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挫折の背景──『革新自治体』(岡田一郎)から(2) [われらの時代]

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 1971年の都知事選挙で2期目の美濃部は圧勝する。
 だが、すでにさまざまな問題で難問にぶつかっていた。
 ひとつは、いわゆる「東京ゴミ戦争」である。
 高度経済成長にともない、東京都のゴミは急増していた。ゴミの焼却率は1971年になっても31%にすぎず、東京23区のゴミの7割は江東区の新夢の島(15号埋め立て地)でそのまま埋め立てられていた。
 東京都は江東区に1975年まで新夢の島での埋め立て延長を申し入れる。これにたいし江東区は反発し、排出されたゴミは、それぞれ自分の区で処理するという原則を主張した。東京都は江東区の主張を受けいれ、「ゴミ戦争」を宣言したのである。
 ゴミ清掃工場をめぐる歴史は1939年にさかのぼる。内務省は9つの清掃工場建設を告示していた。だが、それは実現されず、1966年になって、東京都は杉並の高井戸地区に清掃工場を設置することを決定した。
 だが、事前に相談を受けなかった住民は、この決定に反発し、清掃工場建設に反対する住民運動を開始した。
 美濃部は清掃工場の強制収容を中止して、住民との対話による解決をめざした。だが、説得はうまくいかない。
 江東区と杉並区の対立は激化する。江東区は杉並区の清掃車が新夢の島にゴミを持ち込むことを拒否する事態にまで発展した。
 紛争は長引く。1973年11月に美濃部は対話路線を断念して、用地の強制収容手続きをはじめた。反対派住民はこれに反発し、収容手続き取り消し訴訟をおこした。
 東京都と反対派住民とのあいだで和解が成立したのは1974年11月である。清掃工場の建設計画から工場運営にいたるまで、住民参加を実現するというのが和解の条件だった。実際に工場が完成するのは1982年。そのかん、杉並区以外でも清掃工場の建設が進まず、江東区は重い負担を強いられることになった。
 そのころ東京都は財政問題に苦しむようになっていた。
 いわゆる「財政戦争」がはじまった。
 東京都の財政は1962年以降、赤字が続いていた。美濃部都政になってから、いざなぎ景気によって歳入は増えたが、同時に社会保障費などの増加によって歳出も増え、都の赤字体質は変わらなかった。
それに追い討ちをかけたのが、1971年のニクソン・ショックによる経済混乱である。
 美濃部は都の税収減に対応するため、大企業にたいする法人事業税と法人都民税を引き上げる計画を立て、これに成功した。
 だが、自治省は反撃に転じる。東京都の放漫財政やばらまき福祉、さらには職員の給与が高いことを指摘するキャンペーンを展開し、財界もこれに同調した。東京都による減収補填債の発行も認めなかった。
こうして東京都の財政危機は深刻度を増すことになった。
 加えて、同和政策をめぐる社会党と共産党の対立が激しくなっていた。共産党は都の同和政策が解放同盟寄りだと批判し、それを改めない限り、次の都知事選で美濃部を支持しないと強気の姿勢を示した。
解放同盟をめぐる社会党と共産党との調停が失敗したため、美濃部は一時3選出馬を見合わせるほどだった。
 しかし、1975年3月、自民党タカ派の石原慎太郎が都知事選への立候補を表明すると、市民グループが、憲法改正を平気で主張する石原に懸念を抱き、美濃部に出馬を要請した。美濃部は翻意して、公明党委員長の竹入義勝に3選出馬を表明した。
 選挙結果は美濃部の約269万票にたいし、石原は約234万票で、美濃部が勝利を収めた。美濃部の人気はまだ根強かったのである。
 だが、3選を果たしたものの、美濃部の前途は多難だった。社共の亀裂は残ったままで、財政問題に解決の兆しは見えなかった。そのうえ、共産党は議会で美濃部批判に転じた。
 75年の全国首長選挙で、革新陣営はほぼ全敗していた。公害対策や社会福祉は、もはや革新陣営の専売特許ではなくなっていた。
 公明党が言論妨害事件で活動を自粛するなか、共産党は躍進した。だが、共産党と社会党の対立は激しくなっており、社会党は党内の協会派と反協会派の路線対立もあって、低迷していた。
 1977年3月、江田三郎は社会党を離党し、菅直人とともに社会市民連合を結成する。社会党、共産党と一線を画し、公明党、民主党とともに中道勢力の結集をめざそうとしていた。
 70年代後半、革新自治体の時代は終わる。
 1977年、飛鳥田一雄は横浜市長を辞任し、参院選敗北の責任をとって辞任した成田知巳の後任として社会党委員長に就任する。飛鳥田辞任後の横浜市長には、公明、民社、新自由クラブの推薦する自治省出身の細郷道一が当選した。自民党もこれに相乗りしていた。
 1978年の京都府知事選挙では、7期務めた蜷川虎三が引退し、自民党が京都府政を奪還した。共産党と社公民はそれぞれ独自候補を立てたが、自民党に突き放されるかたちになった。
 そのころ、美濃部都政は財政難に苦しみ、死に体になっていた。東京都は赤字債を発行し、ようやく一息つく。福祉見直しの声もあがったが、美濃部は耳を傾けなかった。
 美濃部は固定資産税の引き上げも検討しようとした。しかし、自治省だけではなく、都庁内部からも反対があって、断念せざるを得なかった。都議会でも、自民党の力がさらに大きくなり、新自由クラブも多くの議席を獲得した。社会党は低迷していた。
 1979年、3期目末期の美濃部は、昇給や手当を求める労働組合と財政再建を要求する自治省とのあいだで板挟みになった。起債もうまくいかず、立ち枯れするように、本人の弁によると「惨憺たる状況のうちに幕を引く」ことになった。
 これ以降も革新自治体は次々と保守・中道系に奪還されていくことになる。
 著者は「革新自治体の時代」が終焉した理由について、こう述べている。

〈今日では財政破綻を挙げる者が多いように思われるが……(中略)、むしろ、当時から言われていたことであるが、社共両党の足並みが揃わず、有権者に不信感が高まったことが問題としては大きいだろう。とくにオイルショック後の不況で革新首長らが苦悩していた際、両党は彼らそっちのけで対立を繰り返した。その様子は人々を幻滅させていったのである。〉

 ぼくは政党の内部事情に詳しくない。だから傍観者的なイメージでいうほかないのだが、基本的に社会党が組織労働者の要求を政府や自治体に伝えて、その実現をめざそうとする労働組合政党だったとすれば、共産党は指導部の方針を党員に伝えて、党員を動かして政治に関与しようとする前衛政党だった。両方の政党は、ともにマルクス主義に依拠していながら、政治運動の方向性はまるでちがっていたともいえる。両者がぶつかる原因は、政党の性格そのものにあったのかもしれない。
 さらに興味深いのは、著者が日本では市民参加型の直接民主主義が生まれず、あくまでも「名君民主主義」にとどまっていると述べているところである。
「名君民主主義」とは水戸黄門型の政治である。松下圭一は、住民集会で住民の要望を聞く首長を水戸黄門、首長が引きつれる官僚を助さん、格さんととらえ、庶民は水戸黄門があらわれるまで悪代官の暴政にたえているという構図をえがいている。
 日本の民主主義にはいまだに水戸黄門待望感覚が根強い。それが青島幸男や横山ノック、石原慎太郎や橋本徹、そして次のだれかを首長に押し上げる原動力になっているとするなら、それはじつに悲しいことだと、おそらく著者は考えている。

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