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最高学府の教授に──エリボン『ミシェル・フーコー伝』から(2) [われらの時代]

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 1966年、『言葉と物』がベストセラーになるなか、フーコーはフランス中部のクレルモン大学から出向するかたちで、チュニジアのチュニス大学に赴任し、学生に哲学を教えることになった。チュニジアには2年半滞在することになる。
 このころの最大関心事は『知の考古学』の執筆である。フーコーは必死になって書いた。原稿が完成したときが、チュニジアを去る時である。
『知の考古学』は難解である。歴史分析を人間至上主義的にではなく、考古学的におこなう方法を探った著作といえるかもしれない。ここでいう考古学とは出土品などの研究によって、人類の活動を探るというのではない。言説のかたまりを「思考のひそかな動き」としてとらえ記述することを指している。
 フーコーにとって、歴史は連続したものではなく、断絶したものと考えられていた。歴史分析では、解釈主義もまた避けなければならない。「語られたことを、それがまさしく語られた限りにおいて記述する」のが考古学の方法なのだ。それは構造主義とは異なる。常に人が見ていながら実際には見えていないものを見えるようにすることが求められる。ぼくなどには、よく理解できないけれど、フーコーはそんなふうに思考を重ねている。
 マルクス主義の発展史観や人間礼賛の進歩主義、近代化論は否定され、歴史と現在をとらえる新たな視座が模索されているようにみえる。
 パリでは68年5月に、いわゆる五月革命が発生した。だが、このときフーコーはパリに数日間いたものの、五月革命にはほとんど立ち会っていない。衝撃を受けたのは、むしろアルジェリアでのできごとだった。
 1967年6月、中東では「六日戦争」(第3次中東戦争)が発生した。イスラエルがエジプト、ヨルダン、シリアを攻撃し、ヨルダン川西岸、ガザ地区、シナイ半島、ゴラン高原を占領していた。
 こうしたなか、チュニスでは反ユダヤ人暴動が発生する。ユダヤ人の住む地区で火災がおき、200近いユダヤ人の小さな商店が略奪にあい、シナゴーグが破壊された。左翼急進主義の学生たちも「パレスチナの兄弟」のために立ち上がり、この暴動に手を貸した。フーコーはこの暴動に嫌悪を隠さない。
 このときフーコーは師のカンギレムに「マルクス主義が、この事態に対して機会(そして用語)を提供できたというのは、いかなる歴史の策略(ないし愚劣さ)なのか、と思っています」という手紙を送っている。
 学生活動家たちは、その後も日和見的な政府を批判する姿勢を強めていった。アメリカのハンフリー副大統領がチュニジアを訪問したときには、暴力的な抗議活動を引きおこした。
 しかし、1968年3月から6月にかけて、多くの学生が政府によって逮捕され、投獄され拷問されるのをみるにつけ、フーコーはいてもたってもいられなくなる。学生たちを守る側に立つようになった。
 フーコーは68年5月のパリではなく、3月のチュニジアで、生々しい政治と権力の問題にぶつかったのだ。好ましからざる人物になりつつあったフーコーに、チュニジアの警察は早くフランスに帰国するよう脅しをかけた。それでもかれは、学生の裁判を見守るため、ぎりぎりまでチュニジアにとどまった。
 1968年10月にチュニスへの出向期限が切れたため、フーコーは年末にフランスに戻ってくる。ソルボンヌ大学の教授になる話もあったが、それは実現しない。パリ郊外にある新設のヴァンセンヌ大学で哲学を教えることが決まった。
 五月革命に参加しなかったフーコーは、このころ右派のドゴール派とさえみられていた。だが、ヴァンセンヌの正教授となったフーコーは、講師陣として自分のまわりに左派の哲学者たちを集めた。
 パリではまだ五月革命の余熱が残っている。1969年1月、サンルイ高等中学校の生徒たちが集会で五月革命の記録映画を上映しようとしたところ、当局から妨害を受けた。抗議する学生たちを警察が排除する。開校早々のヴァンセンヌでも、それに同調して、バリケードが築かれた。真夜中、警察との攻防戦がくり広げられる。フーコーは学生たちとともに逮捕され、1日拘束された。
 フーコーは警察による鎮圧行動を激烈に批判する。そのあと、ヴァンセンヌでは集会とデモ、共産党系と新左翼の乱闘、新左翼どうしの内ゲバがくり返される日々がつづいた。
 そのなかでもフーコーは講義をつづける。「性の言説」、「形而上学の終わり」、「生にかんする諸学の認識論」、ニーチェについて。受講する学生は多い。多すぎて、まともな授業ができなほどだ。
 1970年1月、文部大臣がマルクス・レーニン主義的傾向の強いヴァンセンヌの哲学科学生には、教員資格の証明書を与えないと言明する。フーコーは猛烈に抗議する。ヴァンセンヌではまたも学生たちが建物を占拠し、それを警察が排除するというくり返しがつづく。
 フーコーはヴァンセンヌに2年間とどまった。かれにとっては、政治と暴力の季節、波瀾万丈の2年間だった。
 1970年4月、フーコーは師のジャン・イポリットの後任として、フランスの最高学府、コレージュ・ド・フランスの教授に就任することが決まった。だが、ヴァンセンヌでの経験は、かれをすっかり戦闘的知識人に変えていた。
 エリボンはいう。

〈1969年以後フーコーは、戦闘的知識人の形象そのものを一身に具現しはじめる。こうして作りあげられるのは、誰しもが知っているあのフーコー、デモ行進と声明文の人フーコー、《闘争》と《批判》の人フーコーであって、その闘争と批判は、コレージュ・ド・フランスの講座教授の肩書のおかげで、いっそう大きな力と確固たるものが与えられていく。〉

 フーコーがコレージュ・ド・フランスの一員に迎えられるにあたっては、ジョルジュ・デュメジルやジャン・イポリット、フェルナン・ブローデルをはじめとする多くの学者の支援があった。
 教授への選出にさいし、フーコーは『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』から最近の『知の考古学』にいたる、みずからの研究業績を説明し、さらにこれからの講義計画を提示している。それにもとづいて、コレージュの教授会は念入りな審査のすえ、フーコーをコレージュの教授にふさわしいと認め、文部大臣もそれを承認したのである。
 1970年12月2日、フーコーはコレージュ・ド・フランスの大講堂で、最初の講義をおこなう。この日、コレージュのあるカルチェ・ラタン地区は、相変わらず戒厳令下におかれ、保安機動隊が厳しい規制を敷いていた。だが、フーコーの講義には何百人もの人が押し寄せ、古い講堂はすし詰め状態になった。聴衆のなかには、クロード・レヴィストロース、フェルナン・ブローデル、フランソワ・ジャコブ、ジル・ドゥルーズなどの顔もみられる。
 70年12月の開講講義でフーコーはおよそ次のように語っている。
 われわれの文明ほど言説に敬意を示した文明はほかにない。しかし、ロゴス尊重の下には、一種の恐れが隠れている。そのため、この社会では言説の無秩序な噴出を避けるための拘束システムがつくられている。それが禁止とタブー(人はどんなことを言ってもいいわけではない)であり、分割と拒否(狂人の話は聞くな)であり、さらに「禁止を正当化し、狂人を規定する」真理なるものの枠組みがつくられている。言説にはほかにもさまざまな制限原理が設けられている。少なくともこの秩序の仮面を可視化しなければならない、とフーコーはいう。
 哲学の語る真理を批判的、また系譜学的に解体すること。狂気や性現象についての言説、文学や宗教、倫理、生物学、医学、政治、法律に関する言説もまた検証されなければならない。
 フーコーの講義はまだはじまったばかりだ。講義は1970年以降、かれが亡くなる1984年までつづけられることになる。
 エリボンはその講義の様子をとらえた1975年のあるルポを紹介している。

〈フーコーは講義の舞台につかつかと威勢よく、水に飛び込む人のように入ってくると、人々の体を跨いで越えながら教卓の椅子にたどりつき、数々のテープレコーダーを押しやって自分の書類を置き、上着を脱いで、電気スタンドをともし、時速100キロといった調子で発進する。声は力強く、よく届き、ラウドスピーカーで中継されている。……座席は300なのに500人もがすし詰めになっていて、ほとんどすき間がない。猫1匹たりとも脚の置き場があるまい。〉

 フーコーの講義は一コマ2時間で、年に十数回おこなわれた。公開講義なので、誰でも聞くことができる。授業料もない代わりに試験や学位授与もない。コレージュはいわば国立の市民大学なのである。
 そのため立錐の余地もないほど大勢の人が押し寄せ、教卓には山のようにテープレコーダがセットされていた。参加者は講義のあと、それを必死になって回収するのだ。これをみても、ただちに理解できないにせよ、いかにフーコーの講義が人気だったかがわかる。

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