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三橋俊明『路上の全共闘1968』を読む [われらの時代]

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 日大闘争が燃え盛っているころ、ぼくは東京で毎日うつうつというより、ぼうっとした下宿生活を送っていた。
 早稲田の雄弁会にはいったものの、しばらくして行かなくなり、秋口になって、また部室に出入りするようになった。マルクスやレーニンを読みはじめたのは、このころである。
 すでに1年留年して、ドロップアウトし、ずるずると大学生活をつづけていた。これから何をしていいかわからないまま、のんべんだらりとした、それなりに楽しい毎日をすごして、そのうち実家の衣料品店を継ぐのだろうなと思っていた。
 日大で何か大きな闘争がおきていることはわかっていた。だが、とくに強い関心をもっていたわけではない。日大に20億円もの使途不明金があるのが発覚し、学生たちが当局に事の真相を明らかにするよう迫っていることは理解していた。学生側の主張はとうぜんだ、と思っていた。
 だが、それ以上は進まなかった。傍観者にとどまってしまった。ぼくはまったく活動的ではない。リーダーシップとは無縁で、いつもまわりをうろうろしているだけの情けない人間だ。それでも、日大闘争には、どこか共感できるところがあった。
 日大闘争とは何だったのか。
 その全体像をえがいた著書に、眞武善行(またけ・よしゆき)の『日大全共闘1968叛乱のクロニクル』がある。木で鼻でくくったように全共闘運動を論じた小熊英二の『1968』よりはずっといいと思う。
 ここでは、眞武の著書を参考にしながら、当時の雰囲気をみごとに伝えている三橋俊明の『路上の全共闘1968』を紹介してみることにしよう。
 日大、すなわち日本大学は巨大である。学生数は1968年時点で8万5000人いたといわれる。10年前にくらべ、その数は倍以上に膨らんでいた。全部で11学部あり、その校舎は東京都内各所だけではなく、千葉県、福島県、静岡県にまで広がっていた。
 水道橋駅近くの神田三崎町に本部と法学部、経済学部、御茶ノ水駅近くの神田駿河台に理工学部、歯学部、医学部の日大病院、京王線高井戸駅に文理学部、小田急祖師ヶ谷大蔵駅に商学部、世田谷区下馬に農獣医学部、板橋区大谷口に医学部と板橋日大病院、付属看護学校、西武線江古田駅に芸術学部、千葉県津田沼に生産工学部と理工系教養部の習志野校舎、福島県郡山に工学部、静岡県三島に文理学部三島校舎。こうして並べるだけでも、その巨大さが伝わってくる。
 日大闘争では、こうした各地に広がるほとんどの学部で、学生たちが一斉に立ちあがったのである。それは目をみはるばかりの光景だった。
 発端となったのは、前にも述べたように、4月に国税局の調査で5年間で20億円にものぼる使途不明金が発覚したことだった(不明金の額はさらに膨らみ、のちに34億円にもなることがわかった)。
 学生たちが大学当局に事情を説明するよう求めたのはとうぜんのことである。
 眞武によると、5月18日、経済学部と短大経済学部の学生会(秋田明大委員長)が、使途不明金問題について学生委員会を開催したいと学部当局に申請した。しかし、学部当局がこれを認めなかったため、経短委員会は21日に、これに抗議する討論集会を開いた。
 その集会に集まった20名ほどの学生に、右翼・体育会の学生50人が暴行を加えはじめる。それでも、これに耐えて集会をつづけているうちに、その参加者は300名ほどにふくらんでいった。
 集会は翌22日にも開かれた。法学部、文理学部などからも学生が参加し、その数は450人にふくらんだという。
 そして、23日には日大ではじめてのデモがおこなわれる。三崎町の経済学部校舎からあふれた学生たちは、経済学部校舎からあふれた学生たちは、真相をあきらかにしない大学当局に抗議するため、水道橋駅近くまで約200メートルのデモを敢行した。
秋田明大はのちにこう語っている。
「もみ合っているうちに、押しだされたのか、だれかが外へ出ようといったのか、ともかくみんなで白山通りに出た。自然に隊列になった」
「栄光の200メートルデモ」である。
 それ以降、経済学部、法学部、文理学部で、連日、集会が開かれるようになった。当局ははじめ右翼や体育会を使って、妨害しようとしたが、集会に参加する学生のほうが圧倒的に増えていく。
 5月27日には経済学部前で全学総決起集会が開かれ、全学共闘会議(全共闘)が結成された。そのとき、議長に秋田明大(経済学部4年)、副議長に矢崎薫(法学部4年)、書記長に田村正敏(文理学部4年)などが選出された。
 5月31日、文理学部で800人からなる団交要求全学総決起集会が開かれた。この日、書記長の田村は学生服姿で演説している。大学側は大衆団交要求を拒否した。6月4日、神田三崎町の経済学部前の路上で、全共闘は2回目の全学総決起集会を開き、西神田の本部校舎までデモ行進した。
 6月11日には経済学部校舎で全共闘による3回目の総決起集会が開かれようとしていた。集会を妨害するため、地下ホールには体育会系の学生250人が集められていた。
 当局が正面玄関のシャッターを閉めはじめると、学生たちは素手と旗竿でこれを阻止し、150人ほどが校舎になだれこんだ。そのとき木刀を振りかざした体育会系学生が襲ってくる。
 全共闘の集会には5000人ほどの学生が参加していた。その学生に向かって、石やコーラ瓶が投げ込まれ、さらに校舎の上階から机や椅子、灰皿までが投げ落とされた。バルコニーでは右翼学生が日本刀を振り回して威嚇していた。
 全共闘は態勢を立てなおすため、いったん本部に抗議デモをおこない、ここで秋田議長がストライキを宣言した。
 経済学部での衝突はつづいていたが、ここに機動隊がやってくる。集会に参加した学生たちは機動隊が体育会系学生を排除してくれるものと思い、拍手と歓声で迎えたという。ところが規制されたのは全共闘のほうだった。学生たちは排除され、6人が逮捕された。
 この日、法学部3号館は学生たちによってバリケード封鎖される。このとき法学部3年の三橋俊明は、バリケード作りに参加している。
 かれは、こう書いている。

〈日大の場合、単にストライキを遂行する目的だけで、バリケードを構築し、完成させたわけではなかった。何よりも、いち早く強固なバリケードを作らなければならない理由があった。……
 たぶん今日の深夜に、あるいは明け方辺りに、でなければ周到に準備して数日うちに、日本刀で斬りつけたという連中が、間違いなくバリケードを破壊しにやって来る。日大当局の命を受け、大学運営に楯突く学生たちを、暴力でつぶそうと大挙して押し寄せてくるにちがいない。そう考えられていた。〉

 大学当局が団交要求に応えない場合は、ストにはいることが事前に決められていた。それが当局の暴力的対応を目の当たりにして、法学部3号館バリケード封鎖をもたらしたのである。
 だが、バリケードは防御のためにだけ築かれたわけではなかった。
 三橋はこう書いている。

〈バリケードは、世間との交流を切断したり、自らを封じ込めるために作られたわけではなかった。バリケードは、学校当局に対して要求を実現するために築かれたが、同時に全共闘は、バリケードによって世間に向かってメッセージを発信しようとしていた。〉

 それは何が正義かというメッセージだった。
 日大全共闘は権力とぶつかっていた。権力は正義を守るために存在したのではない。権力は秩序を守るために存在した。だが、その秩序が不正である場合、あるいは不正を隠蔽しようとする場合はどうすればよいのか。
 引き下がるわけにはいかなかった。バリケードはからだを張って闘いつづけるための砦の入り口だった。

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