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フーコーの壮絶な闘い──エリボン『ミシェル・フーコー伝』から(3) [われらの時代]

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 1971年5月、『許しがたきもの』というパンフレットが発行される。その裏表紙には、こう書かれていた。

〈許しがたきものは、裁判所、ポリ公、病院、収容施設、学校、兵役、新聞雑誌、テレビ、国家〉

 このパンフレットを出版したのは「刑務所調査集団(GIP)」という団体で、その提唱者はミシェル・フーコーだった。
 この年、2月8日、パリ・モンパルナス駅下の聖ベルナール礼拝堂で、刑務所調査集団の発足を告げる集会が開かれた。
 フーコーは声明を読み上げる。

〈毎日のわれわれの生活にたいして、警察による碁盤目状の警備網が引き締められている。市中の通りで、国道で。外国人や若者のまわりでは、思想言論の罪というものがまたもや姿を見せてきた。……刑務所とは何かを、われわれは知らせたいと思う。すなわち誰がそこへ行くのか、そこでは何が起こっているのか、囚人の生活は、また看守の生活はどうなっているのか。〉

 こうして、フーコーを中心として、刑務所の調査がはじまったのだ。68年5月以降の抗議活動は、警察による多くの左翼活動家の逮捕をもたらしていた。だが、フーコーが問題としたのは政治犯だけではない。普通犯もまた社会システムの犠牲なのではないかと考えていた。
 刑務所ではいったい何がおこなわれているのか。そもそも犯罪とは、犯人とは何なのか。フーコーにとって、刑務所調査集団による調査は、1970年代はじめの大事業となった。フーコーのパートナー、ダニエル・ドゥフェールは、地下組織「プロレタリア左派」(毛沢東派)に属するようになっていたが、かれを含め、党派には関係なく、多くの人がこの団体に加わって調査に協力した。
 1971年12月にはトゥールのネイ中央刑務所で、反抗する囚人たちを看守が激しく弾圧する事件がおきた。リールやニーム、ナンシーなどでも、囚人の暴動が発生し、治安機動隊が投入された。共産党系の新聞は、行政当局にこうした「やくざ連中」に厳しく対処するよう求めていた。
 しかし、1972年1月18日、調査集団は当局による弾圧を批判し、法務省への申し入れをおこなおうとした。フーコーやサルトル、クロード・モーリヤック、ジル・ドゥルーズなど数十人が集まり、法務省にはいろうとするが、機動隊がそれを排除した。3日後、セバストポール大通りでは千人近くのデモがくり広げられた。
 刑務所調査集団は大きな成功を収めた。さまざまな行動が展開されただけではない。刑務所の実態をあばく本も出版される。だが、1970年代半ばになると運動は分裂し、しだいに崩壊していく。
 その間、コレージュ・ド・フランスでの講義もつづけられている。フーコーのテーマは刑務所調査集団の活動と無縁ではない。
 桜井哲夫の『フーコー』によれば、各年の講義内容は次のようなものだった。

(1)1970─71年「知への意志」
最終的な目標は、現代社会の規範を正当化している学問体系の諸関係をあばきだすことだ。今年度は19世紀フランスの刑罰、処罰精神治療について、当時の文書を素材として検討する。
(2)1971─72年「刑罰理論と刑罰制度」
19世紀フランスの刑罰制度の研究。中世の審問と近代の試験との関係。
(3)1972─73年「処罰社会」
19世紀前半の殺人者ピエール・リヴィエールの回想記の分析。古典主義時代から19世紀までの刑罰の諸段階。
(4)1973─74年「精神治療の権力」
18世紀から19世紀にかけて狂気と精神医学はどうのうな関係にあったか。
(5)1974─75年「異常者」
異常者という概念はどのようにしてつくられのか。

 1976年の講義は休講となるが、講義はその後も毎年つづく。講義のほかにセミナーもあった。だが、とりあえず75年までの講義内容をこうして並べてみただけでも、フーコーのコレージュ・ド・フランスでの講義が、刑務所調査集団の政治活動といかにつながっていたかがわかるだろう。
 輝かしい社会の裏面には隠された部分があって、それは社会から排除され、隠蔽され、隔離され、時に抹殺されている。その象徴となるのが犯罪であり、犯罪者なのだった。時の社会を成り立たせている知と権力の実相は、隠されている部分によって逆照射されなければ、ほんとうの姿がみえてこない。こういう発想はいかにも68年の思想を引き継いでいたといえるかもしれない。
 フーコーの仕事はまとめられて、1975年の著書『監視と処罰──監獄の誕生』(1977年の日本語訳では『監獄の誕生──監視と処罰』)となる。この本のなかで、フーコーはジェレミー・ベンサムが設計したパノプティコン、すなわち「一望監視装置」について、長々と説明する。パノプティコンは優秀な監獄装置にとどまらず、現代にも拡張されていく「権力の眼」なのだった。
 だが、ぼくが追うのは70年代はじめのころまでのフーコーだ。そのあとの華々しい活躍については、ごく簡単に触れるにとどめよう。
 何はともあれ、エリボンの「伝記」をもう少し読み進めてみる。
 70年代はじめには、フーコーの生活はすっかり変わってしまった、とエリボンは書いている。フーコーは万人周知の人物、闘士になっていた。その交際範囲、活動範囲も拡大している。
 71年11月27日にフーコーは、これまで論難してきたサルトルとはじめて話を交わしている。この日はパリのアラブ人街で、ある事件をきっかけに人種差別反対の集会とデモがおこなわれていた。
 72年12月16日の抗議活動にも加わっている。アルジェリア人労働者のモハメド・ディアブが警察署のなかで死んだことに抗議するためだ。このときもフーコーは逮捕され、真夜中に釈放されている。しかし、数日後、新聞に報道されて、大きな反響を呼んだ。
 フーコーはいかなる政治組織にも加盟しない。党や知識人が大衆を領導するという考え方はまちがっていると思っている。政治運動に加わるのは、あくまでも個人としてだ。つれあいのダニエル・ドゥフェールが毛沢東派の新聞『人民の大義』にかかわっているため、かれの出る集会にはためらわず参加し、発言はする。しかし、フーコー自身は毛沢東主義者ではなく、むしろ極左の形式主義に批判的だった。
 毛沢東派のリーダー、ピエール・ヴィクトール(本名ベニー・レヴィ)との対談では、裁判という装置について語りながら、毛沢東派の人民裁判という考え方には同意できないと話している。
 フーコーは解放通信社(APL)とも発足当初から関係をもっている。この通信社は、闘争や運動に関するニュースを集めて、広く伝えていた。1973年に発刊された左派の新聞『リベラシオン』はサルトルが主筆を務めていたが、フーコーはこれにも参加している。
 だが、新聞は次第に右翼と同じようにイデオロギーに満ちた左翼キャンペーンを張るようになり、内紛も激しくなって、真実を語ることを旨とするフーコーは落胆を隠せなくなる。70年代半ば、極左主義の時代は終わった。
 刑務所調査集団もすでに解散している。毛沢東派のプロレタリア左派も73年10月には、ひそかに解散した。
 しかし、フーコーは終わらなかった。サルトルの模索する政治革命とは一線を画した、個別の政治活動がつづく。道は分かれる。1977年11月、テロリズムに反対するフーコーは、ドゥルーズともたもとをわかった。ボードリヤールは『フーコーを忘れること』という本を書く。
 1975年には、俳優のイヴ・モンタンやレジス・ドブレとともに、スペインのマドリードにおもむき、フランコ政権が11名の男女に死刑判決を下したことに抗議する。武装警官がかれらを排除し、無理やりパリ行きの飛行機に乗せた。だが、その後もスペインの政治犯を守るための抗議活動をつづけている。
 1975年から84年にかけて、フーコーは実に多くの声明文に署名する。不正の告発をためらわなかった。
 1975年の『監獄の誕生』から1年半後、フーコーは『性の歴史』を刊行しはじめる。
「問題は、人間の性現象についての言説を支えている〈権力=知=快楽〉という体制を、その機能と存在理由において明確にすることである」と、フーコーは書く。
 この本は6巻を予定されている。だが、実際に執筆されたのは4巻分で、生前には3巻しか出版されない。プランも大きく変更され、中世から近代に向かうはずが、初期キリスト教、さらにはギリシア・ローマまでさかのぼり、そこで途絶えた。
 フーコーの政治活動はつづく。1977年には東欧諸国の反体制派を支援した。サルトルとはしばしば連携している。
 1979年にはベトナムのボート・ピープルを支援する運動に加わった。80年にサルトルが亡くなったときは、葬儀に参加し、霊柩車のあとをモンパルナス墓地まで歩いた。
 1978年にはイランのテヘランを2度にわたって訪れ、何本もイランのルポを書いた。パリではホメイニとも会った。翌年、ホメイニがイランに帰国し、イラン革命がおこると、革命を支持したフーコーはメディアから猛烈に叩かれる。
 1981年、フランスではミッテランが大統領選で勝利し、社会主義政権が誕生する。フーコーは裁判や移民問題、死刑廃止について、政権に期待を寄せる。だが、政権との関係はすぐに悪化する。フーコーは、ミッテラン政権がポーランドでの軍事政権樹立による反体制派弾圧を黙認していると批判する。「ポーランドの民衆の闘いと連帯しなければならない」とフーコーは訴える。82年にはワルシャワを訪れ、軍人や知識人、学生と会っている。
 1970年以降、アメリカには講演のためよく出かけていた。とりわけ頻繁に行くようになったのが75年以降である。スタンフォードでもバークレーでも、フーコーの講演があると聞くと、多くの学生が集まり、階段教室はすぐにすし詰めとなった。だが、アメリカ訪問も1983年秋のバークレーが最後となる。
フーコーがニューヨークやサンフランシスコが好きだったのは、フランスとちがって、ここでは年齢とは関係なく、公然と同性愛が認められていたからである。フーコーにとって、カリフォルニアは日当たりのよいすばらしい楽園だった。だが、その楽園にエイズという災厄が襲いかかる。
 1984年6月25日、フーコーはエイズのため、パリのサルペトリエール病院で死去する。享年58歳。その直前、8年ぶりに「性の歴史」の第2巻『快楽の活用』と第3巻『自己への配慮』が出版された。
 フーコーが亡くなったとき、吉本隆明はこう記している。

〈ミシェル・フーコーが死んだ。現存する世界最大の思想家の死であった。……
 わたしたちはフーコーに、ロシア的なマルクス主義とまったく独立に、はじめて世界を認識する方法を見つけだした思想家をみて、心を動かされ、その展開を見つめてきた。だが、勝手な思い込みを言わしてもらえば、フーコーはじぶんの啓示した世界認識の方法の意味のおおきさを、じぶんでおそれるかのように、個別的な分野の具体的な歴史の追究に転じたようにおもわれる。かれのあとに、ロシア的なマルクス主義に張りあう力をもち、それにまったく独立な世界認識の方法を見つけだすことはできない。あるのはたくさんの思想の破片だけだ。
 摂理や決定論や信念の体系とかかわりない世界認識の統一的な方法がありうることを、はじめて啓示したミシェル・フーコーの最初の一撃を、わたしたちはながく忘れることはないであろう。〉

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