」を発表し、11月26日に帰国した。
 11月28日には昭和天皇に帰朝報告をおこない、屋良朝苗とも会っている。師の吉田茂と伯父の松岡洋右の墓参りをすることも忘れなかった。
 12月2日には衆議院が解散され、12月27日の総選挙で自民党は大勝した。自民党が300議席を獲得したのにたいし、社会党は90議席と大きく議席数を減らした。
 佐藤は日記に「選挙がすんで感ずる事。第二党のない現状の責任の重大さを痛感」と記している。

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U3

だいだらぼっちさんこんばんは。
いつもながらよみでがありますね。
by U3 (2020-04-13 21:09) 

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