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服部龍二『大平正芳』を読む(2) [われらの時代]

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 1972年7月7日に田中角栄内閣が成立すると、大平正芳は2度目の外相に就任した。田中は日中国交回復を急ぐとの談話を発表し、「外交は大平に任せた」と述べた。
 この年2月には、すでにニクソン米大統領が訪中し、米中首脳会談が開かれていた。
 大平はこう述べている。

〈日中両国は、古くから一衣帯水の隣国であり、未来永劫にそうである。好むと好まざるとに拘らず、相互に分別をもって、平和なつき合いをしなければならない間柄である。ところが、日中両国民の間には共通点よりは相違点が多く、相互の理解は想像以上に難しい。しかし、お互いに隣国として永久につき合わねばならない以上、よほどの努力と忍耐が相互に求められる。〉

 7月22日、大平はホテルオークラで、中日友好協会副秘書長の孫平化と会った。孫平化は周恩来首相の指示で来日し、田中訪中に向けての下工作をしていた。中国側も日本との国交回復に前向きになっていたのだ。
 大平は8月11日、帝国ホテルで開かれた日米協会主催の会合で、「細心周到な準備を怠らないで」、日中国交回復を推進していくとスピーチした。日中国交回復は日米関係を阻害するものであってはならないというのが、大平の基本的な考えである。
 問題は台湾との関係だった。8月16日に台湾の大使、彭孟緝が大平を訪ね、日中国交正常化の動きへの厳重抗議を申し入れた。大平は、政治の責任からして、断腸の思いで、正常化問題に取り組まざるを得ないと答えた。
 田中と大平は8月31日と9月1日に、ハワイでニクソン大統領と会見、日米安保条約の堅持を約束した。
 アメリカは横須賀を空母ミッドウェーの母港としたがっていた。ミッドウェーは核を搭載していると思われたが、「核密約」がある以上、日本側からその問題を提起することはできなかった。大平は日中国交正常化後の11月にミッドウェーが横須賀を母港とすることを認めることになる。
 日中交渉で懸念されるのは、中国が安保条約の規定する極東の範囲から台湾を除外するよう求めることだった。だが、どうやらそれはなさそうだったとの確信を得て、田中と大平は訪中を決断した。
 大平は周恩来首相、姫鵬飛外相と交渉を重ね、毛沢東主席とも会見した。こうして9月29日に日中共同声明が出された。田中は共同声明のとりまとめを、すべて大平にまかせ、ただ「軍国主義」という表現だけは避けるよう指示した。
 このときの日中交渉について、大平はこう書いている。

〈共同声明は妥協の産物である。前文で中国側の言分を入れ、本文で日本側の立場を入れたため論理的に矛盾があるが、これにより過去を清算したという所にとり得がある。……安保条約については、中国側は、本件は日米間の問題である故、とやかく言わないという態度で議論の対象にしなかった。……台湾については、中国は自分の見る所では相当長い時間帯の中で考えている模様である。〉

 日中共同声明によって、日本と中国の国交が樹立された。このとき尖閣は大きな話題にならなかった。
 10月、大平は日中国交正常化について説明するため、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、ソ連を歴訪した。
 1973年4月から5月にかけては、ユーゴスラビア、フランス、ベルギーを訪問した。ヨーロッパでは、中国と国交を樹立した経済大国日本への関心が高まっていた。
 7月末から8月初めにかけて、大平は田中とともに訪米した。その直後、8月8日に金大中事件が発生する。韓国元大統領候補の金大中が、白昼、都心のホテルグランドパレスで拉致されたのである。事件は韓国中央情報部(KCIA)によるもので、日韓の外交問題に発展した。
 11月、韓国側はこの事件にたいし遺憾の意を表明し、政治決着がはかられることになった。事件の捜査は抑えられ、日韓関係の安定が優先された。とうぜんながら、野党からは鋭い批判が浴びせられた。
 その前に、大平は9月下旬から10月上旬にかけ、アメリカをはじめとして、イタリア、イギリス、西ドイツ、ソ連を歴訪していた。
 大平は国連総会で演説し、アジアが安定した秩序と繁栄を求める新たな時代を迎えようとしていると述べた。
 大平はロンドンで田中と落ち合い、ヒース首相と会見したあと、西ドイツを経て、最終目的地のモスクワに向かった。10月6日、フランクフルト郊外に滞在しているとき、エジプト、シリアがイスラエルを奇襲攻撃したとの知らせがはいった。第4次中東戦争がはじまったのである。
 モスクワでは北方領土問題をめぐって、ブレジネフ書記長、コスイギン首相、グロムイコ外相と4回会談した。田中は「平和条約の締結の前提には、四つの島の問題がある」と詰め寄ったが、ブレジネフはシベリア開発の問題に論点をずらした。
 それでも日ソ首脳会談では大きな成果がみられた。ブレジネフから、北方領土問題は未解決との言質を得たからである。北方領土問題は解決済みというこれまでのソ連の態度を崩すことができたのは、ひとつの外交的成果だった。
 しかし、帰国後に待ち受けていたのは石油危機だった。ほとんどの閣僚がアラブ寄りの姿勢を示すなか、大平は対米協調を主張した。先進国が高騰を許さないよう結束すれば、産油国は困るはずだと考えていた。
 11月、大平はアラブ諸国の大使やキッシンジャーと東京で会談する。田中は財界の意向を受けてアラブ寄りとなっており、イスラエルを非難する声明を発表する。これを受けて、アラブ諸国は石油の対日輸出を現状維持とした。声明を発表する前に、大平はアメリカの了解を得るよう努力した。
 1974年2月、ワシントンで石油消費国会議が開かれ、大平も出席した。その結果、11月には国際エネルギー機関(IEA)が発足する。大平は単なる対米協調を超えて、石油危機後の安定的な国際秩序の構築をめざしていたのだ。
 訪米前の1月に、大平は北京を訪れ、中国との貿易協定、航空協定、海運協定、漁業協定に臨んでいた。
 最大の難関は航空協定だった。中国は台湾の中華航空と同じ空港に乗り入れるわけにはいかないと主張した。しかし、日本とすれば、台湾航空機の乗り入れを排除するわけにはいかない。
大平は一歩もゆずらなかった。たとえ中国との国交正常化がなされても、日台間では民間の実務関係を維持するのが原則だと述べた。
 大平は交渉決裂を覚悟し、姫外相に別れのあいさつをした。これに驚愕した中国側は折れて、妥協する。その結果、台湾機は羽田、中国機は成田に振り分けるという妥協案が成立した。
 日中航空協定に自民党内右派は強く反発した。青嵐会の議員は、台湾の尊厳を傷つけたとして、大平をつるし上げた。大平は政敵ともいうべき佐藤栄作のもとを訪れ、台湾派を鎮めるよう協力を求め、佐藤もこれを了承した。
 こうして4月20日になって、北京で日中航空協定の調印がおこなわれた。これが外相としては大平の最後の大仕事になった。
 それ以降については、ごく簡単にみておく。
 7月の参院選で田中内閣が敗北すると、三木副総理と福田蔵相が閣僚を辞任し、大平はその穴を埋めるため、外相から蔵相に転じた。
 11月26日に田中は辞意を表明。12月1日、椎名悦三郎副総裁の裁定により、三木武夫が次期総裁に決まった。三木内閣で、大平は蔵相に留任するが、最後まで三木とはかみ合わなかったと語っている。
 1975年2月、アメリカの上院でロッキード事件が浮上し、7月27日に田中角栄が逮捕された。
 12月、三木おろしにより、福田赳夫内閣が発足する。大平は福田を支持した。ただし、2年後に政権を大平に渡すという、いわゆる「大福密約」が交わされていた。
 大平は党の幹事長に就任する。
 その大平について、当時、幹事長室室長の奥島貞雄はこう語っている。

〈大平のあだ名は「鈍牛」。「アー、ウー」という独特の語り口を揶揄されたりもした。だが、私に言わせれば、仕えた歴代幹事長のなかで大平ほど「哲学」を感じさせた政治家はいない。敬虔なクリスチャンでもあり、熟慮の末に言葉を選び、およそ失言の類とは無縁。発言の内側にはじっくり煮込んだ肉料理のような深い味わいが醸し出されていた。発言録から「アー、ウー」を削除すると、見事な名論文になっていた。学究肌の人柄にも驚かされたものだった。即断即決の“コンピューター付きブルドーザー”が田中なら、大平は“行動する哲学者”とでも形容すべきだろうか。〉

 1978年8月には日中平和条約が調印され、10月には鄧小平が来日した。
 10月、大平との約束をたがえて、福田は総裁選への出馬を決意する。11月には「大福決戦」がおこなわれ、68歳の大平が総裁の座を勝ちとった。
 12月7日、第1次大平内閣が発足する。総合安全保障と環太平洋連帯構想、経済中心の時代から文化重視の時代へというのが合言葉だった。外交面ではアメリカ基軸という考えは変わらない。
 1979年6月には東京サミットが開かれ、大平は議長を務めた。第2次石油危機がはじまっていた。大平はこのサミットで、世界の秩序が「壊れやすい陶器のような状況」になっていることを痛感した。
 10月の総選挙で、自民党はかろうじて過半数を維持した。いわゆる「40日抗争」により、大平の退陣要求が強まる。党内は分裂したが、大平はようやく首相の座を維持した。
 そのころ、イランではアメリカ大使館人質事件が発生し、ソ連がアフガニスタンに侵攻していた。
12月には、中国との円借款交渉がまとまった。このとき訪中した大平は、北京の政治協商会議講堂で、「国と国との関係において最も大切なものは、国民の心と心の間に結ばれた強固な信頼であります」とあいさつしている。
 1980年1月、大平はオーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニアを訪問する。環太平洋連帯構想に向けての一歩だった。
 4月には、アメリカ、メキシコ、カナダを回り、カーター米大統領とも会談した。その後、ヨーロッパにも足を伸ばした。ユーゴスラビアのチトー大統領の葬儀にも出席し、5月11日に帰国した。
そのころ、国内の政治状況は不穏になっていた。
 5月16日、社会党が提出した内閣不信任案が可決された。福田派、三木派、中曽根派が欠席戦術に出たためである。
 大平は解散を決意する。
 6月22日に衆参同時選挙がおこなわれることになった。
 公示日の5月30日、大平は新宿で遊説演説した。途中で気分が悪くなったが、がまんして、そのあと4カ所回ったあと自宅で医師による診療がおこなわれた。心筋梗塞をおこしていた。
 虎ノ門病院に入院した大平は、一時回復するものの6月12日に死亡する。享年70歳。
 自民党は6月22日の弔い選挙で圧勝した。
 クリスチャンである大平は、生前、「永遠の今」について、こう記していた。

〈神が「永遠の今」という時間を各人に恵み給うたことは、自分は自分としての永遠に連(つなが)る寄与をするよう期待されてのことではないでしょうか。〉

 神が与えてくれた今という時間をだいじにして、各自がそれぞれ懸命に努力すること、それが「永遠の今」、すなわち歴史につながることだ、と信じていたのである。

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