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一気にスターに──沢木耕太郎『流星ひとつ』を読む(2) [われらの時代]

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 藤圭子が東京に行くきっかけは、中学3年のとき岩見沢市民会館の雪祭り歌謡大会で、北島三郎の「函館の女(ひと)」を歌ったことだという。東京から来るはずだった歌手が急に来られなくなったため、岩見沢のきらく園で歌っている彼女に代役が回ってきたのだ。
 たまたま歌を聴いていた八洲秀章という作曲家が、プロになる気があるなら、東京に出ていらっしゃい、と言ってくれた。
 その話に両親が乗って、圭子は東京に出ることになった。
 旭川を出たのは中学の卒業式当日。卒業証書をもらってから、汽車に乗って、母親といっしょに東京に向かった。
 母と西日暮里にアパートを借りて、それから父もでてきて、八洲先生のところでレッスンがはじまった。
 しかし、ビクターでのオーディションには落ちてしまう。
 そば屋のバイトをしたり、髪型のモデルをしたりしたあと、両親といっしょに錦糸町や浅草で流しをはじめた。

「どんな歌を歌ってた?」
「いろいろ……言われて歌えないのも口惜しいし、歌詞カードを見ながら歌うのもいやだから、家で懸命に覚えたな、いろんな歌を」
「しかし、あなたみたいな女の子がギター抱えて店に入ってきたら、これはびっくりするだろうな」
「そんなことないよ。そんなことで驚くような世界じゃないよ。夜の世界なんて」
「でも、あなたみたいな女の子の流しなんて、錦糸町にも、浅草にもいなかっただろうからなあ」
「そりゃ、そうですよ。だから、どんな不景気でも、仕事はあったんだから」
「やっぱり、びっくりするよ。……錦糸町までは国電で通っていたの?」
「うん。西日暮里の駅から電車に乗って……そう、よく通ったなあ。親子三人で、ギターと三味線を抱えて……錦糸町まで……」

 オーディションに落ちたあと、圭子は八洲先生のところを離れて、別のところでレッスンを受けていた。そのとき知り合ったのが沢ノ井龍二という27歳の売れない作詞家だった。沢ノ井は浅草の裏町で流しをしている圭子を見つけて、スカウトする。
 けっきょく、圭子は新宿の沢ノ井の家に下宿することになった。その家には沢ノ井の母とネコがいた。
 圭子は小さなプロダクションにも所属していた。そこからキングのオーディションを受けたら、何と受かってしまった。
 困ったことに、沢ノ井は東芝専属の作詞家だった。しかたなく、キングのほうは父に断りにいってもらった。
 ところが、東芝を受けたら、落ちてしまった。
 下宿している1年間は、レッスンやオーディションを受けたりしているうちに、あっという間にすぎていく。
 コロムビアにも受かったが、それを断ってRCAからデビューすることになったのは、RCAに熱心なディレクターがいたからである。
 初アルバム「新宿の女」が発売されたのは1969年9月25日。ほんとうは18歳になって2カ月だったが、パンフレットでは1年サバを読んで、17歳と記されていた。
 最初は売れなかった。キャンペーンで新宿のいろんな店を回って、1日50回以上歌ったりもした。

「〈新宿の女〉が売れ出したのは、翌年?」
「次の年の二月に〈女のブルース〉を出したんだよね。出したら、それはすぐ売れて、それに引きずられて、また〈新宿の女〉が売れたっていう感じかな」
「ぼくは正直いうと、〈新宿の女〉があまり好きじゃなかった。好きじゃない、というより嫌いだったな、はっきりと。アクの強い、ザラッとするような……そのアクの強さに、アレルギーを起こしたのかもしれないね」
「あの歌はね、本人が余計なことを何も考えず、ただの歌と思って歌っていたところに、いいとこがあったと思うの。あたしが男になれたなら、あたしは女を捨てないわ、なんて、考えはじめたら歌えるような歌詞じゃないよ、実際」
「しかし、〈女のブルース〉っていうのは、いい歌だと思った。歌詞が変っててね」

 おそらく「新宿の女」は、まだ少女っぽい女の子が、いきなりハスキーな声で夜の女の話を歌うというギャップの妙に受けをねらっていたのだろう。
「女のブルース」はこんな歌だ。

  女ですもの 恋をする
  女ですもの 夢に酔う
  女ですもの ただ一人
  女ですもの 生きて行く

 藤圭子は「初めてこの歌詞を見たときは……震えたね。すごい、と思った。衝撃的だったよ」と語っている。
 さらに

  何処で生きても 風が吹く
  何処で生きても 雨が降る
  何処で生きても ひとり花
  何処で生きても いつか散る

 単純なことばをくり返しながら情感は次第に高まっていく。
 作詞は石坂まさを、すなわち沢ノ井龍二だった。
 女の、いや藤圭子の「独立宣言」みたいな歌である。強さとはかなさが同居している。
「女のブルース」につづいて、2カ月後に立て続けに「圭子の夢は夜ひらく」がでる。
 何といっても有名なのは二番の歌詞だ。

  十五、十六、十七と
  私の人生暗かった
  過去はどんなに暗くとも
  夢は夜ひらく

 だれもが、この歌詞に藤圭子の人生を重ね合わせた。
 沢木耕太郎も聞いている。

「この歌詞に抵抗感はなかった?」
「なかった」
「これ、自分のことを歌っているとは思わなかった?」
「思わなかった。ただの歌の、ただの歌詞だと思ってた」
「でも、聞く人は、その歌詞をあなたそのものに投影して、感動してたわけだよ」
「人がどう思おうと関係ないよ」
「それでは、そうおもわれることに対する抵抗感は?」
「ぜんぜん、なかった。思うのはその人の勝手だから」
「十五、十六、十七と、あなたの人生、暗くはなかった?」
「暗くないよ、とりあえず、いまの人生が、幸せなんだから」
「でもさ、そのときはどうだったの?」
「食べて、生きてこられたんだもの、それが暗いはずないよ」
「あなたは……実に意地っぱりですね。呆れるというより、感動するくらい」
「フフフッ。そんな意地っぱりかなあ、あたし」

「夢は夜ひらく」はもともと東京少年鑑別所(通称ネリカン)で伝わっていた歌だ。さまざまなアレンジがあり、園マリも歌っていた。しかし、圧倒的なのはやはり石坂まさを作詞、曽根幸明作曲の藤圭子版である。
 受験戦争を終えたあとの大学闘争も収拾され、どこか廃墟に残されていたように感じていたぼくらは、あのころ藤圭子の「夢は夜ひらく」に出会ったのだった。熾火のような夜の夢をかかえながら。
 1969年9月に「新宿の女」でデビューして、1970年の藤圭子は2月に「女のブルース」、4月に「圭子の夢は夜ひらく」、7月に「命預けます」を出して、まさに歌謡界を駆け抜けていった。
 そして、強烈な光を放ったあと、突然、枯れてしまったようにみえた。
 どうしてだったのだろう。

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U3

だいだらぼっちさん、こんにちは。
前回のコメントの「哀しい」は浅薄な感想だったと思う。
人の一生はひと言では表せない多面性を持ったものなのでしょう。
『禍福は糾える縄の如し』で、光り輝くこともあれば暗闇に没し、地に伏すこともある。
by U3 (2020-04-18 11:57) 

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