SSブログ

東大での最終講義──『丸山眞男講義録[第七冊]』 を読む(1) [われらの時代]

img20200516_06512552.jpg
 丸山眞男が東京大学で日本政治思想史を講義したのは、1967年度が最後となった。翌年には「東大紛争」があって、講義が中断されてしまうからである。そのあと長期療養を余儀なくされた丸山は、71年に東大を退職してしまう。
 その最後の講義がどのようなものだったのか、ちょっと知りたくなった。
 この年、ぼくは早稲田大学に入学したばかりで、受験科目の皮相な知識しかなく、専攻した政治学はおろか日本政治思想史とくれば、まるでちんぷんかんぷんだった。いまでも、むずかしい話はよくわからない。あのころはどんな時代だったのかという懐旧の念だけがぼくを引っぱっている。それで、丸山講義録の最終巻を読んでみる気になった。
 講義は1967年10月17日から68年2月1日まで、東大本郷キャンパスの法文1号館21番教室で計24回おこなわれた。授業時間は110分、受講学生は約130名だったという。
 この年度のテーマは3つだった。日本の政治意識の原型、近世儒教の政治思想、思想運動としての国学。
 ハイレベルなテーマなので、はたしてどこまで本書について行けるか、はなはだ心もとないのだが、ともかくも無手勝流で読むことにする。勝手なまとめなので、内容の正確さは保証しない。
「東洋政治思想史講義」と題されて、可能なかぎり毎年おこなわれる講義は、この年、「日本政治思想史講義」と名を改めた。実際、それまでも日本の政治思想を扱っていたからである。それも、ほとんど明治維新以前、とりわけ江戸時代を対象としていた。
 なぜ近代以前だったのか。その理由について、丸山は、制度は代わるけれど、ものの考え方はそれほど変わらないこと、忘れられがちな近代以前を知ることで近代以降を対象化しうること、明治以降の政治外交史は法学部のほかの講座でも扱っているので明治以前を取りあげることにした、などと述べている。
 1964年度が仏教思想を中心に古代から室町末まで、65年度が武士のエートスの発展、66年度がキリシタンと初期の江戸儒教を論じたのにたいし、67年度は儒教、国学を含めた江戸の政治思想が主に取りあげられることになっていた。
 ところが、実際には、67年度は儒教、国学を含めた江戸の政治思想というより、むしろそれ以前に、講義の大半は日本の政治的思考様式の「原型」を論じることに関心が向けられていることがわかる。これはのちに『忠誠と反逆』(1992)に収められる論文「歴史意識の『古層』」(1972)につながる問題意識だったといえるだろう。
 それでは、丸山講義を読ませてもらおう。もっとも粗雑なぼくの頭で理解できるのは、あくまでもわかる部分だけだ。
 最初にモンテスキューの『法の精神』についての言及があり、モンテスキューが自然的、地理的条件を重視していることが指摘されている。思想の持続的なパターンには「領土の大小とか空間的位置、気候、土壌などが作用している」と丸山はいう。
 もちろん風土だけがすべてではないが、風土の影響は案外大きい。それは人の美意識や宇宙像、自然観にも影響をもたらす。
 日本もイギリスも島国だが、日本とイギリスでは思考様式や歴史意識に大きなちがいがある。
イギリスは昔からヨーロッパと一体となって発達し、イギリス人にとって古典といえば、ほかのヨーロッパの国々と同じく、ギリシャ、ローマの古典になっている。その歴史もヨーロッパ全体の歴史と同時性をもっている。
 ところが、「日本は中国から影響をうけるが、歴史的同時性はほとんどない」と丸山はいう。仏教が中国に伝来したのは西暦紀元元年前後であるのに、日本への渡来は6世紀となる。中国で宋学(朱子学)が全盛期を迎えたのは12世紀後半なのに、日本で朱子学が全盛となるのは江戸時代の17世紀初期になってからである。つまり日本は「急激な文化的ショックもなく、大陸民族による大規模な征服も、人種混淆も、古代日本(弥生文化)以来、経験していない」のだ。
 朝鮮と日本のちがいは、朝鮮が中国と陸続きなのに、日本は海で隔てられていることに由来する。中国からみれば日本は「東夷」の国であり、文明の及ぶ最東端に位置している。
『後漢書』や『魏志倭人伝』には倭国の記録がある。倭国は5世紀半ばまで朝貢国だが、3世紀ごろには、すでに西日本を中心とした古代国家が形成されていた。『日本書記』には、4世紀に新羅に侵攻し、任那に日本府を築いたという記録がある。
 丸山はこうコメントする。

〈古代日本は、中国に朝貢しつつ朝鮮の一部を朝貢させるという、独特な位置を占めた。また漢字受容の仕方もちがう。日本はきわめて早くこれを仮名として日本語化した[朝鮮でハングルがつくられたのは15世紀半ばになってからだ]。〉

 日本には大陸文明の渡来以前にすでに何かがあり、その上で文化を受容した、と丸山はいう。弥生式以後の日本文化には、人種、言語、領土、生産様式、宗教意識まで含め、いちじるしい連続性と同質性がみられる。それらは自然にできたものとさえ感じられている。
 しかし、重要なのは、そのことだけではない。「日本の特異性は、同質性を保ちつつも常に世界最高の文化から刺激を受けつづけてきたこと、高度な大陸文化の適当な刺激を受けつつ、しかも同質性を保った点にある」と丸山はいう。
 大陸からの空間的距離があったおかげで、日本は意識的に大陸文化を摂取し、オリジナルな何かを加工して、独自の文化をつくることができた。それは「もっぱら支配層が外国文化を摂取するという形をとり、それが上から下へ、中央から地方へと浸透していった」。
 日本の地理的特徴は、日本が「地理的位置において、完全な閉鎖的自足性を維持するにはあまりに高度の外来文明の刺激を受けやすい位置にある」ことだ、と丸山はいう。それは開かれた共同体社会だといってもよい。外にたいしては開かれていながら、内部では閉鎖性が強いのが日本社会の特質である。
 内と外の区別は、思考様式の二分化をもたらす。内では共同体モラルによる画一的な思考と行動様式が形成され、外は他者からなる見知らぬよその世界である。そのため日本人のあいだではコスモポリタニズムの感覚が育ちにくい。
 日本の思想文化は、外の世界からの文化の摂取と、その修正、同化の歴史といってもよい。摂取によって、土着の内なる等質性は破壊されることなく持続する。古くはいったものは下層に沈殿し、そのうえに外からはいってきたものが積み重なる。外来文化を受容し、修正するパターンが見受けられる。
 停滞でもなく、革命的断絶でもなく、だらだらとした変化がつづくのが、日本の思想文化の特徴だ。体制の切れ目がはっきりしない。
 たとえば明治維新をみても、新しいものが古いものの上に乗って成長発展していくことがわかる。近代日本においても「伝統的なるものと近代的なるものとは矛盾することなく、むしろ補完しあった」。「それはまた持続性と変化性の逆説的結合ということができる」と、丸山は述べている。
 こうしたとらえ方には、さまざまな反論も可能だろう。ウェーバー流の「型」による認識方法に疑問が寄せられてもしかるべきだ。はたして、明治維新をこんなふうにとらえて、納得してしまってもいいのか、という強い懸念も残る。
 だが、いまは講義を聴くときだ。

nice!(12)  コメント(0) 

nice! 12

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント