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儒教の変容と国学運動──『丸山眞男講義録[第七冊]』を読む(6) [われらの時代]

 長々とまとめてきたが、今回が最後である。
 近世儒教の核心が宋学、とりわけ朱子学なのはまちがいないが、日本では18世紀ごろから、この核心である朱子学からの偏差、ないし逸脱が大きくなってくる。その代表者が古学派の伊藤仁斎であり、古文辞学派の荻生徂徠だった、と丸山は述べている。
 いっぽう、儒教そのものは、18世紀半ば以降、藩校や庶民の学校がつくられて、通俗化されるかたちで、社会的に普及していくことになる。
 そして、幕藩体制の流動化とともに、儒教イデオロギーは近代的自然科学の方法と接合(たとえば三浦梅園や山片蟠桃)したり、国際法規範を受容(たとえば横井小楠)したりする方向へと変型されていく。
 丸山は、その変型のパターンを三類型にわけている。その区分けは難解でよくわからないが、ぼく流に勝手に解釈すれば、古学、国学、尊皇思想への変型として理解できるのではないかと思う。
 いずれにせよ、江戸の半ばごろから朱子学は大きな変容をとげようとしていた。その変容がどのようなものであったかを、丸山は少し立ち入ってみていこうとしている。
 ひとつは理気二元論の修正である。貝原益軒は朱子学の理先気後説に疑問を唱え、陽明学に近い立場をとるようになった。伊藤仁斎は朱子学とは逆に気が先にあって理が後にあるという説を唱えた。理よりも気を重視する立場である。
 さらに朱子学では「天理を存して仁欲を滅尽す」というが、江戸儒教ではむしろ人欲や功利に高い意義が認められていた。山鹿素行は欲こそが理性の源という考え方を示している。
 仁もまた仏教的な慈悲や恩などの心情的契機と結びついた。
 政治においても、実際の効果(功利)が重視されるようになる。それがもっとも強く押しだされるのが徂徠学である。儒教は統治術としてとらえられ、個人道徳は統治に役立つかぎり、存在意義を認められる。徂徠の弟子、太宰春台は儒教規範の外面性を主張した。
 さらに統治における非合理的契機の重視がみられるようになる。すなわち、徳治をおこなうには民の人情を把握すべし、あるいは時勢をみよ、というように。ここからは古道にしたがうのではなく、リアルな政治認識をもてという主張がでてくる。
 いにしえと今とでは時勢がことなるというのは、歴史的相対主義につながる。貝原益軒は、古今を通じて変わらぬ自然法としての「綱常倫理」と状況によって変化する「礼法制度」とは区別しなければならないという考えを打ちだす。さらに熊沢蕃山にいたっては、道と法を区別せよと主張する。相対的な法を絶対的なものと混同すれば、教条主義が生ずるという。水土という風土的契機を強調したのも蕃山だ。
 徂徠は「聖人の道」を絶対化した反面、歴史意識を重視した。歴史を知るには、その時代の言語と制度を理解しなければならない。歴史の変遷を無視し、一定の価値基準に立って外から歴史を裁断する方法は、歴史を私物化することになるというのが、徂徠から導かれる教訓だ、と丸山はいう。
「普遍妥当的な『道』も具体的な歴史的条件の変化や地理的・風土的カルチュアの相違を無視しては、空虚な観念論に陥る」といった認識は、「現代の当面している問題や矛盾に直接に対決し、現代の必要に応じた解決の提示への途を開いた」。
 それが蕃山、徂徠、春台の開いた制度論・機構論の方法である。それは海保青陵や本多利明、佐藤信淵などにも継承された。
 とはいえ、こうした経験的観察の方法も、江戸時代においては歴史的所与をなりゆきとして、ありのままに肯定する現実主義に陥りやすい、と丸山はいう。幕府の武家政治はそのまま是認されがちだった。丸山によれば、江戸時代の「自由思想家」は、しばしば「泰平の世」の賛美をくり返している。
 富永仲基は儒・仏・神の三教を批判し、「加上」説を唱えた。それによって、思想のダイナミックな発展をとらえたが、ここからは「今」にたいするいかなる批判も、また未来へ向かっての実践的行動も出てこない、と丸山はいう。それは平賀源内とて同じである。源内には辛辣な社会批判はあるが、その発想は儒教の範疇を出ていないと論じている。
 丸山が注目するのは山県大弐の『柳子新論』である。かれは古代日本の王政をたたえ、幕府政治のもとではそれが失われたとして、王政復古を唱える。大弐は崎門学派から尊王論を継承し、徂徠学派から制度論的発想を受け継いで、両者を結合した。これは聖人の途に依拠しながら、幕府の政治を批判した、きわめて稀な例だった。
 ここからは国学の話になる。「日本の原型の方法的自覚・復元をテコにして、儒仏その他、一切の外来イデオロギーの異端性を暴露せんとしたのが国学運動にほかならない」と、丸山は述べる。
 その思想は反幕的ではなく、むしろ保守的だった。国学の論理は「文学芸術を基盤とし美的価値に依拠するいわば非政治的なナショナリズム」であって、儒仏のみならず、その後も外来の普遍主義を排撃するもっとも協力な論理として今日まで継承されている、と丸山はいう。
 国学運動の意義。それは、ひとつに従来政治的価値に従属していた学問・芸術に自律的創造性が与えられ、人間性の自己主張が登場するようになったこと。さらに、鎖国によって閉じこめられていた精神生活の底に沈殿していた原型的思考が発酵し、外的な思想を空虚なものとして突き崩していったこと。そして、国学運動が江戸後期の儒教の変型とあいまって、日本主義なるものを醸成していったこと。
 国学運動の源泉は(1)契沖らに代表される歌学の革新、(2)山崎闇斎の開いた垂加神道と尊皇主義(日本中華論)、(3)日本の古典への古学、古文辞学の適用に求められる、と丸山はまとめている。
 国学には歌学と記紀というふたつのジャンルがあり、いずれも日本の原型的思考方法を探る試みだった。その志向性を示すのが、宣長の「漢意(からごころ)」にたいする「大和意(やまとごころ)」という言い方である。
 個の自覚をうながすこうした発想は、日本の古道を絶対化する方向に走るため、いっぽうで偏狭な日本主義に陥るが、「他面では、世界像を儒教的なそれから解放した」と、丸山は指摘する。それにより、儒教は規範を外から押しつける説教万能主義、人情を切り捨てる偽善とみられるようになった。
 国学は自然のままの「真心」を尊重する。しかし、その真心とは何かをめぐって、国学者の意見は割れた。真淵にとって、真心とは「直き心」であって、『万葉集』で読まれているような率直、素朴な古代精神を指していた。いっぽう宣長は真淵の「ますらをぶり」にたいし、「たをやめぶり」にかえって人の「真心」をみいだすことになる。
 宣長にみられるのは、修身や治国平天下から歌の心を切り離そうとする志向である。そこからは倫理的・政治的価値から独立した「もののあはれ」という芸術独自の価値基準が生まれてくる。
 宣長は『源氏物語』を、儒者のように淫乱の書とは読まなかった。勧善懲悪的な見方から切り離して、よろずのことを心のままに記した物語としてとらえたのである。人の情(こころ)にかなう「物のあはれ」がえがかれていることこそ物語の真骨頂なのだ、と宣長はいう。
 しかし、国学はひとつのディレンマをかかえていた。国学にとって、古道は古代の天皇の道である。だが、もういっぽうで、倫理的・政治的価値基準から解放された芸術的精神でもあった。こうしたちがいが、日本主義と文人主義の分裂となってあらわれてくる。たとえば平田篤胤には日本主義の傾向が強いし、上田秋成は文人主義に傾いている。
 宣長の政治思想はどのようなものであったか。
 宣長は德治主義の正統性を批判する。それは規範と制度によって人民の教化をはかるものだが、しょせん人情には適合せず、現実には建前だけで空転する。德治主義は、権力への野心をもつ者が権力の簒奪を合理化するイデオロギーにすぎない、とまで宣長はいう。
 宣長は儒教の規範主義的判断を否定し、善悪の彼岸に立って、天皇の正統性と皇統の連続性を主張した。
 宣長にとって政治とは、自然の感情のまま敬虔に権威に奉仕することにほかならなかった。
「政治的なるものを服従者の立場と倫理にすべて還元するのが宣長の基本的な政治的思考態度である」と丸山はいう。上からの治国平天下の道を説く儒者の政治論は空虚で無意味である。
 宣長によれば、人民、行政官僚、摂政関白、将軍を含め、すべての者が上級の権威に無条件に奉仕することが、政治であり、まつりごとなのである。
 天皇はこれら下級者に政治を委任し(しらしめ)、まつりごとをきこしめすことによって、日本に君臨する。臣下も万民も、天皇の御心を心として従うならば、上と下とがよく和合して、天下はめでたく治まる、と宣長は考えていた。けっして幕府否定論ではない。
 平田篤胤らの学派は、こうした宣長の思想を変型し、天皇親政の復古イデオロギーを唱えることになる。
 いっぽう、国学には一種の汎美主義、すなわち美的価値によって世界を包摂する傾向がある、と丸山はいう。汎美主義に立つと、リアルな政治的思考は、さかしらで、不潔な打算と感じられるようになる。ここからは、政治はわが事にあらずという静寂主義的な(無関心な)態度も生まれてくる(それは現実の政治をそのまま認める態度でもある)。
 その反対に汎美主義からは激情的なファナティシズムが生まれ、それはしばしばラジカルな政治行動として爆発する。その政治行動には政治目標や戦略・戦術がまったく欠落しており、慟哭とか恋闕といったロマン的感情にもとづいて非政治的な政治行動がなされることになる。
 国学の斬新さは、儒教や仏教の教学を学問の領域から放逐し、古代言語と文献学の追体験的方法によって獲得される歴史的知識だけに確実な学問的認識を限局しようとしたところにあった、と丸山はいう。没理性的・没批判的な「事実」信仰、あるいは日本古代神話についての無批判的な文献信仰があったにせよ、国学の画期的な意義は否定できない。
「師の説になづむな」という学問的態度を説いた宣長の懐疑的・批判的精神は、新たな学問的認識の地平を切り開いた。しかし、宣長の国学精神は、同時に歴史的・政治的現実を絶対的に肯定するアイロニーとも表裏一体をなしていたのだ、と丸山はまとめている。
 こうして東大での丸山の最終講義は終わった。
 日本には次々と新しい思想が押し寄せてくる。それは新たな火山灰となって積み重なっていく。しかし、その底には思想の古層があり、さらに外来の仏教や儒教がもたらした分厚い蓄積もあり、さらには国学によって再発見された独自の層も沈殿していることを丸山は教えようとしていた。

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