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籠の鳥からの飛翔──沢木耕太郎『流星ひとつ』を読む(4) [われらの時代]

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 藤圭子を支えたのは、天性の素質と歌である。しかし、彼女のなかには、いつもおびえと不安、だれかにすがりたいという気持ち、不信感、どこかに飛んでいきたいというような思いが、からみあって渦巻いていた。

 沢木耕太郎のインタビューで、藤圭子は父親のことを話している。

「子供の頃、恐いものは何だった? あなたにとって、恐怖の的みたいなものだったのは」
「…………」

 圭子はしばらく黙っていたが、ようやく父親が恐かったと話しはじめる。

「実の父親なら……恐いといったって、タカが知れてるじゃない?」
「そんなんじゃないんだよ。そんなどころの恐さじゃないんだよ。カッとすると、何をするかわからない人なんだ。怯えてた。子供たちはみんな怯えてた。お母さんも、みんな怯えてた。しょっちゅう、しょっちゅう、殴られっぱなしだった……」
「どうして、そんな……妻や子に……」
「理由はないんだよ。殴ったり蹴とばしたりするのは、向こうの気分しだいなんだ。気分が悪いと、有無を言わさず殴るわけ。こっちは小さいじゃない、何もできないで殴られているの」

 そのあと、父親がどんなふうに殴るかを圭子は具体的に語り、沢木が「そいつは凄まじい」と相づちをうつと、さらにこう話している。

「殴るだけじゃなくて……よく水をぶっかけるんだ。冬でもなんでも、子供たちに、水をぶっかけるの。バケツなんかの水をかけるんだ」
「旭川の、冬に?」
「うん。逆らうと、どんどん荒れるから、泣きべそかきながら、部屋の畳の水を拭いたりして、しずまるのをただ待つんだ」

 父親は酒を飲まない。それなのに何かの拍子で荒れはじめ、子どもたちに暴力をふるう。母親が子どもたちをかばうと、こんどは目の不自由な母を殴ったり蹴とばしたりする。

「どうして、どうしてそんなことをするの、お父さんは」
「理屈なんかないんだ」
「理解できないわけか、あなたには」
「あの人を理解するなんて、そんなことできないよ。できたら、こっちがおかしくなるよ」
「なぜそんなふうな人になっちゃったの?」
「さあ……」
「自分の境遇に不満があって、生活に苛立っていたのかなあ……」
「病気だったんじゃない」
「病気?」
「そういう病気だったんだよ、きっと」
「そうか……そうとでも思わなければ、子供にとっては理解できないことだったのかもしれないね」
「あたしは病気だと思ってた。兵隊に行って、いつも殴られてたって聞いていたから、だから……殴られすぎて病気になったと思ってた」
「血を分けた親子なのにね……」
「親子だったから、恐怖なんだよね。他人だったら、別れられるじゃない。でも血がつながっているから、怯えながらでも、一緒にいなくちゃならないじゃない」

 いまでいうドメスティック・バイオレンスである。家族はなにかの拍子で突然はじまるこの暴力に抗うことができない。ただ凍りつくしかない。
 そんな父親も人前ではニコニコして、いいお父さんねなどといわれていた。
圭子はもし母親が逃げるつもりだったら、一緒に逃げようと思っていたという。だが、母親はずっとがまんしていた。
 圭子がスターになって、そんな両親が離婚したのは、何も圭子の稼ぎをめぐって両親が争ったためではない。暴力をふるう父親から母親を救うためだったという。あたしが離婚させてあげたと話している。
 父親の家庭内暴力が圭子に深い心の傷を与えていたことはまちがいないだろう。その傷は消えることがない。ときどきうずくように広がって、彼女の心をむしばんでいく。

 父親の暴力に怯えながら、圭子(本名、純子)は自分がしっかりしなければと思い、歌手の道を突きすすみ、大成功を収めた。だが、彼女のまわりには、スター(そして、そのカネ)をめぐって人が群がる、華やかで虚飾に満ちた芸能界という世界がひろがっていた。
 28歳で引退する1979年ころでも、藤圭子という名前には年商数億のカネが集まっていた。それだけで、事務所は最低10人を養うことができた。
 お金はあればあるだけ使うし、なければないでいいというのが、彼女の金銭感覚だった。
何十人もの人に、合わせて1000万円以上貸したが、おカネを返してくれた人はたったひとりだったという。ちなみに、そのころの物価はいまの半分強とみていいだろう。
 詐欺師も近づいてきた。この人物はネズミ講のような仕組みでおカネを集めて、銀座の一流のクラブで豪遊していた。カルーセル麻紀の紹介で、会ったことがある。
 3年間、無名の男性歌手と同棲していたことも認めている。
 だれかがいないと、寂しくてしょうがない人なのだ。
 別れた理由は同居している母とうまく行かなかったからだという。
「お母さんにしてみれば、気に入らないのは当然だと思う。その彼は、ろくに仕事もしていないのに娘に絡みついて、いわば転がり込んできた男なんだからね。でも、それは当然なんだからあまり気にすることもなかったのに……」
 そんなふうに沢木耕太郎が聞くと、藤圭子はこう話している。
「デビューして、もう2、3年の頃からそうだったんだけど、あたしには収入があるわけ。並のお金じゃない収入があるわけ。あたしっていうのは、どういうんだろ、持っていると人にあげたくなちゃうの。その人が欲しいというものなら、それがいま、自分のうちで使っているテーブルでもあげちゃう。人に何かしてあげたくなっちゃうんだよ。それが、相手が男の人でも、そうしちゃう。結果的にはそれが悪いんだって人に言われるんだけど。よくない言葉で言えば、貢いじゃうんだ。男の人に支えられるというより……なまじ生活力があるもんだから、逆にしてあげちゃうわけ。その人の場合にも、好きなものを買ったり、みんな自由にしてもらっていたの。でも、いま考えると、そういうこと……働かないでお金だけ自由になるなんていうことを、男の人にさせてしまったというのは、よくないことだったんだよね。それは、ほんとに、悪かったと思ってるんだ。……」
 若い無名歌手と別れてからも、藤圭子の男性遍歴はつづく。ある野球選手(本では匿名だが、小林繁)ともつきあったが、あまりにも自己中心的で薄っぺらな人間であることに気づく。
 そして、歌うこと自体もだんだんつらくなってくる。

「あなたは、初期の頃の自分は無心でよかった、とよく言うよね。確かに歌手としてはその通りかもしれないけど、ひとりの女の子としてはどうだったろう。果してよかったかなあ」
「いいんじゃないかな。それはそれなりに、ぜんぜん幸せだったんじゃないかな」
「いろいろと悩んだり、迷ったり、考えたり……それが人間として普通だと思わない?」
「思わない。こんなに神経質になって、いろいろ細かいことを気にするのは、やっぱりよくないよ」

 藤圭子は歌っても歌っても満足できなくなっていた。考え考えしながら歌っていると、歌うのがつらすぎるようになってしまった。
 10周年の日劇では、舞台に立つのが恐かった。頭のなかがぼうっとして、歌詞を全部忘れてしまいそうになる。それでも、いざ舞台に立つと、そつなく振る舞えるのが不思議だった。
 しかし、夜になると、別の感情が押し寄せてくる。
「すべてが虚しくなって……もう、どうでもいいっていうような気持になって……ぼんやり、死のうかな、なんて思うようになりはじめて……どうやって死ぬのがいちばんいいのかとか、夜になると考えるようになったんだ」
 藤圭子産業は巨大会社だった。その意味では、彼女の業務はひっきりなしにつづいていた。
おじいちゃん、おばあちゃんを前にして、いなかの体育館などで歌うのは嫌いではなかった。しかし、ヨッパライがよろよろ倒れかかってくるような地方のクラブなどで歌うのにはうんざりしはじめていた。
 それで、歌をやめることにした。
 藤圭子は1979年に引退を宣言し、その年暮れにハワイに発つことになる。

「歌をやめるというあなたに、もう余計なことを言う必要もなさそうだな。あとは、健康で、頑張って、と言う以外にないんだけど……」
「だけど?」
「だけど、ひとつ、言うことがあるとすれば……というより、心配なことがひとつある、といった方がストレートかな」
「どんなこと?」
「いま、あなたは、とりあえず仕事を持っているでしょ? たとえそれに満足していなくとも、ぼくたちから見れば、歌っている瞬間に、あなたがキラキラするのを感じることができる。しかし、その仕事をやめたとき、あなたが、その、もしかしたら平凡かもしれない、その生活の中で、煌めく何かを持てるだろうかという……」
「そんなこと、少しも心配してないんだ、あたし」
「でも、普通の人たちは、その人なりに、その普通の生活の中に煌めくものを、何か持っているわけじゃないですか……」
「あたしは楽観している、平気だよ」
「それならいいんだけど」
「たとえば、あたしは歌手をやめるけど、やめても藤圭子をやめるわけじゃないんだ……」

 阿部純子(両親の離婚後は竹山純子)は、すでに家の牢獄から抜けだして、藤圭子としての道を歩んでいた。そして、いままた芸能界という籠から飛翔しようとしていたのである。
 その行き先はアメリカだった。そこにはまた別の世界が広がっているはずだった。

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