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軍隊とインフルエンザ──速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』散読(3) [本]

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 軍隊とインフルエンザの蔓延には深い関係がある。100年前にパンデミックが発生したのは、アメリカでインフルエンザにかかった米軍兵士がヨーロッパ戦線にウイルスを広げたことが大きな要因となった。密集、密接、密閉は軍隊につきものの環境であって、しかも移動がともなったから、軍隊はインフルエンザにとって格好の拡散器となった。
 日本でよく知られるのは二等巡洋艦「矢矧(やはぎ)」のケースである。
 著者によると「矢矧」は1917年2月に呉を出港し、2年近く行動したあと、1919年1月末に呉に帰投している。第1次世界大戦にともなう艦船行動だったが、そのかん一度も戦闘には加わっていない。ドイツ太平洋艦隊がすでにこの海域から追われていたからである。
「矢矧」はオーストラリア、ニュージーランド海域をいわば親善大使のように周航し、基地としていたシンガポールに戻り、内地から派遣される「千歳」と交代することになっていた。
 シンガポールに戻ったのは、1918年11月9日のことである。「千歳」の到着が遅れたため11月30日までシンガポールに停泊した。その間、11月11日に第1次世界大戦は終結した。
「矢矧」の艦長は11月21日と22日に、乗組員の半舷上陸を許した。ところが24日になって、熱性患者が4名発生する。28日には、10名が同じ症状を示していることがわかった。通常の風邪と思われていたが、じつはこれがインフルエンザだった。
「千歳」の到着を受けて、「矢矧」は予定どおり、11月30日午後4時にシンガポールを出港し、マニラに向かった。艦には469名が乗り込んでいた。12月1日には69名に熱症状がでる。さらに2日には新たに50名が発熱し、もはや隔離は不可能となった。3日には看護手も軍医長も寝込んでしまう。そんななか、「矢矧」は速度を落として、のろのろとマニラに向けて南シナ海を進んでいった。
 幸いだったのは、「矢矧」にシンガポールから日本に帰る便乗者がいたことだ、と著者は書いている。かれらはなぜかインフルエンザの免疫をもっており、そのなかにひとりの軍医がいたことが救いになった。こうして、ようやく「矢矧」は12月5日にマニラに到着する。この時点で、469名(うち便乗者11名)のうち約65%にあたる306名が感染していた。
 到着後、重傷者はセントポール病院に入院した。だが、ほっとしたのもつかの間、7日には病院で1名が死亡する。死亡者はその後もつづいた。12月12日の時点で、死亡は累計で35名を数えた。けっきょく、12月20日までに、マニラ到着以前の1名を加え、計48名の死者をだすことになる。
「矢矧」は2019年1月20日にようやくマニラを出港し、30日に母港の呉に戻ってきた。2月1日には呉鎮守府練兵場で合同葬儀がおこなわれた。
 インフルエンザに見舞われたのは「矢矧」だけではなかった。砲艦「最上」は2018年10月上旬、寄港地ペナンで、180名の乗員のほとんどがインフルエンザにかかり、17名が死亡している。
 ドイツのUボートによる攻撃からイギリスとフランスの輸送船を守るために地中海に派遣された日本の第二特務艦隊(旗艦と駆逐艦8隻)からも、インフルエンザによる死者がでている。
 シベリア出兵もインフルエンザとは無縁ではなかった。ロシアのボリシェヴィキ政権を打倒するため、1918年8月、日本はシベリアに兵を送った。出兵当初はまさにインフルエンザの流行期と重なったため、多数の兵士が感染し、命を落としている。
 次に内地に目を転じると、陸軍病院における「流行性感冒」の患者総数と死者数は1918年が8万471人(85人)、1919年が2万1733人(646人)、1920年が3万7698人(1123人)と記録されている(()内が死者数)。しかし、実際の死者数は、呼吸器系疾患やその他による死者数を含めるともっと多かっただろう、と著者はいう。
 海軍の病院でも、状況は陸軍の場合とさほど変わらない。患者は1918年に増加し、1920年には減少している。インフルエンザの患者総数と死者数は1918年が1万6465人(111人)と急増し、1919年が5153人(218人)、1920年が3238人(53人)となっている。海軍でも、呼吸器疾患その他による死者数を含めると、インフルエンザによる死者数は実際にはもっと多かったと推測される。
 当時の新聞は昭和期の戦争報道とはちがい、軍隊での病気の蔓延をことこまかに報道している。流行性感冒の原因が、兵舎の通風、換気、採光にあるという的確な疑問を投げかけた新聞もあった。
 当時は徴兵制で、陸軍では12月1日が新兵の入営期日だった。それを機として、兵舎では新兵に多くの感染者と死者がでた。志願制の海軍とを併せると、日本では、陸海軍で毎年7〜8万人が新兵になっていた。
 著者はいう。
「当時の軍隊は、日本だけではなく、どこでも感染症流行の温床となる危険を秘めた存在であった」
そして「日本では、海外派遣の海軍艦艇やシベリア出兵時の罹患死亡者もさることながら、入営した新兵が入営後まもなく罹患し、死亡する者が少なくなかった」。
 当時は軍隊がインフルエンザの温床であったことを頭にいれておこう。そして、次回は最終回として、1919年暮れから翌年春にかけての第2波(後流行)の状況をみておくことにする。
 パンデミックが1年で終わると信じるのは、ほとんど妄想に近い。

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