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近世儒教とその批判──『丸山眞男講義録[第七冊]』を読む(5) [われらの時代]

 丸山はこう述べている。
『論語』が日本にもたらされたのは応神天皇のときとされ、それ以来、儒教は日本の歴史とともにあった。聖徳太子の十七条憲法には、儒教の影響が強い。律令時代の制度もそうだ。しかし、平安時代にはいると、思想界は圧倒的に仏教の支配下に置かれるようになる。
 鎌倉時代にはいると、儒教は復活する。幕府の正統性が求めらるようになったからである。とはいえ、武士全体のエートスは、かならずしも儒教と一致していたわけではない。
 中世を通じ、儒教は五山の禅僧によって継承され、その注釈がなされていた。宋学、すなわち朱子学が日本にはいってくるのはそのころだ。
 しかし、訓詁学としてではなく、統治のイデオロギーとして儒教が脚光を浴びるのは、戦国大名が登場してからである。家臣団の組織化と領国農民の把握が求められていた。
 江戸時代において、儒教、とりわけ朱子学が正統な体制イデオロギーになったといわれるのは、ある意味では正しいし、ある意味では正しくない、と丸山はいう。
 家康は藤原惺窩を引見し、林羅山を登用した。同時に政治的秘書役として、僧の天海や崇伝を採用している。江戸時代を通じて、仏教は宗教行事として武士や庶民のあいだに浸透する。
 しかし、幕府の政治を武断から文治に転換させるイデオロギー的役割をになったのは儒教だった。君父の道を説く現世思想にほかならなかったからである。
 林羅山は朱子学者としてより、一種の物知りとして、4代の将軍に仕えた、と丸山はいう。幕府は教学振興のために儒教を奨励したが、朱子学だけを尊重したわけではなかった。それは6代、7代将軍に新井白石が仕え、8代吉宗に荻生徂徠が重用されたことをみてもわかる。
 湯島昌平坂にあった林家の私塾が、公式に幕府の学問所となるのは、松平定信の寛政異学の禁(1790年)以後にすぎない。
 17世紀半ばには、熊沢蕃山や山鹿素行が幕府によって排斥されている。だが、これは朱子学以外が禁止されたからではない。そのころ、京都では伊藤仁斎が民間儒者として宋学に代わる古学を提唱し、数千人の門人を集めていたが、幕府はむしろこれを容認している。
 朱子学が官学とみなされるのは、18世紀末の寛政の改革においてであり、だからといって、それ以前もそれ以降も、儒教は朱子学しか認められなかったというわけではない。
武家政治はかならずしも儒教の政治理念とは一致しなかった。とはいえ、江戸時代において、儒教は思想や教育の面で大きな影響をおよぼしている。その影響は浄瑠璃や文学などでもみられる。
 四書五経は諸藩の藩校だけではなく、寺子屋や塾などでも教えられていた。その意味で、江戸時代において、儒教はもっとも常識化した教えになっていた。しかし、幕藩体制の崩壊とともに、儒教は教育の中心からはずされていくことになる。
 そもそも儒教思想とはなんだろう。その始まりから分岐と合流をくり返す数千年にわたる複雑な流れをたどるのは困難である。何がほんとうの儒教であり、何がその逸脱や歪曲であるのかを問うのも、意味がないだろう。だいじなのは、江戸時代において、儒教がどのように受け止められていたかだ、と丸山はいう。
 さらに丸山は、儒教は江戸時代には人倫の基本を説いた教科書、あるいは治国平天下の統治原理として受け止められてきたが、たとえば『論語』には、それにとどまらないおもしろさ、いわば人生の知恵が盛りこまれていることにも注目をうながしている。
 それはともかく、江戸の儒教は宋学、反宋学的傾向を含めて、ポスト宋学だったとみてよい、と丸山は論じている。儒教がもっとも活発だったのは18世紀中ごろまで。後半期にも寛政の三博士(柴野栗山、古賀精里、尾藤二洲)、天保期の佐藤一斎、大塩中斎がでてくる。
しかし、江戸も後半にはいると、アンチ儒教の国学が登場するし、安藤昌益や三浦梅園、本多利明、佐藤信淵といった儒教からはみだした思想家が活躍しはじめる。
 そこで、丸山は儒教がもっとも活発だった18世紀半ばまでの儒教的観念がどういうものだったかを述べている。
 基本は「天人相関」の概念だった、と丸山はいう。
 天(自然)には一定の法則と秩序がある。そして自然界と社会関係、人間精神とのあいだには、密接な連関がある。これが「天人相関」である。
 陰陽五行が万物を生じ、化育させる。天地の運行と社会秩序の再生産とは対応している。いっぽうにおける調和の破壊は、他方の秩序を攪乱させる。天子には、この調和を保つという使命が託されている。
 人間道徳の基本は天命にしたがうことである。そのためには五倫、すなわち君臣、父子、夫婦、長幼、朋友の秩序が守られねばならない。これは永遠不変の「自然的秩序」である。
天地が万物を化育するように、徳を積んだ君主は社会のなかに万人を配置し、化育する。それによって、人は五倫を学び、礼的秩序にしたがう。自然界の災厄を防ぎ、宇宙の運動を円滑にするのも為政者の責任である。
 人はまず修身を学ばねばならない。大切なのは、家庭のなかで家父長への恭順(孝)を習得することであり、それがやがて政治秩序(君臣の義)を守ることにつながる。
 程朱学は天人相関思想を理気論によって基礎づけた、と丸山はいう。そこには太極図説にあらわされる独自の宇宙論的形而上学がある。天理が陰陽五行を通じて万物を化成する。それに形を付与するのが気である。たとえば、種から花が生じ、赤子から人が成長するように。
 すべてのものは理と気の結合から成っており、気の作用で差別と運動が生ずる。人間はすぐれた気を受けているから、万物の霊長となる。だが、それでも気質の差があって、それが人品のちがいをもたらす。
 丸山は宋学について、さらに詳しく述べているが、頭がこんがらがってきそうなので、そのあたりは省略しよう。
 いまは朱子学が天人合一の自然的秩序観をもっていたことを理解しておけばよいだろう。
 そこからはまず身分的統治関係を自然とする考え方がでてくる。
天が上にあり地が下にあるのと同様に、君臣の上下が乱れなければ、国はおさまるというわけである。
さらに身分は尊卑という価値判断ともつながっている。聖賢君子による愚民にたいする支配は天命として正当化された。
 しかし、上下貴賤の別が永遠不変の道として正当化されるためには、君は君であり、臣は臣であることが求められる。名と実が離反してはならないのだ。君臣関係や家族的秩序が混乱することは避けなければならない。
 そこからは名分を正すという発想がでてくる。いかに王権が衰微しようとも、正統な統治者はあくまでも統治者でなければならない。
礼的な秩序は、現実の力関係にしたがうことではなく、正統な王に服従することによって保たれるのである。
 幕末にいたって、朱子学のこうした大義名分的な尊王論は、忠誠関係を天皇に移転する役割をはたした。現実にはまったく実力のない天皇を正統な統治者として、大政奉還、王政復古をもたらすことになるのである。
 もうひとつ、自然的秩序の論理からは社会的職分の思想がでてくる、と丸山はいう。各人は天から与えられた場を職分として守ることによって、全体的システムの循環が保証されるという倫理意識である。これは一種の社会分業論でもある。ここでは支配被支配の関係よりも社会全体の相互関係の論理が強調されている。
 江戸時代は職業選択の自由はなく、与えられた身分と職に応じて、職分を尽くすことが求められた。それは被治者にかぎらない。統治者にとっては、人民に仁政をほどこすことが、その職分とみなされていた。
 しかし、概してその倫理は「知足安分」、すなわちおのれの分を知るという消極的態度に停滞しがちだった。そして、身を律して、よき政治をおこなうという統治者の規範は、しばしばゆるみがちだった。
 儒教には易姓革命の思想もある。統治者が仁政安民の義務を怠れば、暴君征伐(あるいは禅譲)を正当とするという考え方である。
 この革命論を打ちだしたのは孔子ではなく孟子であり、そこには王朝の交替を正当化する意図が含まれている。人民革命が肯定されたわけではない。あくまでも暴君を取り除くことが目的だった。
 儒教が理想とするのは、徳ある統治者による仁政である。武力・軍事力の行使、厳しい法と刑による支配は、徳治の理念に反する。
 かくて王覇の弁別がなされる。すなわち王道と覇道。徳による仁政が王道だとすれば、軍国主義ないし権力政治が覇道である。
 しかし、権力は手段であって、それによって安民仁政が実現することもありうる。権は常道に反する非常手段だが、結果的に道に合する場合もある。時に臨機応変で、事の軽重を判断し、すばやく行動することも重要とされる。
 江戸時代においては権道や権謀に相対的に高い価値判断が与えられていた、と丸山はいう。それは覇者を高く評価する考え方にもつながっていた。そのいっぽう、君臣の義を絶対とする思想のもとでは、革命権の主張はむしろ抑えられていた。
 皇室と幕府との関係はどうだったのか。王者・覇者の区別は名実論とも結びついていた。すなわち名のみある帝王と、その帝王からの授権にもとづいて実力ある覇者が国主として領土を支配するという関係。この名実論は幕末になって大義名分論へと転化し、攘夷論と化合し、「尊皇斥覇」の思想に発展していくことになる。
 攘夷論が、儒教における華夷内外の弁別に由来することはいうまでもない。これは自民族を中心とする国際秩序をさすが、もともと中華思想は、武力・軍事ではなく、礼楽を持つ文化にこそ優越性があるという考え方に根ざしていた。中央の支配者が野蛮な周辺民族に文化の恩恵を授けるという意識が強かった。
 しかし、日本では中華思想をそのまま認めるわけにはいかなかった。それを認めれば日本が中国に従属する「東夷」となってしまうからである。そこで日本で「攘夷」が語られるさいには、独特のバイアスがかかってくる、と丸山はいう。
 日本を「中華」とするには、中華思想を逆転的に読み替える必要があった。
 儒教にはさらに「天下」という独特の概念があった。丸山によれば、「『天下』概念は『国家』概念の上位に立ち、世界=コスモスを意味する」。とはいえ、日本では「天下」は世界ではなく、日本全体のことを指し、「国家」とは藩の呼称にほかならなかった。
 とはいえ、天下は基本的に世界概念であり、天下に妥当する道が天道だった。そこからは一視同仁の世界主義が生まれる。
 江戸時代には、天下は天下の天下なりということばが頻繁に登場する(山片蟠桃もよく使った)。天下は一人の天下にあらずという意味が含まれている。そこには公共性の概念とともに、独裁政策への批判意識がはたらいている。
 逆に天に二日なく、民に二王なしという言い方もある(孟子)。これはいわば一君万民思想であり、日本でもっとも早くから摂取された思想である。「十七条憲法」にもこの表現がある。武家社会の発展とともに、この表現はあまり用いられなくなるが、幕末には尊王論とともに、ふたたび登場してくる。
 こうしてみると、儒教思想には両極志向性がある、と丸山はいう。異なった社会的・歴史的文脈におくと、儒教のカテゴリーはいかようにも読むことができるのである。
たとえば、いくら為政者に徳があっても、それだけで仁政がかなうとはかぎらない。君は君たり、臣は臣たりの思想は、君君たらざれば、臣臣たらずということにつながった。さらには君君たらずとも、臣臣たらざるべからずという服従倫理もでてくる。あげくのはてに主君の意に反して行動するのは、かえって主君のためだという考え方も登場する。
 時に忠と孝はどちらが優先するのかという矛盾も生じる。大義親を滅すという考え方もあれば、父は天地のあいだの一人だが、君というものは天下に何人もいるという見方もある。
要するに、儒教思想にはこうした両義性が隠されている、と丸山はいう。
 儒教は一面、現実政治への批判の武器となりうる。しかし、それでも秩序価値の比重がずっと高かった。
 丸山は儒教をこう批判している。

〈[儒教では]秩序の基本的構想自体が、人間の上下関係と親疎関係を基軸とした秩序であって、そうした特殊な人間の秩序づけが秩序一般と等値され、それからの背反は直ちに無秩序──つまりジャングルの法則だけが支配する禽獣世界への転落を意味すると考えられたのである。ここには、普遍的な平等と友愛理念を基盤として、他者との間に関係をとりむすぶこともまた秩序形成であるという考え方、あるいはまた、自他の利害の対立、少くも不一致を社会の出発点とし、そうした特殊利害の間の抗争・妥協・調整のプロセスを通じて、自発的に、いわば下から共同利害が形成されてゆくのも秩序形成の一つのあり方であるという考え方も、はじめから視野の外にあったのである。〉

 ここには儒教思想を批判し、民主主義を打ち立てようとする丸山の視座がはっきりと表明されている。
 修身斉家治国平天下という道徳主義的な統治思想にたいしても、丸山ははっきりと批判している。

〈修身斉家治国平天下というような道徳と政治を直接的に連続させ、また、統治作用を治者による被治者の人倫への教化と見ることは、政治的認識としてあまりに素朴であるだけでなく、一方で政治権力を無限界に精神的領域に侵入させるとともに、他方で儒教の家族内倫理に現われているように、道徳の領域に強制力を伴う統治関係をもちこむ傾向をうむ。こうして、もっとも悪い場合には、権力的強制を道徳的に粉飾し、逆に道徳から内面性をうばって、これを共同体もしくは集団への順応に堕さしめることになる。〉

 そして、問題は、このような秩序観や政治観が、下意識の次元で、いまも残っていることなのである、と丸山は述べている。

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